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インドで10日間瞑想合宿して5%くらい悟った話 Vol.2

2日目
昨日のビデオ説法で言っていたように鼻を通る空気にひたすら集中。すると次第に呼吸に意識するという感覚がわかって来た。しかし、目を瞑ってしばらく経つと頭の中は相変わらず思考の嵐が吹き荒れる。気付けば次から次へと思考が飛び飛びに移り変わり、全く関係ない無いとこへと辿り着いている。特に呼吸に集中出来ているのを感じると、頭の中のリトル中尾が「ええやん、ええやん!呼吸に集中しとるじゃんか!」と囁いてくるせいで集中は途切れ、いい流れを断ち切ってしまう。

しかし少しずつ、だが確実に、慣れてきいている。痺れる足を崩す回数も確実に減ってきていた。

ティーブレイクの時間になり、熱いチャイを楽しんだ後、屋上は上がるも、この日はガスりがひどく、やや雲が出ていたため残念ながら夕日を拝むことができなかった。それでも水鳥が集まり羽を休める姿を眺めているだけで、張り詰めた緊張のようなものがゆっくりほぐれる様な気がした。

ボーッと座っていると下から男が僕に何やら声をかけてきた。ヒンディーなので理解できなかったが、手招きで降りてこいと言っているようだ。男はここの施設の管理をしているマネジメントの1人でしきりに「No、no」と言っていた。 

「上に登るなって事?」と聞くとうなずき、敷地内に貼られている緑の仕切りを示す。この仕切りは男女エリアを隔てる仕切りで、それを見て意味を理解した。仕切りによればあの屋上は女性側のテリトリーとなる。

「あの屋上は女性エリアに属するから男性は入れない?」 

と尋ねるとYesと頷いた。マジか。ここで見る夕陽がこの刑務所のような生活の唯一のささやかな楽しみだったのに、この屋上を奪われたら本当に刑務所じゃないか。いや、少なくともアンディとレッドは、運動場でキャッチボールをしていたし、図書館、映画を見るシアターが出てきたから明らかにショーシャンク刑務所の方がいい暮らしだ。(参照:『ショーシャンクの空に』 めちゃめちゃいい映画だからみんな見て) ここだけは奪わないでほしい。必死で訴えると「講師に聞いてくれ」と男はオフィスに入っていった。

6時、いつものように目を瞑り懸命に呼吸に意識を集中するとあぐらを掻いた足の痺れが全身に広がっていくのを感じた。ゆっくりと全身の感覚が奪われていく。そして身体が下へ下へと落ちていくのを感じる。まるで水の中に落とされた岩がゆっくりと沈んで行くように。下へ、下へ。底に着いたのか、1分ほどのフリーフォールは終わったが自分の肩から下がどんどん重くなっていく。どこを向いているか分からなかったが、頭と膝の上に置かれた手だけが唯一認知できた感覚であった。まさにデスタムーア最終形態(参照:ドラクエ6) のような状況である。

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  『ドラゴンクエストモンスターズ』より        

動こうと思っても身体が動かない。眼も開けられない。まるでヘビーなインディカを食らったときのような感覚と表現した方がピンとくる人もいるかもしれない。しかし気分としては悪くない。 「あ、俗にいう金縛りってやつかこれ」 「メディテーションハイのようなものなのかな」など考えながら、手を動かそうとすると少しずつ指を動かすことができるようになってきた。やっとのことで眼を開けると、身体の主導権を取り戻せた。どうやらこれはvipassana とは一切関係ないらしいが10日間の期間中にこの後も数回経験した。

その日のビデオはコースの規律でもある五戒(仏陀はシーラと呼んだ)についてであった。このモラルは五つの行為を禁ずるものであったが、これらの行為は精神の中の不浄なものを掻き立てるから行っては行けないと語った。

「生き物を殺す行為は怒りや憎しみ、盗みは強欲、嘘はエゴ、性的なものは情熱や嫉妬を掻き立てる。そして陶酔作用のある薬物は自己をコントロールする能力を弱め、先の四つに手を染めてしまう可能性があるからだ。これらのネガティブなものは精神を汚し、瞑想の目的である精神の浄化の真逆の行為である。」

9時になり面談の時間。講師に屋上で夕日を見る許可について懇願、しかしこちらの主張をする暇も与えられず、却下された。

3日目
呼吸に意識を集中する事に慣れてきて、自分でも落ち着いてきていることをだんだんと感じてきた。嵐のような思考の連続も少しずつ収まり、純粋に呼吸だけに集中することも数分間続けられるようになってきた。鐘が鳴るまで絶対に動かない、そう自分に言い聞かせ遂に瞑想を1時間丸々足と手を動かさずじっと耐える事に成功。少しずつしかし確実に進む進歩を感じ、1日目ほど瞑想に対する苦痛の意識は減ってきていた。

この日から講師は、

「呼吸に意識を集中させ続けると何かを鼻のあたりに感じるはずだ。それを感じろ」

としきりに説いた。確かに意識を集中させると上唇と鼻の間になにか、くすぐったいのと痒いのと間のような奇妙な感覚を覚えた。風でなびく草のような、何かが動くような感覚を肌の表面に感じる事が出来た。

瞑想の時間にはグループ瞑想というものが1日に1セッション設けられていた。これはいくつかに区切られたグループに対し講師がヒアリングを行い、その後、グループみんなで瞑想するというもの。左隣に座る石橋はグループ2に属し、グループ2が呼ばれると前に出ていった。

訛りが強く少々難解な講師の英語は、英語が得意な僕でも首を傾げる事が何度かあったものだったが、加えて英語のそこまで得意でない石橋とはコミュニケーションは困難を極めた。

「お前は呼吸に集中させ、鼻のあたりに何かを感じたか」

講師による質問が石橋に浴びせられたが、石橋は「“ノーイングリッシュ、ドントアンダースタンド”」で応戦。おそらく石橋はビデオ説法、講師の話を含めたセオリーの部分は殆ど理解しないまま座り続けているのだろう。

昼休憩。昨日の夜に何もこちらの意見を言わせてもらえず、このまま引き下がるわけにはいかなかったので、夕日の件について再交渉に出る事にする。

「前回は、僕の話を聞かなかったから一度僕の話を聞いてくれ。それでもダメなら諦める。今ここでの生活の規律は遵守している。娯楽も何もない生活もやっている。この生活であの夕日だけがただ唯一の、ささやかな喜びなんです。夕日を見る事は何も五戒には反さないはず。」

と僕の渾身の訴えにも、「異性の隔離は絶対だ。」だと敢え無く棄却された。「ただし10日目は特別に屋上に上ることを許可しよう」との妥協案をくれ、引き下がる事に。

この日のビデオ説法。
世の中全て、この宇宙は原因と結果の連鎖が連なって回っている。その中で仏陀は世の中もの万物は例外なく変わり続けると悟った。この世に不変なものなどないのだ。今日までの三日間は瞑想の基本に過ぎない。明日からは本格的なVipassana 瞑想を始める。お前たちは自分の身体を媒体として介し、この自然の摂理を体感する。今日鼻の辺りの三角形に感じた感覚を忘れないように。」

4日目
講師はこの日のビパッサナー瞑想の説明を始めた。
「呼吸意識を集中させたら次は全身に意識を集中させてゆけ。少しずつ少しずつ。昨日までに鼻の辺りに感じたような何かを身体の表面に感じるはずだ。くすぐったい、熱い、振動、痒い、あらゆるどんな感覚でもいい。しかし感じでも何も反応せずただ観察だけする。何かを感じたら次の部位へ感じたら次の部位に移ってゆき全身をくまなく見てゆけ。” Only observe, Just observe” (反応せずに、ただ観察するのだ)。」

言われた通りに脳天から足に向かって少しずつ意識を動かしていくが、これに関しては何もわからなかった。何をどうすればいいのかわからないまま悶々としていると頭の中に色々な考えが飛び込んでくる。

その中でも段々と邪な考えが浮かぶ事が多くなってきた。でも、言わせてほしい。ここまで禁欲的な生活をしていると僕たち残された唯一の娯楽は僕らの頭の中のイマジネーションなのである。目を瞑っていたら意識なんぞしなくてもそりゃ思い浮かんできちゃいますよ。そんな煩悩マックスな状態で繰り返される妄想に我がムスコはいつも以上に敏感なレスポンス。

お前、これまで肝心な時に全然反応しないくせに!!今までにそう言う場面で何度、心の中の丹下が叫んだことか。

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       漫画『あしたのジョー』より          

立ち上がりは萎え、また立ち上がりは萎える。繰り返されるイチモツスクワットに授業終わりのチャイムの度、机を立つときに前屈みになっていた、全盛期の中学2年次を彷彿とさせ、そんな彼に無限の可能性を感じた。

次そういう機会が有ればその調子で頼むぜ相棒。

昼休み部屋にいると石橋が遂に話しかけてきた。

「グループ瞑想の時に横で通訳としてついてきてほしい」

 
ここまで完璧にNoble silence を守っていた僕は、なるべくそれを崩さぬよう目を合わさずokと首を縦に振った。その後すぐのグループセッションでグループ2が呼ばれた時に僕も石橋に続いて立ち上がり横に着く。     

「英語が理解できないから通訳をしてほしいと言われた」と先生に告げると「いいから席に戻れ」と僕だけ席に返された。石橋を残して席に戻ると講師が石橋に尋ねる。

「お前は何かを感覚を感じそれをただ感じることができたか」

“sensation”(感覚)という単語が聞き取れず困惑する石橋に、講師は果敢に問いかけ続ける。石橋も理解してかしてないかはわからないが ”Yes“ と返すと講師は続けた。

「痛い、痒い、熱い、痺れる、振動、どんな感覚でもいい。感覚を体中で探し、感じろ。しかし“Just observe, don’t react”(ただ観察し反応するな)。体の中の感覚は生まれては消えていく。ただそれを繰り返していることを感じるのだ。しかし反応しない。川辺に座って川を眺めているのを想像してごらん。何かが川上から流れてくる。お前は川に入ることなくそれをただみているだけだ。」

石橋の曇った顔を見て講師は“Tamagawa river”と言い出した。この馴染みのある川の名に石橋も「タマガワリバー!Yes、アンダースタンド」と声を上げた。実はこの講師以前に来日経験があり川崎と埼玉に2か月間ほど住んでいたそうだ。石橋が川の流れの話をどの程度理解したかは分からないが二人の間には”Tamagawa river”という共通認識は生まれたようだ。

この日のビデオ説法。
Vipassana 瞑想でお前たちは万物が変わり続ける事を自分の身体を媒体に経験として学ぶのだ。感覚を研ぎ澄まし、小さなあらゆるセンセーションを感じ観察しなさい。観察し続けるとそれが時と共に消える。生まれては消え、生まれては消える。身体の中でそれ繰り返されているのを感じ、仏陀が説いたからでなく、自分の経験で世の中のものが変わり続けるというのを知りなさい。経験を通じた知恵が一番大事な知恵。」

この話を聞いてピンときた。昼間に起きていたVipassana勃ちも確かに立ち上がりは萎えるを繰り返していた。それはまるで寄せては返す波のよう。猛るムスコ、涸れるムスコもまた自然の摂理に生きているのである。

ビデオ説法が終わってから次の瞑想までの間、強がったぎこちない笑顔をで取り繕う石橋が僕の部屋に姿を現した。ここ何日か石橋と寝食を共にしてて、段々と石橋が無理をしているときの顔が分かるようになってきた。

「俺明日の朝出ていく。ここから1週間野宿して過ごすわ。周り森あるしなんかいける気がする。」

不自然にまではきはきと笑顔で言った。やはり、講師の話、ビデオ説法を理解できずに座ることは相当な苦痛であったのだろう。これには流石に沈黙を破り答えた。  

「そうか。止めはしないし、俺は残るよ。もしいくなら集合はRajgirのホテルでコース終了日に。」

「終了日の朝にここに戻ってくるから。この後の面談の時間に講師に言ってくる」

「ok」

目を合わせずに無愛想にそう答えた。

そのあとの瞑想の時間、石橋との会話が気になり呼吸に集中すらできなかった。目を閉じるとあの会話が繰り返しなる鐘のよう響いてきた。「居なくなってもちゃんと1週間後に無事再会出来るだろうか」など考え、気づくと終わりの時間を告げる鐘が。確かに。人と話すと集中できないってこのことか。その後9時の面談の時間、講師の方から石橋とは俺を残るように言ってきた。最初に俺が呼ばれ「石橋とはGoogle翻訳を使い面談するから関わるな。noble silence を破ってはならない」と。その後、石橋が呼ばれ個人面談は始まった。

5日目
その日の朝、鐘の音で集まると左隣には石橋が毛布にくるまりながら胡坐をかいていた。良かった、踏みとどまったみたいだな。正直、石橋がリタイアして野宿するという展開もめちゃくちゃ面白いとは思ったが、やはりそこに石橋がいてホッとした。その日も懸命に身体に意識を集中させると身体の表面に痒みや振動、鼻のあたりに感じたなんとも言えない感覚を感じ始めていた。またそれらの感覚もまた、ただ待ち時間が経つことで消えていく自然の摂理が適応することも文字通り身を持って体験した。この日も1時間の瞑想セッションの際、蚊に刺されようがどこかが痛かろうが座り続けようと断固たる決意を決め臨んだ。これらの痛みや痒みも一瞬のもので時が経てば消えてゆく自然の摂理の中に存在するのだ。それらの感覚を感じながらも反応せず“Only observe”(ただ観察)する。「痛い」のでなく「痛みがある」、「痒い」のでなく「痒みがある」のである。こうしていると一つのことに気付いた。瞑想も同じではないか。1時間耐えるのでなく、1時間時が経つのをひたすら待つ。今までは終わりを告げる鐘の音を「まだか、まだか」と求めて耐えていたが、今回はこれまでと違い、時間や鐘を気にしないようにただひたすら身体の感覚を探り続ける。カーンカーンカーン。すると今までよりもうんと楽に1時間の座り込みが終わった。60分間じっとして動かないということを難なく終えた僕はなんだか晴れやかな気分でビデオ説法が上映される下の階へ降りていった。

その日のビデオ説法。
「宇宙に起きるすべての事象は原因と結果の連鎖にある。そして世の中のもの全ては小さな分子の集合体であり、人間もその例外でない。仏陀はこのことを知っていて、あらゆる現象に対して人間の分子が反応していることに気付いていた。原因と結果の連鎖が人間の体にも起こっており、なにか事象に対してこの小さな分子が反応し始める。その反応が心地よいものであれば人間はもっと欲しいと反応する。それが好まないものであれば人間は避けようと反応する。それらが人間の渇望の根源なのだ。もっと欲しい。これから逃れたい。これら渇望はやがて、不満を生み出し、苦しみ、惨めさを生み出す。そして苦しみ、惨めさを感じることでよりそれを強く意識し、それらはどんどん大きくなっていく。こうなってしまうと負のスパイラルに嵌り、人は不幸せにかんじてしまう。ではどうするべきなのか。全てを受け入れ、“Just observe”(ただ観察するのだ)。するとどうなるか。万物は変わり続け永遠なものなどないのだ。反応せずそれがやがて消えるまで “Only observe, just observe”(ただ観察しなさい)。明日からは頭の先からつま先、体の隅々までスキャンする様に暫時的に意識を移動させてゆくのです。何往復かしてくうちにその中に感覚が感じられない、曇った部分があるだろう。その場所に少し長く留まり、注意深く感じるのだ。丹念に、絶え間なく、忍耐強く続けなさい。」

瞑想の苦しみから逃れたい一心で渇望していた終わりの鐘の音は、まさしくその瞬間が苦痛である事を意識させるものであった。終わりの鐘を意識すればするほど耐えている時間は苦しさを増す一方だったのだが、現状を受け入れそれに対して反応せずただ時を待つことで楽に終わった経験を、まさしく説法のなかで言語化され深く納得した瞬間。

ゴーダマ先輩、僕、多分、ちょっとだけ悟っちゃいました。

―続くー



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