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ここが僕のアナザースカイ


旅の生い立ち

ミャンマーで軍事クーデター

仰々しい見出しが一面を飾ってから三週間余り。昨年末の選挙で与党に惨敗し不満を募らせた国軍が議員を拘束し行政、司法、立法の全権を掌握。民主主義を踏みにじる様な暴挙に対して市民は路上にて鍋を打ち鳴らし、囚われた事実上の国のリーダー・アウンサンスーチーの解放を求めると同時に暴力による圧政への不服従を示す。日に日に大きくなる抵抗の波に対し国軍も手を焼き、次第に強行的な策を投じつつある。実際に国軍の凶弾によって3人の市民が命を落としている。ミャンマーでは複数の武装勢力が政府と衝突した過去があり状況は予断を許さない。

多くの人にとっては恐らく対岸の火事でよほど国際情勢に興味がある人じゃなければ気にもしないだろう。東南アジアの隣国の一つだが直接的な関わりを感じない、実際に地図を目の前に尋ねられても迷わず指をさせる人はそう多くないように思う。

そんなミャンマーだが僕には深い思い入れのある思い出の地の一つでもある。不安定な政情を伝える物騒なニュースに隣国の人々を案ずると同時に郷愁の念を抱いていた。あの国で目にした美しい風景、素朴で暖かい人々が脳裏に蘇り情緒的な思いに浸る。

大学3年の夏、1ヶ月を超える「バックパッキング」と言えるような本格的な一人旅に初めて出た。一月半東南アジアを数カ国放浪したが、その時の一ヵ国目がミャンマーだった。

前々からバックパッキングはしたいと思っていた。しかし今そんなことをしていてもいいのだろうかと葛藤していたことをはっきりと覚えている。当時、既に周りの友人が就職に向け着々と動き始めインターンに勤しむ人もちらほら見受けられた。当時の僕は将来やりたいことがなくとも始められる一斉就活の風潮に抵抗を感じる反骨心と同時に自分のこの先の人生を決めなければならないという焦燥感の間に揺れていた。

「迷ったら翔べ」

僕が座右の銘に掲げるゲイバーのママからの金言に従い、バックパックに荷物をまとめ、家を飛び出た。

偶然が引き合わせてくれた答え

朝4時、ミャンマー第二の都市マンダレーのマンダレー駅で出発を告げる汽笛が響き渡る。塗装が所々剥がれたその列車に一人乗り込んだ。大きなリュックを背負う外国人に周りの乗客は好奇の目を向けた。しばらくは車窓からゆっくりと遠ざかっていく田園風景を眺めていた。「世界の車窓から」さながらの初めて目にする風景にどっぷりと浸った。すると通路を挟んで隣のボックスに座ったおばちゃんが通路を横切る様に僕に手を伸ばしてきた。手にはビニール袋に入った何かの揚げ物だった。露店の前で現地人たちが似た様なものをかぶりついてるのをみたことがある。視線を手から顔に移すと彼女は優しく微笑んだ。笑顔で返し、ありがたくそれを受け取ると口に放り込んだ。言葉は通じずともこうして現地の人と交流したことで朗らかな気分になった。おばちゃんたちのおやつのお裾分けはどうやら万国共通のようだ。

この列車に乗った目的はゴッティ鉄橋だ。路線はマンダレーから北東のシャン州の方面に伸び、シッポー(Hsipaw )という駅の少し手前にその橋はかかる。見渡すかぎりの緑の渓谷を切り裂く様に掛かる橋からの景色は世界でも類を見ない。その風景を追い求めて鈍行列車に揺られ11時間。響き渡る汽笛がその橋の登場を告げた。見渡す限りの緑の中に突如古びた鉄橋が姿を表す。ノロノロと進んでいた列車だったが、鉄橋に差しかかると更にスピードを落としS字のレールをゆっくりと滑っていく。

その見るからに危なっかしい鉄橋はイギリス統治下に建設された。竣工から悠に1世紀以上経っている。整備はしっかり行き届いているか非常に気になるところだが、11時間ひたすらのどかな田園風景を眺めていただけにこの橋を通るスリルは期待以上だった。数分かけて鉄橋を通り過ぎこの電車旅での目的を果たすと次の駅で降りた。降りた先シッポー(Hsipaw )は、何も変哲もない田舎町だった。その日のうちに次の目的地へのバスに乗るつもりでいたが、流石に半日以上の電車旅の後で疲労もあったので、その町で一泊することにした。

一晩越す為のユースホステルを探し出し、荷物を下ろすと町ブラに出掛けた。何もない町かと思っていたが、通りかかった村のツアーデスクに興味深いものを見つけた。

over night village trekking

この町から近くの集落を訪れることのできるツアーがあるらしい。面白そう。明日の朝には次の目的地に向かうバスに乗ろうと思っていたが、すぐさま計画変更しツアーに申し込んだ。

次の日の朝。ツアーのパーティーは、僕の他にアメリカ、ベルギー、ドイツ、イタリア、中国、そして目的地となる集落出身のガイドと国際色豊かなものとなった。町から村までは徒歩で6時間ほどの山奥にある。蒸し暑い亜熱帯気候の中のトレッキングはハードなものであったが、少しずつ様相を変化させる景色とワイルドなコースは楽しいものだった。青々とした水田地帯を抜け、身の丈を越す原っぱをかき分け、無造作に小川にかけられた丸田橋を渡り、そしてひたすらの登山。


道中にもいくつかの村の近くを通り、そこに暮らす人々とも度々すれ違った。中でも印象的だったのが、わずか6時間のトレッキングの中で、「ここからは〇〇が挨拶になる」、「この地域では〇〇と言うように」と挨拶が再三変わったのを覚えている。英語を含め複数の現地語を操るガイドに感銘を受けた。

途中、高台からライフルを携えた僕と同じ年くらいの若い男が山道を列を成して歩く僕らを見下ろしていた。僕らを率いるガイドが彼に近寄り何か口添えするとすんなりと通ることができた。

2時過ぎ、遂に村に到着。標高1200m付近に位置し、青々とした山の中腹に無数のトタン屋根が散りばめられた様に立てられていた。ガイド曰く130世帯、約800人が暮らしているという。村には電気、ガスは通っておらず、水は湧水を利用していた。僕らが泊まる家はガイドの実家で彼の母があたたかい歓迎で迎えてくれた。実際に火を起こして夕飯の支度をしてくれるという。一休みしてからガイドの案内で村を見て回った。

村の湧き水でフルチンで水浴びするちびっこ。ボーイズボーイズビーアンビシャス!

伝統衣装に身を包む村のおばあ達

村の小学校

言葉は通じなかったが、村民たちは皆無邪気な笑顔で歓迎の意を示してくれた。インフラすら整っておらず、物質的には決して豊かでない村ではあるが、GDPでは測れない幸福がたしかにそこにはあった。

夕方、僕たちはガイドの家に戻るとお母さんが晩ご飯を用意してくれていた。ちゃぶ台のような円卓には沢山の小鉢が並ぶ。素朴だが、すごく優しいどこか安心できるお袋の味だった。

日没、あたりを夜の帳が包み、真ん丸の月が夜空に煌々と光る。電気の通っていないこの村では月明かりと蝋燭の燈だけが唯一頼りになる。円卓の中心に蝋燭を立て、囲うように座った。ガイドに途中で見かけた男について尋ねると、ミャンマーの歴史やこの辺りの情勢について教えてくれた。ビルマ人を中心に百余の民族で構成されるミャンマーでは民族紛争が絶えない。国際社会で非難を浴びている北方のイスラム系民族ロヒンギャの迫害は去ることながら、ここシャン州もいくつかの武装勢力が散在し、過去には少数民族に圧力を強めていた政府(国軍)と衝突することも度々あったという。「だから、ああしていつも見張りを立てているんだ」とこの国の暗い過去を語った。しかし過去に比べこの国は格段に良くなっているとも主張した。少しずつではあるが政府との和平を結ぶ武装集団の数は増え、またアウンサンスーチーが率いる民主派政党が政権を握ってからは言論の自由がある。以前の軍政下では誰も政権批判など出来なかった。民主化の流れによってこの国は前に進めていると目を輝かせた。

心地よい虫の声と、風が木々を撫でる音、そして僕たちの語る声だけが月夜に響く。共にトレイルを歩いた仲間同士、それぞれが自分の生い立ちや旅に出た理由、人生について語り合った。こういう様々な文化圏、国の人たちの話を聴けることが旅の中で何よりも豊かな時間だと思う。ドイツ人の女の子を除けば皆、僕よりも年上で人生の先輩だ。そこで今の悩みを皆にぶつけてみた。

「日本では大学4年には皆が就活を終わらせ、大学が卒業したらすぐ仕事に着く。人によっては大学3年にはインターンシップなど動き出してる人もいる。そんな中、僕も3年だけど旅に出てこうして宙ぶらりんでいる。自分が専攻する学科は結局何を学んでいるかよくわからないし、僕自身も何を将来したいかもわからない。」

僕の斜向かいに腰を下ろしていたイタリア人女性がまっすぐ僕の目を見てこう答えた。

「私は大学で歴史専攻で卒業後は美術館のガイドとして働き始めたわ。だけどね、イタリアは観光シーズンにオンとオフが激しくて、オフシーズンに入ると仕事がめっきり減ったわ。生活も苦しくなった。このままじゃいけないと思ってオンラインでWEBマーケティングを学び直した。そして今はWEBマーケティングのマネージャーとして働いているわ。美術館での仕事も大好きだったけど、今の仕事は収入面でも仕事内容でも満足してるわ。大学時代の私からしたらWebマーケティングなんか想像もつかなかったはずよ。ほらね、人生何があるかわからないし、今すぐ自分の道を決める必要なんてないわ。私だって働いてみてわかったことばっかなんだから。まだ学生で働いてもないあなたがどうしたいなんかわかるはずないのよ。だから今はとりあえず貴方が好きな事、信じることをしなさい。進む道なんてのは貴方が気づいたときには既にもう歩きだしてた、そんなものよ。」

僕の胸に立ち込めていた霧が一気に晴れていった。


ここが僕のアナザースカイ、ミャンマーです

「やりたいことがわからなくてもいい。今は自分の好きなこと、信じることをしろ。道なんて気づいた時には歩き出してるものだから。」

自分のやりたい事ははっきりしないが、周りに同調し流される事も受け入れ難い。何をすべきか分からず悶々としていた僕がこれ以上求められるアドバイスがあっただろうか。

言い表しようのない焦燥感から解き放ってくれた彼女の言葉のおかげで、その後の旅は一層素晴らしいものになった。悩みを忘れ眺める景色はより美しく映り、旅の中で出会う旅人たちと語り合う時間は僕の世界を押し広げていってくれた。

漁師に興味津々なミニモンクス

赤く燃ゆる空。さぁ帰ろっか

修行僧達が食べ物を恵んでもらう托鉢。食べ物を分ける事で徳を積める。

首長族で有名な少数民族カレン族

インレー湖、水上の村。

インレー湖の伝統漁師

11世紀〜13世紀に栄えたバガン王朝。当時建てられた大小3000以上の遺跡郡が広大な平原に現存する。世界三大仏教遺跡。

バイクで駆けるバガン、BKBブンブン

歴史的建造物、自然、仏教に根付いた独特な文化の他にもこの国には魅力があると思う。和やかで親しみやすい国民性だ。訪れた国で現地の人の歓迎や優しさに触れることはこの国に限ったことではなく、その点には普遍的な人類の美徳を感じるが、とりわけこの国ではまだ国として観光が成熟しておらず、国外からの来訪者は多くはない。その為か海外からの客である僕に対して強い好奇心とホスピタリティを持って接してくれたように感じた。電車でおやつをくれたおばちゃんはさることながら、ギラギラと火が照りつける昼下がりに木陰で休んでいた時に話しかけてきた女の子は、現地の伝統的な日焼け止めであるタナカを塗ってくれた。英語が全く喋れなくともジェスチャーと気合いで意思疎通を測ったりもした。お裾分けされたビートルナッツは二度と口にはしないと決めたが。

ビートルナッツ(噛みタバコ)を薦めてくるローカルおじさん。噛むと陶酔感を得られる。現地の男達が吐き出す赤いツバはこれ食ってるから。

「この国の未来は観光にある、ここにホステルを建てるんだ」と意気込むおっちゃん達。

伝統的な日焼け止めタナカで化粧をした少女

ここが僕のアナザースカイ、ミャンマーです。


歩み始めた「自分の道」

約1ヶ月半の旅を終え帰国した僕と荷物をまとめ家を飛び出す前の僕との間にははっきりと違いがあった。もう周りを気にして焦る事はなくなっていた。悩んでいた進路については一般企業に就職するのでなく、とりあえず国際協力プロジェクトでの海外派遣に参加する事にした。国際協力が将来自分のやりたい事かどうかは分からないが、生まれ育った環境から180度違う環境に身を投じる事で得られる経験はこの先絶対に生きてくると思う。自分の進みたい道が分からない間はとにかくたくさん経験を得る。そうしたものが僕歩んでいく先の道標になっていくはずだ。こうした考え方は間違いなくミャンマー をきっかけにのめり込んだ一人旅の中で培われた。

生憎、昨今のパンデミックのせいで未だに派遣の目処は立たず相変わらず宙ぶらりんな状態ではあるが、周りにあわせて取りあえず就活をすることをしなかったという決断に今も後悔はない。最初に旅した国がミャンマーでなくて、あの橋を目指して鈍行列車に乗らず、あの村に行かず、みんなと蝋燭を囲むことがなく、彼女があの言葉をかけてくれなかったら、僕は「自分の人生」を歩んでなかっただろう。恐らく三年の冬には周りに同調する様に就活に勤しみ、4年の夏には何となくで企業を選び、今頃どこか不満を抱えながらネクタイを締める日々を送っていたかもしれない。

あなたにとってミャンマーとはどんなところですか。

本家のエンディングでゲストに投げかけられる質問に僕だったらこう答える。

「自分の道」を歩き始めた出発点となった場所です。

そんな僕にとって思い入れの強いミャンマーであるから、連日の軍事クーデターの報道は残念で堪らない。民族のるつぼであり、多数の言語と文化が入り乱れるこの国を一つにまとめることは容易でない。事実、少数民族の民兵など生々しい部分をこの目で見たので尚更感じる。しかし暴力による抑圧は道ではないのは確かだ。旅の中でお世話になったバイタクのおっちゃんのスマホカバーはアウンサンスーチー氏の写真であったのを思い出す。「俺たちみんなのお母さんだ。」おっちゃんは嬉しそうに話していた。10年以上の拘束にも屈せず民主主義を心の底から信じ、そして何よりも国民から慕われる彼女こそが市民が求める真のリーダーである事に反駁の余地はないだろう。

5000万人の人口を擁し、「アジア最後のフロンティア」とも呼ばれるこの国のポテンシャルは高いことは間違いない。この国に平穏が戻り、発展を続けたらこの国はどのように姿を変えるのだろうか。その暁には是非とも「自分の道」の原点であるこの地に戻りたいと思う。その時の僕に目に映る景色は、どのような変化を見せてくれるか非常に楽しみだ。

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