小さな親切とお節介

こんにちは、yuuです。

「小さな親切大きなお世話」とは昔から言われることで、それに近い感覚として「お節介をやく」ことがあると思う。
私は日々、娘たちに対してお節介ばばあ的な存在だろうなと自覚している。

お菓子のゴミが机に置きっぱなしであれば「これどうしてここにあるの、捨てとくよ。次から自分で捨てて」と言うし、テレビ画面に近づいてyoutubeを見ている時は「もう少し離れて見たら」と声をかける。
親として正しくありたいと思って声掛けをしているが、子供からすれば煩いなと思うことこの上ないであろう。この声掛けが正しいかどうかの判断も、微妙ではあるが。

自分をお節介だと思う。お世話好きなほうかもしれない。
ただ「小さな親切大きなお世話」をすることは少ないほうだと思っている。
お節介と小さな親切の違いについて、私の中では結構明確な線引きがなされている。
小さな親切って、本当に悪気なく心から「こうしたほうが良いですよ」と余計なことをしてくれることだと思っているから。

お節介は、相手が煩いと思っているだろうなとか、これ言われたら嫌がるかなと思いつつ、声をかけたり何かやったりすることかなと。
それに対して、小さな親切はそんなこと気にもせず、というか気にするという回路そのものがショートしていたり、その部分にはアンテナが張り巡らされていなかったりして、本当にそうしたほうが良いと思って言ったりやったりすることかなと。

ここまで書いてお気づきかもしれないが、小さな親切をしちゃう人があまり得意ではない。悪気(とまでいかずとも何かネガティブな些細な気持ち)がない分、質が悪いと感じてしまうからだ。
いや~言ってることは正しいけど、今は本当に放っておいてほしい、みたいな状況。この人悪い人じゃないんだけど、今はそれいらないんだよな~的な状態。

自分がこの小さな親切的な何かをしでかしてしまったとしたら、「あ!ごめん、余計だったかも。いらなかったら言ってね、次から気を付けるから」と言いたいとも思っている。
でも、回路やアンテナが自分と作りの違う人に対しては、難しい場合もあるなあと感じている。
それとも、自分が気にしすぎなのか、と思わなくもない。いや、気にしちゃうのが自分なのだが。

自分の好意が相手にとっても好意であるとは限らない、これはコミュニケーションにおいて基本事項として覚えておかねばいけないことだろうと思う。
結局は、小さな親切もお節介も、相手が不快に感じれば自分の中での線引きなんて関係なくなってしまうのだろう。
本当に、いくつになっても難しいと思う。難しいから、コミュニケーションは面白いのだけれど。

娘たちには、この難しく面白いコミュニケーションに向き合って生きていってほしいと思っている。
そう思いつつも、雨が降りそうなら「折り畳み傘持っていったほうが良いんじゃない?」と声をかけ、肉ばかり食べていれば「野菜も食べたら」と言ってしまう。
お節介な母を見て育つ娘たちは、どんな風に大きくなっていくのだろう。
来る反抗期になれば、何を言っても大きなお世話になることを思うと、今から憂鬱だな。

世のお節介の皆様、頑張りましょう。

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