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平成最後の夏、五十二歳の夏

 生まれて初めて小説なるものを書きました。私事で大変恐縮ですが、子どもの頃、読書感想文やら作文やらを書くことが大の苦手であったのに。その頃に植え付けられた苦手記憶が長年筆を執ることを拒んできたわけですが、実に心境の変化というものは面白いもので、そんな私が40のエピソードからなる連載ミステリーを書くのだから、これは相当の変化と言って差し障りはないでしょう。

 では何故、齢五十を過ぎて、このような無謀な嗜好に取り組むことになったのでしょうか。

 誰にでもきっかけはあるもので、私の場合、“外にすることが無くなったから”。もはやSNSで、今日の出来事や写真映えする画像を撮って共有したり、今日訪れたお店の味や今日観た映画のシナリオがどうのと投稿したり、或いは共有されたり投稿されたりする、そんな情報に飽きてきたから。《で? それがどうした?》と思うようになったから。だから、急にやることが無くなってしまったわけです。電車での移動中や昼休み、寝る前のちょっとした空き時間に行ってきたSNSチェックと発信が俄然無意味な行動になってきたわけです。

 と、こうなって、私の場合、《お前は一体何をしたいんだ?》と自分に問いかけることになります。情報を受け取ったり発信したりすること自体は有意義に感じていたので、これに類する事はしたい。でもSNSのように一瞬で忘れ去られるようなことはしたくない。残るものがよい。それは何か。

 と、こうなって、私の場合、それは美術であり文学であると思うに至りました。でも、さて困った。中学校での美術科の成績は5段階の2。作文や感想文も苦手。《私は、、、、》から先が書けなくて教室で居残りをさせられてばっかり。否が応でも脳が所謂“自己制限パラダイム”をかけてきたのです。

 でも、ちょっと待て。下手だったのは子どもの頃であって、今も下手だなんて誰が決めたんだ? やってみなくてはわからないではないか! そう思って色んなことに手を出すようになりました。素人でもそれなりに完成させられるものを見境無く漁ります。

 まずはプラモデル。子どもの頃、戦艦のプラモデルが流行り私も結構作っていました。よし!と意気込んで買ってきました。私の好きなアストンマーチンDB7。でも箱を開けてびっくり!昔とは大違いでとても複雑なパーツが骨組みに散りばめられていました。マジか。。。いやいやここで負けるな自分!折角買ってきたんだからと組み立て図と睨めっこしてやっと車輪を作って、ディスクブレイキとタイヤを履かせましたが、あえなくここでギブアップ。

 自分が悪いんじゃない!プラモデルが精巧過ぎるのだ! 自分とは不釣り合いのものを買ってしまったのだから仕方ない。で、見つけたのがちぎり絵セット。表紙には綺麗に咲き乱れる満開の藤の花が美しく垂れていました。よし!これならイケル!とまた意気込んで買ってきました。なんとかかんとか数日間かかりましたが、一応完成を見ました。

 これで小さな成功体験を積み(?)、今度は、お店のちぎり絵セットが売られている隣のコーナーに《紙粘土》が! これは大作ができそうだと根拠のない妄想をしてしまって、クレーンゲームで取ってきた人形を見ながら同じモノを造ってみました。紙粘土というのは固まらなければ造作もなく成形でき水彩絵の具やサインペンでカンタンに色を付けられます。固まってから色を付けても良し、絵の具を練り込ませても良しで、これもなんとかかんとか数日間かかりましたが、一応完成を見ました。
 題して《青首大根くん》

 さて、いよいよ、今度は、お待ちかねの、一番苦手な、物書きをすることに。
 私は中学生の頃からアガサ・クリスティー、横溝正史、レイモンド・チャンドラー、原尞、東直己を読んでいましたので、ここはやはり推理小説しかない!思ったことや感じたことを書き綴るエッセイやコラムも良いけれど、きちんと設計して筋道を立てそれに沿って展開するやり方がを得意としているので、物書きもそれに似た形式、つまり推理小説にしたわけです。
 設計に約1ヶ月かかりました。やってみて思うのは、犯行動機は決まっても犯行計画と伏線、登場人物及び相関関係を練っていくうちに話がどんどん複雑になってしまい《一体これをどうやってストーリーに仕上げていけば良いんだ?》というハードルにぶつかってしまうものなんだということです。書いては消し、また書いては消しという作業を数ヶ月かけました。しかし、いきなり全部を一気に書き上げることは無理だと判断し、ある程度の骨組みをざっと書いて、それから、連載という手法を借りてしまおうと思うようになりました。連載で発表してしまったからにはその事実を後で訂正することができません。ですから、発表してしまった事実をもとに骨組みの一部を小出しで作り込んでいけばよいわけです。
 そうやって書き上げたのが「蝉が一匹、力無くジーと啼いた」でした。題名は骨組みを7割がた完成させたときに付けました。

 平成最後の夏、五十二歳の夏。
 志あれば壁は壁でなくなる、なんとかなる。
 諦めずに続けるって大事なんだってことを改めて気づかされた想いです。
 一人でも多くの方に読んでもらえたら、まずは及第点かな。

《蝉が一匹、力無くジーと啼いた》
 

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