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【小説】ようこそ、ここはおやすみの国。

いろいろ思うところがあり、迷いすぎてpixivで開催されていたさなコン2に提出出来なかった小説です。いい機会なので、noteをつくってあげてみました。“ブラック企業に勤める僕と先輩が全ての人が眠る世界で淡々と働くはなし”です。



「外、すごいぞ。街に人がいなくなった。みんな眠ってる」
 興奮気味に僕のブースに顔を出した先輩は、まだ半分ほどしか記入のされていない僕の非接触パネルを見てはあとため息をついた。僕が背後をちらりと振り返ると、わしわしと僕の髪を撫でてその人が背中越しに笑うのを聞いた。どうやら、外の様子を見てきたらしい。桜の花びらが先輩の肩に残っていた。外はもう春なのか——巡る季節の中でぼんやりと仕事をしている。僕の中の季節はすっかり色を失ってしまっていた。もう、数えることも億劫なほど昔から。
 僕は先輩を横目にその真白いパネルいっぱいに文字を埋めていきつつ、のめば一週間効果が続く頭痛薬をミネラルウォーターで内服する。先輩のブースの床にも同じ薬の空箱が数箱転がっていた。
 現在、残業十九時間目に突入している。ガラスケースの中のネズミはもう数年も眠らずに活発に動き続けている——仕事は、まだまだ終わりそうにない。
「お前、そんな仕事ばっかりしてたら死ぬぞ」
 先輩が僕の座っていた回転するタイプの椅子をぐるりと回し、半回転したのち僕は先輩の顔をようやく確認した。先輩は僕と違って顔がいい。目がビー玉みたいに大きくて、笑うときに目を細めるとどろりと水っぽいそれが流れ落ちてきそうだ。それから、目尻にシワができる。優しそうなシワだと僕はそれを見て思う。
 その人の長く熱っぽい指がまたわしわしと僕の髪を撫でるので、僕は鬱陶しそうにその手を払う。その反応を見て、先輩はくすりと笑った。
「で、仕事は終わったのか?」
「するなって言ったり終わったか確認してきたり、どっちなんですか。……終わるわけないじゃないですか、こんなブラックな仕事」
「俺たちは末端社員なんだから、諦めて仕事するんだな。まあ、これでも飲めよ」
 先輩は缶コーヒーをひとつ、僕の方に放り投げた。缶は僕の両手をあっという間に滑り落ちて、ガンと歪な音を立てて落ちる。そして床を転がっていく。僕はその缶を追いかけて、やっとのことで両手で拾い上げた。たったそれだけの行動にふうと息が漏れる。最近は運動不足が加速しているように思う。先輩はそんな僕をけらけらと笑っている。
「すまんすまん、お前の運動神経の悪さを侮ってたよ」
 個人のブースはこうやって目の前にあるのだが、全てのPCやモニターは空中に浮かんでいる。僕らの視界では認識することができるが、実際に触った感触のあるものは一つもないのだ。従って、ここには缶コーヒーを置くテーブルはないわけである。僕は毎回、先輩の投げた缶コーヒーを拾う羽目になるのだ。
「本当は、どっかのお洒落なカフェで買ってきてやりたかったんだけどさ、フラなんとかとかいうやつ」
「フラ?」
「前に女の子たちが飲んでるとこ見かけてさ、さくらんぼがのってて、ピンク色のミルクセーキみたいなやつの上にさ、生クリームがたっぷりかかってるんだよ。カラフルなチップがいっぱいかかっててさぁ……お前、飲んだことある?」
「そんな洒落たもの、僕が飲んだことあるわけないじゃないですか。どこの店かわかるんですか?」
「ああ、うちの会社の一階に入ってんだけどさ」
「ああ……」
 僕はぼんやりとした頭でそういえばこのビルの一階にそんなカフェが入っていたことを思い出す。英字で書かれたセンスの良さそうなロゴに、しゅっとした背の高い店員さん。ガラスケースの中には、色とりどり華やかな飲み物や食べ物が並ぶ。ピンクレモネード、シャルロッテ、タルトタタン、チョコレートボンボン——全部自分が食べたことのないものばかり。どんなものかさえ、想像がつかない。
「若いお前なら入ったことあると思ってたよ」
「そんなわけ……」
 僕は言葉に詰まって、それからうつむき自嘲気味に微笑む。毎日通勤しているというのに、気にしてなかった。いや、気にしていなかったわけじゃない。むしろ、いやになるほど意識はしていた。そのお洒落な人たちの輪で囲まれたカフェの前を通るとき、僕はいつも肩を縮こまらせて歩いていた。きっと、僕のような人間がいったら、場違いだと笑われてしまいそうな。そんな、場所。居心地の悪そうな、世界だったから。
「あ、いや……それで? 売り切れてたんですか?」
「いや、店今日は休みだったよ。その店だけじゃない、この辺りの店は全部休業中だよ」
「まあ、そりゃあそうですよね。世界はみんなスリープモードに入っているんですから」
——二〇五〇年。世界は、さらに情報の混迷を極めていた。
 知識をより速く身に付けること。正しいか、そうでないかではない。とにかくまずはこの世界で流れているこれから流行りそうな情報を掴むこと。自分にとって必要な情報だけを取捨選択すること。それが生きていく上で、必要不可欠となっていた。世界は情報をいち早く手に入れ、そしてその波に乗るために、ありとあらゆる開発を進めた。流行っているのは、数秒で映画の内容がわかる映写機、持つだけでその内容が頭の中に入ってくる本、SNSは三十文字までしか投稿できない。どれも情報をいかに速く手に入れることに特化したものばかりだ。
 しかし、それらの流行りは長くは続かなかった。人々は情報の波のスピードにだんだんと疲労していくようになったのだ。疲れた脳では、情報収集やその取捨選択ができなくなった。スピードに追いつけなくなってしまった。
 そんなときに開発されたのが、うちの会社の『スリープモード』だった。
『スリープモード』はゆりかごのようなカプセルに入り、質の良い睡眠をとるための機械だ。これで六時間ほど睡眠をとると、人々の集中力は数十倍になり、しかもまる三日間眠らずに活動することができる。しかも、集中力が落ちることはないというから驚きだ。睡眠時間は長ければ長いほど、その効果は長続きする。最近の社内の研究では、数週間眠り続ければ、半永久的に眠らずに済むという結果が出ている。一部では寿命が伸びるとの報告も上がっているらしいが、それは僕らのような末端社員には回ってくることのない情報なのだろう。
「なあ、俺たちが『スリープモード』を使える日は、くるんだろうか?」
 先輩が空中に頬杖をつきながら、モニターの向こうのガラス窓を見つめている。僕らの目の前、ガラス窓の向こうには数億個のゆりかごカプセルが並んでいる。中では数億人が眠りについている。一度カプセルの中に入ると、スリープモードに入ったそれの中で永遠と眠ってしまう。彼らが起きるためには、それを起動してくれる人間が必要だった。それくらい機械でどうにかならなかったのかと思うかもしれないが、人間とは厄介なもので自分たちの眠りを機械に任せることを不安に思ったらしい。
 まごころのこもった人間の手であなたの眠りをサポートします——それがうちの会社のウリであった。そして、実際にその発想は支持を得たのか、今ではこの睡眠業界のほとんどをうちの会社が担っており、各国から仕事の依頼がある。
 僕たちは、彼らが正しい眠りが得られるようにそのゆりかごの管理を任せられているのだ。
「なあ、どう思う?」
「僕たちは末端の社員ですよ……回ってくるわけないじゃないですか」
「どんな感じだと思う?」
「さあ……無なんじゃないですか。何もない、眠ってるんだから」
「つまんねえやつだな、お前は」
「いいですよ、それより先輩、仕事してください」
「へえへえ」
 先輩は面倒くさそうに顔をしかめると、自分のブースのモニターを見つめた。先輩も三分の二ほどしか埋まっていないじゃないか。僕は目頭を親指と人さし指でぐりぐりと押さえて、またため息をつく。速攻で効果があるうたっている薬だというのに、まだ頭痛は治らない。
「なあ」
「なんですか」
「あの店、開いたら二人でフラなんとか、飲みに行こうぜ」
「ええ……嫌ですよ、僕なんか入ったらすごい嫌な顔されるでしょ」
「なんでだよ、お前別に顔は悪くないじゃん。俺、お前の顔好きなんだよね。一緒に行こうって言ってんだよ。一回くらい、いいだろ?」
「はあ……なに言ってんですか。でもまあ……それ……フラなんとか、おごってくれるならいいけど……」
「ええ、やだよ」
 先輩は肩をぱきぱきと鳴らしながら、大きく伸びをして仕事を再開する。その人の瞳の下の青黒くくすんだクマは日に日に深く濃く刻まれていく。僕はそんな先輩をみつめながら仕事を始める。僕の顔にも同じようなクマがあるのだろうか。最近は鏡を見ていないから、よくわからない。まあ、自分の顔なんて見ても楽しくもないんだけど。
「コーヒー、いただきます……」
「ああ、飲め飲め。甘いやつ、好きだろ?」
「え……あ……まあ……好きですけど……」
「だろ? がんばってる後輩にご褒美くらいはあげなきゃなと思ってさ」
 へこんだ缶コーヒーは思ったよりも冷たく甘くて、それまで沸騰していた脳がゆっくりと冷えていくような気がした。“ご褒美”という響きが頭の中でくるくる回っている。まるで、評価されているみたいな。心が満たされていく感覚がする。
「……おいしい」
「だろだろ? お前が好きだと思ったんだよ。間違えて買っちゃ……あっ」
 先輩が慌てて口をつぐむ。そういうことだろうと思っていたと僕は唇を抑えて笑っているその人のことをじろりと睨みつけて、それから笑った。相変わらず、適当なひとだ。そして、いつもその適当さを隠し切ることができない。まあ、そういうところも含めて適当なのだから当たり前かもしれないけど。でも、この人といるとほんの少しだけ自分も悪くないような気がするから。
「はあ、おわんねえな……」
「はい」
 仕事はまだ、終わりそうにない。ああ、はやく眠りにつきたい。フカフカのダブルベッドで安眠を得たい。

 残業三十二時間目。先輩が仮眠を取っている間に、昼食をとろうと僕は街に出た。簡単な仕事はスマートフォンがあれば基本的にどこにいてもできるから、ちょっとした買い物なら問題はない。
五十階建ての僕の会社が入っているビル。いつもは一階にたどり着くまでの間に、数十回止まって人を乗せるのだけど、今はみんな眠っているから一度も止まることはなかった。こういうとき、人が少なくていいなと僕は思う。
 もともと、引きこもりだった。人と関わることがあまり得意ではなくて、学校ではいじめられっ子だった。だから、中学校以降の勉強はしていない。それでも、ゲームが好きだったから、プログラムを独学で学んだ。そのうち、両親が亡くなったので、求人に出ていた中卒でも採用してくれる今の会社に入った。僕と一緒に百人近くが新しいプログラムのために採用されたけど、残ったのは僕と先輩だけだった。今思えば、それほどにブラックな企業だったのだと思う。僕たちは沈みゆく船から逃げ損ねたのだ。
 仕事は朝六時から働いて、終わるのは二十三時がざらだった。タイムカードは定時で切られており、それでも対価を求められるので僕らは残業するしかなかった。僕らの業績は芳しくなかったけれど、会社自体の成績は右肩上がりによかったので仕事はどんどんと増えた。自宅に帰ることはほとんどなかったから、住んでた賃貸アパートはすぐに解約してしまった。
「はあ、僕の街だ……」
 僕はおぼつかない足取りでぐるりとステップを刻む。耳元から流れるのは、少し前に流行ったポップソング。先輩が教えてくれた。
 時刻は十三時を少し回った頃。いつもなら、ランチタイムと観光でごった返している東京駅。けれど今は人一人歩いていない。みんな眠りについているのだ。今、この時間は僕と先輩以外は眠りについている。いや、今に関して言えば先輩も眠っているから実質僕一人だけが起きている。
 各国は効率よく集中して仕事をするために、情報のスピードに追いつくために躍起になっている。今の流行りはどれほどに上質な睡眠を得られるかという話になっているらしい。ネットニュースのトレンドもそのことばかりで埋め尽くされている。そのための様々な政策が国会で審議されていたとか、そんな本当か嘘かわからない情報が錯綜している。まあ、どちらにせよ僕にはわかりっこないことなんだけど。驚くことに今現在、どこかの国の大統領も、往年のロック歌手も、世界トップの億万長者も、世界はみな平等に睡眠をとっているのだ。それが、どうも滑稽で笑ってしまう。情報に乗り遅れている人間である僕はそんなことばかり考えながら、自分が使用することのないプログラムを作成しているのだ。
 人間が眠っている間の街は、それまでに開発された機械が作動しているので特に困ることはない。強いて言うなら、お気に入りの定食屋が開いていないことくらい。
 僕は下手くそなスキップをしながら、街をかける。今は僕のスキップを笑う人もどこにもいない。ここは、僕の街。僕が王様でいられる場所。無人の弁当屋で適当に弁当を二つ買う。自動精算なので、店を出た瞬間にちゃりんと支払いがすんだ音がスマホから響いた。今月の残高は六千円程度。給料日まであと一週間、保つだろうか。そんなことを考えるが、途中で馬鹿らしくなりやめる。今の僕は家賃も光熱費も水道代も必要ない。会社に住んでいるようなものだし、今の仕事があと一週間で終わるようには思えない。まあもし、仕事が終わり帰ることになったら、どこかのホテルで仮眠すればいい。そういえば、「うち、泊まればいいよ」と先輩が前笑って言ってくれたのを思い出す。そうだ、先輩の家にお邪魔することにしよう。それから、久し振りにビールを飲んで——
「あ」
 気がつけば、僕は会社のビルの前にいた。一階に入ってるカフェ。ロゴのデザインが強くて読めないが、とにかくお洒落だということだけはわかる。さきほど通った時は閉店していたような気がするのだが、今は中に明かりが灯っているのがわかる。だが、しゅっとした店員はどこにもいない。システムが切り替わって、無人営業を始めたのかもしれない。
 僕はしめたものだと思いながら、弁当屋の袋をぶらさげてカフェに入った。
《いらっしゃいませ、お客様》
 機械音の声にそう言われる。僕はもう肩を縮こまらせることなく、ガラスケースの中をのぞく。なるほど、カラフル。ブリオッシュ、ワッフル、その隣に先輩がいっていたミルクセーキみたいな何かが置いてある。
「えーと……フラ……」
 英語で書かれた文字。僕はそれをうまく読めなかったけど、無人だったので別に恥ずかしくはなかった。もううまく喋れずに早口になったり、もごもごとすることもなかった。だって相手は機械だということがわかっていたから、怖くなかった。
「これ、二つください」
 非接触のタッチパネルに触れると、奥の方の機械が動き出す音が聞こえた。
《かしこまりました、少々お待ちください》の言葉の数秒後に《おまたせしました、ありがとうございました》と聞こえ、レジの上に置かれる飲み物二つ。フラなんとか。
 僕はそれをうけとって、店を出る。ちゃりんと音がして、千五百円が財布から出ていく音がするけど、もう残額のことは考えなかった。後一週間だ。これを奢る代わりに、先輩に何食か奢って貰えばいい。
 僕はまたあの下手なスキップでエレベーターに乗り込んだ。これを見た先輩がどんな顔をするか、そんなことを想像するだけで顔がにやけた。とても驚いて、喜ぶに違いない。
「先輩……!」
 先輩はまだ仮眠で起きてきていないみたいだった。ブースは二つ、ぽつんと誰もいないまま。いつもならこの時間には、あの人は起きているはずなのだけれど。僕は弁当屋の袋を床に置いて仮眠室をのぞく。
 二段ベッドが並ぶ仮眠室のベッドの一つ。そこで先輩が背を向けて小さく丸まりながら眠っているのがわかったから、暗い部屋のスイッチを入れた。広い仮眠室の電灯が端の方からばちりばちりと繋がっていって、明かりが灯っていく。先輩が眠っているベッドの真上のライトがついたのは一番最後だった。
「先輩、起きる時間ですよ」
 先輩は何も言わなかった。よほど深く眠っているのだろう、このところ働き詰めだったのだ。仕方ない。僕はにやにやと笑いながら無防備な先輩に近づき、その人の身体を揺すった。
「先輩」
 先輩の身体は僕の手の動きに合わせて、大きくしなやかに揺れた。そして、勢いよくその人の左手がぶんとこちらに飛んできた。かと思うと、そのままベッドのシーツにしな垂れるように転がった。その肌がとても冷たかったから、僕はひゅっと息をのんだ。慌てて引っ込めてしまった手をゆっくりと伸ばして、へらりへらりと笑いながらもう一度その人を呼ぶ。息が苦しい。うまく、呼吸ができない。
「せ、先輩……?」
 先輩は息をしていなかった。
 苦しそうに顔をしかめて、首を抑えながらその身体は硬くなっていた。死後硬直がはじまっていた。買ってきた飲み物が僕の手から離れていって、どさりと地面に落ちた。
「ドジだなぁ、お前」声が聞こえた気がした。でも、運動神経が悪いことを笑ってくれるその人は今、ここで深い眠りについていた。もう、笑ってくれることはない。ひどい幻聴だ。僕は頭を抱えながらそのまま床に座り込んだ。どろりとしたピンク色の液体が足元まで広がっていく。べたつく砂糖と鼻をつく甘い匂い。頭がいたい。薬を飲みたい。はやく眠りたい、でもまだ仕事は終わらないままで。

 気がつけば、僕は空っぽになった先輩の身体と一緒にいた。二人でブースにある小さなガラス窓から霞みがかった月を見つめていた。触れられないあの月。あれもまた僕の視界にしか映らない、触れられないものなのだろうか。接触することのできないあれは、まがい物なのだろうか。
 今夜も街は静かだ。人類は未だ、永遠の夢を見ている。今、目を覚ましているのはこうやってこのブラック企業が生み出した『スリープモード』を稼働している僕と先輩だけ。先輩がいなくなった今、僕一人だけ。僕は先輩の冷たい手をとった。骨張った綺麗な指は確かにここにある。触れることができる、僕も先輩もまがい物ではない。でも、その手が僕の頭を撫でることはない。きっと、もう永遠にずっと。
「ひどい世界だ……そう思いませんか、先輩」
 僕は床に転がっている先輩の横に、同じように寝転がった。そして、顔を覆う。頭が焼けそうなくらいにいたい、目頭がつんと熱くなる。便利になった世界で、僕たちはすっかり取り残されてしまった。最初から手を差し出してくれる人もどこにもいなかった。そうやって、ひっそりとこの世界から消えていった人間がどれほどいたのだろう。彼らを救えない世界に、どれほどの意味があるのだろう。
「だって、こんなにも働いているのに生活はずっと苦しくて……誰も僕らのことなんてみちゃいない。人類が目覚められるかどうかは僕らが握っているっていうのにね」
 ねえ、先輩。この世界は、一体どこに向かっているんだろう。僕たち、何を間違ってしまったんだろう。もっと、うまくやれる方法が、上手に生きる方法があったのだろうか。今となってはもう、遅すぎる話だけれど。
「ああ、でも……たった一度でいいからフラなんとか、先輩と飲んでみたかったですねえ」
 床に溢れてしまったあのピンク色を思い出す。氷のつぶとさくらんぼがピカピカ光って綺麗だった。カラフルなチョコチップクッキーの匂いがまだ僕の指先から香った。
 僕は先輩の身体をずるずると引きずりながら、エレベーターに乗り込む。運動神経が悪く、痩せっぽっちの僕がすらりとしている先輩を抱えるのは重労働だった。額に玉のような汗をかきながら、ふうふうと呼吸を荒くしてなんとかオフィスだった場所の一つ下の階にたどり着いた。そこには一面のゆりかごカプセルが並んでいた。いまや、人類すべてを収納する巨大なゆりかごだ。
「よいしょっと」
 先輩をカプセルの中に押し込んで、それから僕も同じカプセルに潜り込む。スイッチを押すと、目の前に広がる淡い光。機械が柔い熱を帯びて、眠気を誘う。
「先輩、僕たち……やっとカプセルに入れましたね」
 ああ、やっと。やっと、眠ることができる。じんわりと滲む視界を拭いながら、僕はゆっくりとクマで青くなっている自分の目を閉じた。あんなに薬でも治らなかった頭痛から、だんだんと解放されていく。僕は深いため息とともに先輩の手を強く握った。おやすみ世界。ゆりかごカプセルの起動スイッチを押すものはいない。もうどこにも。
 そうして人類は永遠の眠りについた。

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