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映画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章」を見てきた。日常が続く。

映画「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章」を見てきました。私が期待していた方向とは違う形で(いつかは期待した方に行くのではと期待しながら)物語は進んでいきました。どこまでも、どこまでも「おんたん」と「門出」の日常が続く物語でした。物語について考えさせる、良い作品でした。
前章の感想は下記です。

侵略者の存在もあらわになり、侵略者を見つけ殺すことが日常的に行われている世界となります。侵略者の母船が爆発することを知っている政府、権力者たちが真っ先に逃げようと陰謀をめぐらし、地球侵略の尖兵として送られてきたであろう侵略者たち(ただし見放されている)は人類に決起しようとしており、救世主とならんとする青年を描いたりと不穏な要素もありつつ、それらとほぼ関わりがなくおんたんと門出の日常(友達とのひと時、恋模様)が描かれます。侵略者が乗り移っている人間「大葉」だけが「日常」と「不穏な世界」両方に関わる人間として描かれます。

作中の世界は「門出が死なせない世界にするために、おんたんが意識を過去に戻して、やり直した世界」とわかります。
その世界では侵略者は偵察だけして、地球に侵略にはやってきません。理由はおんたんたちが侵略者を助けたため? だっけかな? 人間が強すぎるだったかな(作中でそんな話も出ます)。すみません、はっきり思い出せませんでした。
私はおんたんが門出が死んでしまった過去を思い出し、そして自分変えた未来がために地球が壊れていること、その変化に責任を感じ行動する物語や、侵略者と人間の争いが大きくなり、おんたんや門出が巻き込まれる物語を期待してました。わかりやすい、エモーションが感じられる物語を。
しかし、この作品はその方向にはいきません。
「門出が死んでしまった過去を思い出し、そして自分変えた未来がために地球が壊れていること、その変化に責任を感じ行動する物語」がないと書きましたが、おんたんは過去に意識を飛ばした機械の近くに行きます。そして、大葉はおんたんがまた過去に戻ってまたやり直そうとしている、と心配します。おんたんが「急にいなくなるな」と大場に言うのも、記憶はないながらも門出が急にいなくなった印象だけは心の中に残っているからだと思います。作中を見ていると、おんたんは過去を思い出したようには見えませんが、もしかしたら思い出していて、それでも門出以外の人が亡くなっても、門出がいる世界を選んだのかもしれません。
大葉が侵略者の母艦に乗り込んで、宇宙船の爆破を止めようする場面は、盛り上がるところだと思うのですが、私はあまり大葉の行動を見ていて、心が動かされませんでした。これは何ででしょう? 大葉が映っている場面はたくさんあったし、十分に描かれていると思うのですが。おんたんとの恋愛模様もあったし。彼が侵略者だから? でも、宇宙人が主役の作品とかだってあるしな。
大葉の問題というよりは、大葉はおんたん含めた人類を救おうとはしているけれど、どちらかといえば侵略者を救おうとしている。ただ、侵略者たちについてあまりわからないんですよね。なので、侵略者を救うという行為に乗れなかったのかも。侵略者が人に殺されていく場面は可哀想と思ったけれど。
おんたんと、門出の恋愛場面には特に私は面白さは感じませんでした。進んでいくおんたんと大場の関係を見ている門出には興味を持ちました。

物語というか、創作された作品に求めるものとは何でしょうか?
対立による興奮(この作品であったら、侵略者と人類の戦いの期待)、人間の葛藤、内的な対立(この作品であったらおんたんが悩むであろうことへの期待)。
何らかの出来事と出来事の相剋が生む運動。その運動の振り幅が私たちを楽しませる。「出来事と出来事の相剋が生む運動」は動物的な本能のぶつかり合いから、高度な知性のぶつかり合いまであり、視聴者の知識ふえて行くことによって「面白さ」を感じる運動は変わります。物語はそれを紡ぐだけで、何らかの運動を生んでしまうと思うのですが、この作品は大きな運動に行く方向に物語を展開させようとせず(少なくともおんたん、門出がいる場面では)、作中最初の小さな運動のまま止めようとしています。運動の振り幅が少ないから、カタルシスを感じないのかもしれません。
ただ、カタルシスを作って何も解決してないのに、何かが解決したような形にはしません。
大葉の活躍により、作中当初に示唆されたものより被害は小さくなりますが、東京は壊滅します。侵略者はまだ地球に残っており、逃げ出した権力者は断罪されません(これも現代の風刺になっているのかな?)。救世主を目指していた青年は何もなし得ることはできませんでした(成功も、断罪されることも)。多くの問題が解決されません。
最後、大葉はおんたんと再び再開し、物語は閉じます。
どんなに世界が大きく変化しようとしても、おんたんと門出の世界は変化しようとしないように描かれています(物語の終盤、テーブルにカニが載っている場所での二人のやり取りはまさしく二人の世界って感じでしたね)。大葉とおんたんの恋愛が進むことで、その関係は壊れそうになりますが、物語の途中で大葉はおんたんの前からいなくなってしまいます。
そして、世界が大変なことになっても壊れなかった関係に、異変を起こす可能性を示します(再び戻ってきた大場の存在)。お互いに相手を「絶対」と思い、多くの人を犠牲にして守ったおんたんと門出の小さな世界。その未来は開かれたまま、物語は終わります。

「運動」によって視聴者内部に起こる高揚以外にも、創作に求めるものは私には他にもあります。私の知らない考え方、自分の思考を刷新してくれるようなことの伝達です。既知のことから人は想像力を発揮し、そこから内部に運動を起こせますが、知らないことからは「運動」は生むのは難しいです、なので退屈さを感じることもあります。しかし、新しい考え方を知れば、その知った要素は次から大きな「運動」となり得るかも知れません。創作において、どちらか一方という作品はほぼないでしょう。鑑賞する人間の経験によって、塩梅が変わる作品もあると思います。
この作品、特に後章は私が知らない世界を見せてくれたように思います。
おんたんの選択は、わたしはあまり受け入れられません。しかし、受けいられない選択が、私に作品世界との対峙を促します。
受け入れられない結果に対して「良い作品だ」と思う作品と「この終わりはないんじゃないか」と思う作品があります。私には何で違いが出るのかまだ答えることはできないです。
少なくとも、物語が求めている方向性からの選択なのは絶対ですが。

前章で門出は侵略者の道具を使い、正義という建前のもとに人を殺します。良いことをやっているという建前がありながらも、門出は自覚的に人を殺していました。
おんたんはそれを非難します(こう考えると、おんたんが過去をはっきり思い出していることはない気がしますね)。その後、門出は飛び降りることを選択します。
それを救いたくて、おんたんは侵略者の道具を使って意識を過去に飛ばすわけです。
それによって、門出が殺してしまった人間よりずっと多くの人間が死んでしまいます(父も兄も)。
誰かを救おうとしたことによって、無数という人間の運命を変えてしまう(人間だけでなく侵略者も)。
前章では人間の身勝手な行動で「秘密道具」が災いをもたらす可能性があることを描いています。後章ではそれが誰かを救うためでも、災いをもたらすことを描いています。
ここから、何を感じるかは人それぞれでしょう。

おんたんと門出を中心とする世界は何も変わらず、物語の背景となる世界は大変なことになります。大きな運動がありながら、物語にそれが影響しない、不思議な作品です。だからこそ、色々と考えさせる物語になっています。
考えさせる良い作品だと思いました。

尺の問題でしょうか、新しく物語に関わる人物として出てきた「ふたば」「まこと」があまり活躍しません。物語を解説する役割として出てきたような印象を持ちました(まことは大葉と一緒におんたんの過去を見ます。それが視聴者への解説役に感じました)。
おんたん、門出の高校からの友達も全然目立たなかったですね。
映画とはラストも違うようなので、原作も読んでみる! ふたば、まことも活躍するかな?


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