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インドで10日間瞑想合宿して5%くらい悟った話 Vol.3

6日目
俺の前に座っていたタトゥーをいれた兄ちゃんの座布団が消え、その席にポッカリと穴が空いた。半分を折り返したが1人2人と少しずつ姿を消すものが出てきていた。

昨日何となく悟りを始めたのを機に、この瞑想合宿自体も一つの瞑想と同じであると思い始めた。10日間が終わり開放されるのを意識すればするほど時間の流れは遅く感じ苦痛に感じる。終わりの10日目までの日数を数えるので無く、今日というその一日、その瞑想1セッションに集中する。ただ時を過ぎるのを待つ事が今できる最善のことであると。

さらに段々と全身の部位に意識を集中するのも慣れてきて、言われた通りに全身をスキャンするかのように意識を頭の先から爪先まで動かしていく。頭のてっぺんから額へ、額から鼻へ、鼻から顎へ。意識を動かすにつれて、今まででは認識出来なかったような小さな痒みや熱、痺れを呼び覚ます。しかし反応はしない。“Only observe” (ただ観察する)。ただ過ぎ去るのを待つ。


薄暗くなった夕暮れ時、セッション間の休憩、広場軽くストレッチをして身体を伸ばしていた。この生活も1週間、さすがに同じ姿勢を保持し続けていると身体の色んな所にガタが出てくる。同じく広場には石橋が歩いてるのが見えたがもちろん目すら合わせはしない。恐らく石橋にも俺の姿は目に入っているだろう。

すると突然、広場に珍客が現れた。舌を出しハァハァと息をしながら軽快に、尻尾を激しく振りながら俺の元へと近づいてきた。インドには腐るほど多くの野良犬がいるが、今までは病気などが怖くて一切近づこうとしなかった。しかし同じ事だけが繰り返されるこの生活で、なにか新鮮な出来事を求めていた俺は思わず彼女に手を伸ばした。身体を撫でてやると一層激しく尻尾を振り喜びをあらわにする。仰向けに寝転び無防備に腹をさらけ出しながら感情を爆発させる。僕自身も久しぶりに触れた血を通わせる生き物の温かさに興奮していた。突然、彼女がそっぽを向き石橋の方へ歩いて行った。俺はそれを微笑みながら目で追い、石橋が同じように彼女を愛でてやるのを眺めていた。すると、警備員が姿を現し怒鳴り声をあげる、犬はクゥンと悲しそうな鳴き声を鳴らしその場を走り去って行った。

ほんの5分の出来事だったが、この刑務所のようなモノトーンの生活に鮮やかな彩りが与えられた幸せな時間だった。犬が去ったあと思わず石橋と目があった。石橋も笑っていた。きっと俺と同じ気持ちだったのだろう。顔をほころばせる石橋を見てより一層、なんだか幸せな気分になった。幸せの余韻は続き僕の頬を緩ませ、半円の広場をニヤニヤしながらぐるぐると歩き続けた。久しく感じていなかった、だれかと同じ瞬間を共有し同じような気持ちを共有する素晴らしい出来事に微笑むことを抑えられなかった。


この日のビデオ説法。
「同じようにあらゆるとこに対して反応せず、受け入れ、観察する。全ての感覚、心地よい、不快なまのに関わらず反応せず観察する。常にマインドをニュートラルに保つ事で、苦しみや惨めさの原因となる渇望に繋がる前に断ち切る事ができる。そして時間と共にそれが過ぎ去るのを待つ事で心に本当のピースと調和が生まれるのだ。この最終的なゴールまで達し悟りを開いたものが仏陀なのである。仏陀とはある個人1人を示したものでない。最初に悟りを開き、教えを説いたゴーダマだけが俗に言う仏陀と思われているが、この道を極める事で一人一人が仏陀になれるのだ。明日からまた一つステップをすすめよう。明日は体の表面のみならず体の中、芯の深い部分まで意識を侵入させて三次元的に感じなさい。ただ反応はしない。“Only observe, just observe” (ただ観察する。ただ観察するのだ。)

7日目
「おい、インド人いい加減にしろ。マジで。」

朝から爆音で流れるレゲトン調のヒンディーミュージックに目を覚ます。時計は持ってなかったが,起床の鐘が鳴るまでに1時間以上はあったであろう。つまり少なくとも朝の三時。お前らマジで夜に人が寝るって知らないのか?しかも厄介なことに一度目覚めるともう一度深い眠りに入ることはほぼ不可能であった。カッチカチのベッドとヤンジャン1.5冊分ほどの厚さしかないこれまたカッチカチな枕の寝心地は正直言って最悪であった。そのまま半分意識があるまま目を閉じ、寝返りを打ちつづけるとやがて起床の鐘が鳴り響く。

今日も一日、スケジュールに従いひたすら座り込む。ここ最近すごく気になるものが出てきた。瞑想ホールを包む静寂、聞こえるのは鳥の鳴き声と遠くから薄ら響くヒンディーミュージック。ヴゥアアア、グゥェ、グゥエエエエ。その静寂を切り裂いたのはゲップであった。

俺の左斜め前11時の方向に座るおっちゃんがめちゃめちゃゲップをするのだ。しかも尋常じゃない音量のコンボ技を。基本三連コンボ構成、たまに4連コンボを繰り出す。それに加えて斜め前一時の方向に2人、2時の方向の女性たちにも1人、そして12時の方向にも1人でかいゲップをかますおっちゃんがいる。そして1人が先陣を切るとそれに続いて他が呼応する。

1日にこんなにも他人のゲップをきくことはおそらく人生で初めてで、この先もないだろう。11時方向の前に座るおっちゃんは、頻度、大きさ共に他の追随を許さないほど圧倒的だ。一度数えてみたところ、1セッションになんと約40回のゲップをかました。腹の中でキムチでも漬けてるのかというレベルのガスの発生度合いである。そんなのに集中を乱される僕の鍛錬不足と言われれば反論のしようがないが、流石に耐えきれなくなりイラつき瞑想をやめてしまった。

コース終了後の10日目、他のインド人にあれだけゲップがあったがインドだと人前でゲップするのは非常識じゃないのかと尋ねたら、屁は失礼にあたるがゲップは問題ないとの答えが帰ってきた。念のため他にも二人尋ねてみたが同様の答えが返ってきた。カルチャーショック。また一つ文化の違いを感じた瞬間であった。


この日のビデオ説法。
人が何か感情を感じる時は、潜在意識下、普段意識しなければ感じない分子レベルでの変化が常に起こっている。そして無意識の間にその変化に反射的に反応する傾向が人間にはある。潜在意識化の感じられないほどの小さな感覚だったものが反応するにつれて大きくなり、やがて認知できるレベルまで達する。はっきりと認知できると余計に反応してしまい、よりはっきりとより大きなものへと発展する負のサイクルに陥ってしますのだ。これこそ人々が何かを渇望し苦しい、惨めだと感じるメカニズムである。ここですることは感覚を研ぎ澄まし、深層心理にある変化を感じ、“Only observe, just observe”(ただ観察する。ただ観察するのだ。)心地いい感覚、不快な感覚関わりなくただ観察する。反応をしないで見送るのだ。そうした事を訓練することで今までの習慣を変え、感情の根本の原因の部分からアプローチできる。何事にも反応せずニュートラルに保つ事で苦しみの元となる渇望、その他のネガティビティを根本から断ち、解放される。そして心の中に平和と調和を気づくのだ。


8日目
全身の部位に意識をして行うスキャニングも慣れてきた。頭のてっぺんから足の先にまるで液体がゆっくりと流れていくように暫時的に意識を集中させ動かせていく。そして爪先にその液体が到達すればまた折り返し身体の中の感覚を探す。

もう1週間と瞑想を続けてきて理論は段々と理解してきた。まず人間は過去や未来、頭の中で作り上げたものにより苦しめられている。だから頭の中で作られたものでない現実、つまり呼吸に意識を集中する事で今という現実に集中する事ができる。

そして人々の苦しみ、惨めさの根源は渇望にある。何かが欲しい、何かから逃れたい、そう思う事はその物事をさらに深く意識させ、苦しみ、惨めさをさらに強めていく。しかし全てのものは変わりゆく。諸行無常というように万物に永遠など存在せず、いずれは消えていく。だからあらゆる感情が渇望に繋がる前に、快い、不快など関わらず常に心をニュートラルに保ち過ぎ去るのを待つ。そして自分の身体を媒体として潜在意識化、意識の奥の深い部分まで潜り、その常に起きている変化を感じ取り、観察し、そして消えるまで待つというのを繰り返す。その訓練を繰り返すことによって、今まで潜在意識化で起きていた物事に反射的に反応してしまう習慣を変え、渇望の根の深い部分から刈り取ってしまおう、というものがVipassana瞑想である。

しかしここで一つの疑問が浮かんできた。

「もし人が快いものをもっと求め、渇望を生み出すものがいけないとすれば、喜びや過去のいい思い出などは悪いものとなってしまうのだろうか。」

快い、不快に関わらないあらゆる感情とは喜びや過去の思い出も含むだろう。確かに、人間気持ちいいことや嬉しいことが好きだ。美味しい食事があればもっと欲しいと思いついつい手が伸びる。美しい思い出があればあの頃はよかったと物思いにふけ、時を戻したいと思ってしまう。たしかに「もっと欲しい」「~したい」という感情は程度が弱いだけで一種の渇望に含まれるかもしれない。だが、喜びや思い出を捨ててしまう人生に意味などあるのだろうか。

そこでまるっきりこの質問を講師にぶつけてみた。彼はこう返した。


「嬉しいことも嫌な事も不変なものはない。今嬉しくてもすぐ先には嫌なことになるかもしれない。喜べば喜ぶほど状況が変わったときの失望は大きくなり、惨めさは大きくなる。そんなもの一つ一つに一喜一憂しても仕方がないのです。だから常に心にバランスを保ち、全ての出来事に対する感情をただ観察する。そうすることで心にピースとハーモニーを築き、解放されるのです。」

「でも幸せな気分を味わえない人生ってやっぱり悲しくないですか?」

心にピースとハーモニーがあることこそ本当の幸せ。それを手に入れ、笑顔のまま最期を迎える。そして来世、再来世、その先でもまた幸せな一生を過ごしていくのです。分かったかな。」

訛りの強い英語でこう答え彼は微笑んだ。

その日のビデオ説法。
「今世界で起きていること。患者は何か問題を抱え医者を訪ねる。医者はアドバイスと処方箋を渡す。患者がそれで症状が治ると今度は家に医者の写真を貼り、毎日供物と共に祈りを捧げる。挙げ句の果てには、他の人に対してお前の主治医より私の主治医の方が正しい、私が貰った薬の方がよく効くと言い争う。狂ってるように思えるだろう。そもそも特定の宗教を信じていなければ救われないというのはどうだ。苦しみや哀れみは普遍的に誰にでもある。このゴーダマの説いたことこそ苦しみや惨めさから逃れる心理の道である。この心理は宗教、グループ関係なく全人類に普遍的なものである。明日からは何事にも常に意識を集中させなさい。瞑想をしてない何かを食べいるとき、歩いているとき常にすべての動作を感じるのです。ベッドに寝るときも瞑想で座っているのが横になっているだけで常に一緒です。これは生半可にできるものではないし明日にすぐできるようになるとは思っていない。しかし精一杯取り組むのです。丹念に、絶え間なく、忍耐強く、そして心を常にニュートラルに保つのです。その先に本当の幸せが待っている。」

―続くー



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