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「向き合う」ということ

人と人はどうやっても違う個体だから、完全に理解することは不可能であるーーと、ここまではよく言われることだと思います。完全な理解はできないのだから、相手に向き合って寄り添うことが大切ですよ、と。

じゃあ、「向き合う」「寄り添う」って何?

ことばの定義

向き合う:互いに正面を見て対すること
寄り添う:もたれかかるように、そばに寄ること

Weblio国語辞典-デジタル大辞泉より

いや知ってんねん、というツッコミは聞かなかったことにしておきます。
え、言ってない?そりゃ失礼。

まあでも、定義付けって要るじゃないですか。共通認識を得るためには認識が一致していないと始まらないわけですから。

私の考える「向き合う」こととは。

言葉の意味を知った上で、私の解釈を。
まずは「向き合う」から。
私は、“相手の背景も感情も、言語化されないものを含めて全てを見つめる覚悟を持つこと”だと思っています。感情なんか一つ一つ受け取っていたら自分の身がもたないですし(感情労働っていうやつです。対人援助職はこれで燃え尽き症候群を起こすこともあります)、相手がどう考えているのか・どんな感情を持っているのかを否定しないということが向き合うってことなんじゃないかなぁと。

辛い思いをしている人が、支援者に「死にたい」って言ったとします。支援者じゃなくてもいいかな、その人が信じてみようと思った人とかに言うわけです。
で、打ち明けられた側がびっくりすることもあるんですよね。そんな気配を微塵も見せない人もいるわけですから。不意打ちの「死にたい」に動転して、そこで「そんなこと言っちゃダメだよ!」とか言ってしまう。

その「ダメ」って言葉で、色んな思いが押し込められるんですよね。“この人になら話してもいいかな”とか“こんなこと言ったら否定されるかな”とか色々思いながら発した言葉が、やっぱりダメなことだって言われるので。
話を聞く、ちゃんと向き合う、そう言うからには“頭ごなしに否定しない”という覚悟が必要だと思います。向き合うって、その覚悟を持つことなんじゃないかなぁと。

私の考える「寄り添う」こととは。

向き合うことに続いて、寄り添うことについて。
これは、“言葉だけでなく、あらゆる方法で相手のそばに居続けること”だと思っています。

“言葉だけでなく”としたのは、無言が相手のそばにいる方法になることもあるから。
もちろん、言葉しか取れる手段がないことだってあります。遠く離れた人とは物理的な距離があるし、その時にできることは「私はあなたのそばを離れないよ」と伝えることだけですから。

そばに居ること、居続けることは簡単なことではないと思います。一歩間違えればミイラ取りがミイラになる可能性もあるし、何より相手が思っていることを表に出してくれなければ声をかけることも難しいのだから。
それでも、「何かあったら言ってね」ではなくて「ここにいるからね」と伝えることが、そして相手の言葉や思いを「そう思っているんだね」とアドバイスも否定もせず一緒に持つことが、寄り添うということなのだと思っています。

一番大切なことって?

向き合うことも寄り添うことも、“自分だったら”の視点が無ければ上手くいかないのではないでしょうか。

自分の苦しみを否定される、とか
相談できる人がいない、とか
嬉しいという感情が思い出せない、とか
泣きたいのに涙が出ない、とか
傷の痛みでしか紛らわせられない、とか
どこまでも孤独だ、とか

たとえ自分がその立場に置かれていないとしても、自分だったらもっと上手く対処できると思ったとしても、その境遇にあることで生じる痛みを想像することが、まず最初に必要じゃないかなってずっと考えています。

終わりに

何を分かったような口ぶりで、と思われた方、ごめんなさい。
ここに書いたことは全て、私の経験則でしかありません。鬱で学校に通えなくなり、回復した後も心無い言葉を幾度となくぶつけられ、その中で支えてくれた人と私が言葉を交わしている間に出た一つの答えです。

「ここにいるよ」「優雨ちゃんじゃないと優雨ちゃんの人生を乗り越えてこられなかった」「沢山話そう」と言ってくれた親友、

「無理しないでね」「できることがあれば何でもおっしゃってくださいね」と離れないでいてくれたフォロワーさん、

その他、「あなたは悪くない」「側にいるからね」「楽しいこと考えよう、人間死ぬときは死ぬ」と言ってくれた人たち、

今の私を形作る沢山の言葉をくださった全ての人に、このnoteをもってお礼とさせていただきたいと思います。

2023.03.13
優雨

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