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赤信号、貴方は渡りますか?

倫理か法か

「赤信号、みんなで渡れば恐くない」そういった集団心理の話をしているのではない。

想像してみてほしい。真夜中二時。周りには人影一つない静寂の中、見通しの良い大通りの前に立っている。反対側に渡りたいのだが横断歩道は止まれと示す。見渡すと車のくる気配は一向にない。

この状況で貴方は、自分の判断を優先し信号に背き通りを渡るか、それとも「良し」が信号機から出るまでキチンと待つか。

この問題は貴方が自分の倫理観に従うか、法(規則)を重視するかのリトマス紙として僕がよくする質問だ。


事の発端は高校からの友人Nと「罪と罰」について語ったことからだった。

悪徳高利貸しの婆とその妹を惨殺した主人公ラスリーニコフが精神的に追い詰められ苦しんだのは、自らの倫理的範囲を踏み越えた故に背負った罪悪感からか、それとも法を犯し警察に追われている焦燥心からか。

この問いに対して僕は前者、倫理を理由とし「法は人々それぞれが持つ倫理観を平均化させ集団生活をする文明社会に適応したものであり、ラスリーニコフが踏み越えたのは法ではなく自らの倫理規範」と主張し、友人Nは「捕まる恐怖が無ければ人は殺しても何も感じない。文明が興り、法が整理されるまで人々は日常的に殺し合いを繰り返してきた」と文明社会での法の絶対性を訴えた。

そこで例の「赤信号」の例えを出し、それぞれの主張を精査した。

一般的に「法」が制限をかけるものはその裏に社会の秩序を乱す(権力者の私欲の場合もあるが)何かしらの理由があるものだ。

信号機の機能とは、交通に秩序を与え、滞りないように整理する。同時に人々の安全を確保する、路上に置いての絶対的な「法」である。赤信号の時に渡ってはいけない理由は、その時に身勝手にわたると交通の妨げになる可能性があり、加えて歩行者に自らに危険が及ぶ可能性があるからだ。

しかし、問の中の状況では自分以外に周りに車が無い。従って交通を妨げになる可能性は限りなく0に近く、身に危険が及ぶ可能性もまた皆無である。つまり「法」の裏に隠れた守らなければいけない理由を侵すことはないのだ。

案の定、私と友人では意見が割れた。

私は、「信号無視は路上の秩序を乱し、交通の妨げとなる行為であり自他ともに致死的な危険が及ぶ可能性があるので悪いわけで、赤信号で渡ること自体に罪はない」よって自分の判断に基づき渡ると答え、Nは「赤の間は待たなければならないという小さな規律すら守れない奴は社会不適合である」青になるまで待つと答えた。


環境による考え方の違い

意見は真っ二つに割れたが、この考え方の違いはどこから生まれたのか。二人で色々な話を飛び飛びで交えながら議論を行うことでその理由が見えてきた。

僕たち二人は正反対ともいえるバックグラウンド大きく2つを持っている。

友人N

a).理数学科、卒論ではAIの画像認識について研究したバリバリの理系

b).超強豪柔道部に所属し、武道という規律に重きを置く世界で集団生活してきた

a).体育学部。得意教科は英、国、社。語学は自分でも堪能であると胸を張れるド文系

b).大学時代は部活は疎かサークルにも所属せず、バックパック一つで10ヶ国以上一人放浪の旅を繰り返した


a).理系文系の違いによる考えかたの相違

議論が横道にそれ哲学の本に対する答えを語ったときのこと。

哲学書特有の曖昧な結びに対して、友人は「結局何が言いたいの、答えを出してくれ」とフラストレーションが溜まったと語った。そもそも哲学に定まった一つの答えは存在しない。同じ命題に対しても最良であろうといえる”答えに近しいもの”は時代によっても大きな振れ幅があるし、もちろん個々人によってもばらつきが生じ、絶対的な真理は存在しない。

そんな哲学書に対して理系である彼は、常に1+1=2のような普遍的で揺るぎない絶対的な「解」を求める為、「人それぞれの答え」のような曖昧なものに対して心地よくないようであった。これを赤信号の問いに参照してみると、彼は「法」という国であったり一定の範囲内に存在する誰もに分け隔てなく効力を発する絶対的な「解」を優先する。個々人の倫理に従う事は、この世にいくつも曖昧な「解」が存在することを意味し、彼に承知できるものでない。

対して文系である僕(他の文系の方々も恐らくそのはず)は、著者の問いかけと解説に対して自分で咀嚼し、自分の中で納得できる終着点を見つける。また完全に咀嚼できず終着点が見つからずとも、本の内容を反芻することに意味があり、それこそが哲学書の楽しみ方であると思っている。従って僕は個々人の「解」の乱立に対する抵抗は一切なく、自ら考え納得し、たどり着いた判断に重きを置くべきであると思っている。

またこういった議論の中で彼は常に「相手を論破し自分が正しいと言わしめたい」と語り、赤信号の問いに関しても話の粗を探し、果敢に僕をねじ伏せようと試みていた。それに対して僕は自分と違う意見に対し「あぁ、そう考える人もいるのか。でも僕はこう考えるな」という終着点で議論を終わることが常で、自分の考えを相手に押し付け説き伏せようとは思わない。もちろん相手の話に筋が通っていて正しいと感じれば意見は揺れるが。


b).過ごした環境による考え方の相違

「日常の小さな規律を守れない奴は、試合でも必ず反則する。何より強くなれない」

彼が所属する柔道部の指導者の言葉だ。毎日、畳で汗を流していたNは、この言葉を引用し「赤信号を待つという小さい事すら出来ない奴はしょーもない。規律を破ることは自分の格を下げること。」いかにも規律正しい武道家らしい精神だと思った。さらに「柔道部という看板を背負っている以上、規則を破ることは部の名前に泥を塗ることになる。」とも語った。彼の武道家としてのバックボーンは規律の絶対性を創り上げ、さらに柔道部という集団に所属する矜持は規律をさらに確固たるものにしているようだ。


対して、大学では何にも所属せず、縛られることなく自由に浮遊していた僕。1人気が向くまま彷徨うバックパッキングという究極の自由に生きていた。しかし自由には責任が常に伴う。自分の行動には自分で責任を持たねばならなかったし、国々によって規則には若干のギャップも存在する。従って自分の中に揺るぎない行動規範を定めることが求められた。より個人主義的考えが芽生える環境だといえる。しかし、僕も彼と同じように海外に出たからには日本人である誇りを常に持ち、礼儀には気を遣った。僕がいい加減な好意をすることは”Japanese”という看板に泥を塗る行為につながるからだ。

バックグラウンドにより考え方の違い、そして問いに対する反応が明白となる興味深い結果が見えた。


法と倫理の狭間に

議論を進めているうちにもう一つ面白いことが見つかった。法と倫理の間に存在するもの、それは礼儀、マナーだ。

端を正しく持ち食事をすることは日本でよく目が置かれる重要なマナーの一つだ。大の大人が茶碗を左手に持ち、箸をスプーンを持つように掴み口に米を掻き込みクチャクチャと音を立てていたら、周りの人は眉間に皺を寄らすだろう。箸をこう使わなければいけないという記述は六法全書を端から端まで血眼になって探しても見つからない。よって箸をこのように扱って法的に罰される事は無い。このように箸を使う事は倫理的に間違っていると叱責することも違う気がする。というのも僕が定義する倫理、正しい/間違っているの線引きは主に2つの観点から成り立つ。(未だ曖昧な部分は多いので個人的に精査する必要はあるなとは思ってます)

Ⅰ)調和を崩壊させ、他人の幸せを直接的に著しく害する行為

ex. 殺人、窃盗、詐欺 etc...

Ⅱ)統合性、一貫性のない矛盾した行為

ex. 約束を破る等

箸を正しく扱わないこと、咀嚼音を鳴らすことに不快に思う人はいるかもしれないが他人の生活を壊し幸せを害することは考えられない。調和も同じく。ここに矛盾たるものも発生はしてない。つまり箸を正しく扱わないことに法的、倫理的欠点は存在しない。

敬語についても同様のことが言える。目上の人や、仲が深まる前の人には敬語で相手に敬意を表するというのが日本ではマナーとされている。言葉遣いの点も人を侮辱すれば名誉棄損として訴えられるが、敬語を使わなかったことで起訴されることは前例はないはずだ。(調べてないのであったら教えてください)同じく倫理的にも問題は発生しない。

しかし僕と友人はこの点に対しては唯一「礼儀は守るべき」と意見が一致した。

なぜ守るべきなのか。礼儀が創り上げるものは人としての品である。映画Kings Manでもコリンファースが ”manners maketh man”と言っていたように。

品がなぜ大切なのかという問いの結果を得られなかったが、二人のなかで品は大切であることは合意した。武道家Nは規律を守ることは礼儀の一つであるとも言っていた。僕も自分の倫理指針に従い、正しく振る舞う事は人となりの品位につながるとも考えている。そしてどうやらNには柔道部として、僕には日本人として集団の帰属意識が芽生えた時はこの品に対する重要度はより重くなるようだ。

「赤信号みんなで渡る」は最も愚か

集団心理の話ではない、と始めたがこれを結びとさせていただきたい。今まで述べてきたことは、法<倫理 か 法>倫理 どちらが正しいかという話ではない。環境により考え方の相違が発生することや「答え」が複数存在しうるという事で厳密にいえばどちらも正しく、どちらも間違っている。(”「答え」が常に絶対的で1つであるべき”という「答え」を持つNと”「答え」はいくつあっても問題ない”という「答え」を持つ僕がいることもまた「答え」の乱立である)

また法にも倫理にも引っかからないが守るべきものがあるという事を考えてきた。これに関しても僕が考えた正解で、貴方にも当てはまらなければいけないわけではない。結局何が大事かというとそれぞれがこれを読んだうえで、自分は赤でも渡るのか、青になるまで待つのかというのを当てはめて考えることにある。

ただ一つ私が言いたいことは「赤信号みんなで渡れば恐くない」は最も愚かな答えであることだ。この裏には規律を個人では犯しはしないが、共にそれを踏み越える同志がいれば集団心理にのっとり便乗するというものだ。これには自分の中の倫理を吟味することもなく、「他に人がやっているから」という理由に規律を無視するというものだ。これについては自らの倫理観を元に考えることを放棄し、なおかつ規律や破る最も愚かな答えである。

自分に確固たる理由がなく法を破る行為は、法と倫理に背かなくとも守るべきマナーの対極ともいえるのではないだろうか。つまり最も品のない行為の一つである。

ちなみにこんなことを語っておきながら高校時代の友人Nと僕は倫理も規則もくそもない生徒で、もう一人のクラスメイトN(僕とこちらクラスメイトもイニシャルNから始まるので陰で”N3”と呼ばれていたらしい)の三人でアホな事やらかし、部活動で出場する筈だった大会の出場自粛、さらにクラスメイトNには「退学」の二文字がチラついたなんて出来事があったことを付け加えておこう。この時はまさに「赤信号みんなで渡れば怖くない」若気の至りであったことを認めざるを得ない。そう考えると大人になったなあ。

そして最期に僕は倫理を信じ法を破れと助長しているわけではない。少なくとも法を踏み越える場合には自分の中に確固たる倫理指針と理由を持ち合わせるべき、という事だ。「人がやってるから」でなく、考えた末自己責任で。








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