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アートをめぐる1日

ひさしぶりに小さいのころの自分に会った。
というと頭がおかしな人みたいだけど、その表現がぴったりだと思う。

今日は年に数回ある土曜出勤で勉強会の日だった。これはもう伝統行事みたいなもので、さすがにもう慣れている。勉強会といっても座学だけではなく、販促のためにものをつくる時間がある。例えば、ピアノを売っていたとするならば音色を伝えるために簡単な曲を1曲弾く練習をする、そんな感じ。

今日の勉強会で私がつくったものがまあ驚くほど駄作だった。もともとアーティスティックな活動は何もかも苦手だ。だけど何度も書いているけれど、強烈な憧れがある。苦手だけど憧れていたし、社会人になってからずっとやっていたのである程度のクオリティは見せかけだけど作れるようになっていて、自分を過大評価していた。本当おかしい。私は私をうまく認知できていない。
泣きごとを言っていると周りの人たちは爆笑している。定期的におもしろい作品をつくってるじゃん、なにをいまさら!と。本当その通りなのである。
ただ、最近は上手になったと思ってたから、ちょっと調子に乗っていたのである。

笑い話にしたけれど、作品を作っているあいだ泣きそうだった。

待って置いてかないで。
なんでやったことないのにみんなはできるの?
どうして私はできないの?

小さいころに感じていた気持ちだった。絵を描くのも、歌を歌うのも、楽器を弾くのも、身体を動かすのもすべて嫌いだった。私は上手にできないのに。みんなは上手にできる。楽しみにしている人たちの意味がわからなかった。

帰りながら考えた。
やっぱり私にはアーティスティックなことは向いていない。そして、その向いていないことをつづけられるほど好きじゃない。もし、練習しなくて上手になれたとしても、私の求めてるレベルは人並みくらいなことに気づいた。別に何百万もの価格がつく作品を作れるようになりたいと思わないし、後世にアーティストとして名を残したいわけではない。人並みになりたい、なんて他人軸というか「ふつう」への憧れというか私らしいなあと思った。アーティストへの憧れとはここできっちりおさらばしよう。

そう思いながら、私は美術館に向かう。それは前から決めていた予定だった。アーティストへの憧れは諦めるのに、アートを見るのは好きなのか?脳内でツッコミが入る。たしかに、そのとおりだ。
絵を見るのも、音楽を聞くのも、スポーツ観戦するのも、全部好きだ。美術館に行ってる人っておしゃれだから、絵がわかる人ってなんかいい感じだから、そんなふうに他人軸ではないか?と自分自身に問いかけたけど、そうではないように感じた。

そんなことを考えながら絵を見た。

今までは効率厨だったので、自分のペースでさくさく見ていたけど、今回は久しぶりに音声ガイダンスを借りてみた。耳からの情報は私には合っていると思う。絵を描くのが苦手な私が絵を見る理由、それはなんなのか考えながら絵を見た。
まず、絵が上手だからといってあまり感動しない。というか、スキルがないのでみんな上手に見える。絵の中にすべてに意味があるところが好きだなと思う。ひとつのリンゴに、ひとつの三日月に、すべて意味がある。暗示している。わかるひとにだけわかる感じ。直接表現ではない”粋”さ。それが自分でわかるようになったら素敵だな、と思う。まだまだわからないことだらけだけど、少しだけ引っかかりが感じられる。
自分がいいなと思った作品は、作品リストに丸をつけて、どこがよかったか簡単にメモをとる。まだ一言で精いっぱいだけど、もう少し感想など述べられるようになりたい。今日見て好きだと思った絵はみんな、天国みたいに幸せ全開で、神様に祝福されているような絵が好きだなと思った。
そして、ロマン主義を改めて知った。18世紀末~19世紀前半に起きた芸術運動で、合理的理性的な古典主義の反発として生まれ、個人の主観や感情を重視する主義である。

今までは二択で言えば古典主義タイプの人間だったと思うけど、私は今、私の考えや感情を大切にしたい。だから、ロマン主義でありたい。
そして、絵の中の意味を見つけるのを楽しむように、私は意味のある服を着て意味のある持ち物を持っていたい。なんとなくで選ばないで、ちゃんと意味のあるものを持ちたい。
そんな自分の感情に気づくことができた。

帰りにカフェに寄った。
自分とアートについてもう一度考えてみる。

私はアートが好きなのだろうか?他人軸にはなっていないだろうか?
答えはYESだと思う。じゃなきゃ、ウィーンに行きたいなんて思わないと思う。ただし、見ることが好きでやることは苦手だ。なぜ見ることは好きなのか考えると、見ることは評価されない。私が何を思っても自由だから好きなのかもと思った。実際にやると上手/下手で評価されてしまう。
でも、本当は見ることもやることも自由だともう知っている。見たことは自分の中に留めておかず、これからは自分の感想を述べていきたいし、やってみて上手にできなくても笑えばいいだけの話だ。人様に迷惑はかけない。だいたい私は自分のアウトプット方法としてやってみるを選んだのではないのか。上手にできることだけやるなんて、それは自分から逃げている。上手も下手も関係ない。私が楽しめばいいのだ。

そして、楽しめていなかった小さいころの自分を救いたいんだと気づいた。上手か下手か、評価が高いか低いか、そんなことに縛られていて楽しめなかったあの頃の私を。
楽しめるようになる魔法を探している。魔法を見つけることができたら、楽しめなくて苦しんでいる人たちにその魔法をかけてあげたい。それが私のヒーローだと思う。

さらに言うと、いわゆる芸術だけがクリエイティブではないことももうわかっている。
プログラマーはクリエイティブなプログラミングをするし、営業マンはクリエイティブな商談をする。みんな得意なことをするときは最高にクリエイティブなのだ。
私はアーティスト(芸術家)への憧れは昇華できたと思うけど、クリエイティブな人ではありたいなと思う。

駄作をつくったことから、小さいころの感情が甦り、何気なく好きだと思っていたことに自問自答するなんとも不思議な1日だった。
そして、展覧会のテーマ「愛」はもっと難しい。


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