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毎日400字小説「木村一 七十五歳」

 東北の貧しい農村の生まれだった。しかし勉強はずば抜けてできたため、なんとしても進学させるべきという高校教師の奔走により、奨学金を得、生活費はアルバイトでまかなうことを条件に上京する。親の意向で医学部に進んだが、興味は持てず、大学では哲学書を読み漁った。出版社のアルバイトで知り合った別大学の先輩に影響を受け、学生運動に関わるようになる。大きな闘争で逮捕され、そのまま中退した。就職は出来ず、実家からは縁を切られ、学習塾の講師で生活をすることとなる。三十七歳のとき、自分の理想とする寺子屋的な塾を立ち上げるが、経営難で三年ももたなかった。以後、工場や建設現場の日雇い仕事で食いつなぐ。数年前、体をこわして、現在の収入は月八万円ほどの年金のみ。違う人生があったかもしれないと思うことは、死ぬことよりもおそろしい。ゴミで溢れかえる一人住まいのアパートの中で、黄ばんでぼろぼろになった哲学書を今も読んでいる。

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