記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

映画「ワイルドバンチ」をU-NEXTで見ました。暗示の意味を考える。

映画「ワイルドバンチ」を見ました。19歳頃に一度見てます。その時は、この映画の紹介の「スローモーション」に感動した記憶があるけれど、今回は特に何も感じませんでした。銃撃戦は絵とし素晴らしいですが、こと「スローモーション」に関しては、よくある表現ですしね(この映画に影響受けて作る映画が多いからなので、昔の映画に対して「よくある」はおかしいですが)。「エンターテイメント」の条件として、以前「人の内面の変化」を挙げたけれど、そんなことはないですね。この映画で、誰かが変化しているということはないです。主人公側の5人は死んでしまいますし。それでもエンターテイメントとして、楽しめました。「エンターテイメント」の条件は起伏だ、と再考しました。動きの起伏、物語の展開の起伏。成長要素はその起伏ひとつでしかないですね。もちろんテーマとして、人の成長が一番わかりやすいという意見は変わりません。オチとしても最適です。だから、そのような作品が多いのでしょう。みんな、そうしているから「エンターテイメント」とはそういうものだ、と思ってしまいました。それがないから「エンターテイメント」ではないという意見は極端だったな、と思います。ジャンル分け、なんか意味ないかもしれませんね。ただ、わかりやすいオチがないと「この映画はなんのための映画だったのか?」とは考えますね。

この映画は、なんのための映画だったのでしょうか。この映画が作られた時は、このような西部劇はもう飽きられていたのでしょうか? そこら辺は調べないとわかりません。映画の登場人物たちも言っているように「自分たちの時代は終わり」なのです。主人公たちが歳をとっているから、言っているのでなく、銃を持って馬を走らせて、強盗する、そのこと自体が終わりです。そういう時代、男が武器ひとつで成り上がる時代の終わりを描いています。そういうなかで生まれた、特殊とも言える人との繋がりを見せるのが、テーマかと思います(女性にはあまり良くない時代です。嫉妬で殺されちゃった女性いますし)。撃ちまくる映画を作りたい、とも制作者が思ったかもしれませんが。もし、若いメキシコ人エンジェルが最後の戦いに参加して、1人生き残り、それからは強盗でなく、村のために戦うようになる、とかわかりやすい成長物語が入っていたら、こういうことは考えなかったかもしれません。逆に言えば、あえて成長物語を省いてもいい、とも言えます。安易にわかりやすさにいかないのが「普通ではないな」と思わせます。「普通ではないと」思わせて、娯楽として楽しめる作品は少ないと思います。

物語は鉄道事務所の強盗から始まります。最初から、すごい銃撃戦。強盗団ワイルドパンチを率いるパイクは、おばあさんを立たせたり紳士的なところ見せますが、やはり強盗で残酷でもあります。最初の強盗で一人仲間置いて、逃げるという非情なところもあります。ダッチはパイクの相棒の存在として劇中で描かれます。メキシコ人のエンジェル。ゴーチ兄弟。昔から知り合いの、サイクス。この6人が鉄道事務所強盗の失敗の後の逃走、メキシコでの安息。メキシコの一つの軍の依頼での、列車強盗。メキシコの一つの軍に囚われてしまったエンジェルの拷問に怒り、大銃撃戦を始める。そして物語は終わります。

この6人は喧嘩とまではいきませんが、争いはします。そこからキャラクター性が出てきますね。しかし、一人一人がもうベテランなので、未熟さゆえの失敗という展開はないです。逃走もうまくいきますし、列車強盗も失敗しません。状況による困難が発生することがあり、それが緊張感を生んでます。逃走中、橋が壊れて、馬車の車輪がはまってしまい、動けなくなるとか。最後の銃撃戦はカットが早くて、緊張感を感じるというより、その動きに快楽を感じて見ていました。良いですよね。

ワイルドバンチ強盗団を追ってくる、ソーントンはパイクと因縁がある描写があったので最後戦うかと思ったら、その前に銃撃戦でパイクが死んでしまいました。それを知って、ソーントンはうなだれてしまいました。彼もまた、パイクの死によって自分たちの時代が終わったことを感じたのでしょう。「こんな因縁まで描いといて、最後戦わないのか」と思いましたが、わかりやすく一つの時代の終わりを見せていると思えば、その存在理由にも納得が行きますね。ソーントンは、最後の銃撃戦には参加していなかったサイクス(サイクスはソーントンのパイクの仲間時代も知っている)について、メキシコの一つの軍(? 国の軍ではなく、私設軍かも)とともに去っていきます。個の時代から、集団の時代への変化を示しているのかもしれません。そう考えると「人間の変化」はありませんが「時代の変化」を示しているのかもしれません。終わりを象徴的に見せたのがパイクという人間なら、時代の変化の移り変わりを象徴的に示したのがソーントンなのかもしれませんね。この感想を書いていて、ソーントンの行動に興味を持って考えました。人間の変化を、その人間本人の成長などとして描くのでなく、何かの象徴として仮託する描き方もあるのですね。ソーントンという存在も、最初からそういう存在として考えて配置していたとしたら、すごい。

「ライアンの娘」のような演技はないですね。あれは「ライアンの娘」を撮った監督の特性なのかもしれないと思えてきました。不利な状況でエンジェルを救うことを決意しただろう時の、目での演技はすごいと思いました。決意が伝わります。

タイトルに書いた暗示についてです。物語冒頭で、サソリが集団の蟻に襲われている場面を長く映しています。絶対何か意味があるわけで。最初はサソリが「ワイルドバンチ」であり、劇中ではヒロイックに描きながら、最後にその犯罪ゆえに民衆たちに処刑される皮肉な感じで終わるのかなと思ってました(視聴二回目ですが、一回目のことはほぼ覚えてないので、初見に近いです)。でも、そうじゃないですね。もっと、そのままズバリ「個の時代が終わり、集団の時代」であることを示しているのでしょう。その蟻とサソリは、子供たちの手によって同時に燃やされてしまうわけですが。その時代の変化すら、さらに大きな力の前では無益だろうことも示しているのだろうと考えます。こう考えると、最初からテーマは示されていたのですね。ワイルドバンチはその大きな力と向き合って滅びていったのかもしれません。そのテーマを選んだのなら、これが撮られた1969年当時、映画の制作者が「個から集団」への変化を何かしらで感じていたのだと思います。変化があると認めながらも、変化へ抗う象徴としてのワイルドバンチ強盗団とも考えられます。今の時代はインターネットの力で、再び個が力を取り戻せたのでしょうか、それとも地域性をなくし、インターネットという一つの場所で争うことによってそこでの勝利者が全ての利益を手に入れる、そのようなサービスを支える多様な集団時代なのでしょうか。今でも、ワイルドバンチのテーマを有効ですね。それに抗う姿は感動的(犯罪者だけれど)ではあります。しかし、未来は滅びが待っている。それでも、自分たちが望んでいない未来に行こうとしているなら、戦う未来を選ぶ選択あることを示しています。

冒頭の銃撃戦なのですが、人が倒れてある途中で、他のカットに行ってガラスが割れる、また先程の続きで人が倒れているカットに移行という場面があったと思う。それを見ていると、「そことそこは、同時に起こっていたことなのだろう」という感覚を持ちました。違う場所での出来事を同時に映せるのは、遠くから撮った時くらいです。上述した場面は、同時に映せるほど遠くて撮ってはいません。であるところからして、人が倒れる時間は遅滞しているわけです。見ている私は「これは、同時の時間を映しているのだな」と考えました。他にも、このような撮り方はありました。

エンターテイメントについて、考えさせられる作品でした。面白かったです。


更新情報はtwitterにUPしてます! フォローお願いします!

https://twitter.com/yuto_mori_blog

テーマを探求を中心とした映画ブログ書いてます。リンクは下記です。


映画の感想や、小説風の日常の記録でみなさんを楽しませたいと思っています! よろしくお願いします! 楽しめたら「スキ」「サポート」など頂けたら嬉しいです!