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映画もまたアニメーションの一部分である。

世界の全領域と全歴史という、いま流行していて、もはや後戻りできない時空の捉え方が、じつはアニメーションという表現領域の確立と拡張に深く関わっているとも思えます。
-熱風2020年3月号P24より引用

2020年8月の課題図書はジブリが発刊している雑誌「熱風」で連載中の「ジブリの想像力」。第4回目のnoteです。

情報技術が発達し、人類に大きな変化が起こりました。アニメーション技術もその恩恵を存分に受けており、制作手法に影響を与えています。1クールに放送されるアニメの数は昔に比べると、飛躍的に増えました。その分、埋もれてしまう作品も多いんですけど笑。


アニメーションの領域はこの情報技術革命の中心に位置していると私は考えます。なぜなら、アニメーションはアニメーションそのものを主題にしたアニメーションを作ることがいとも簡単にできる、つまり自己言及的な作品をいくらでも作ることができる-言語の特徴-からです。
-熱風2020年3月号P24~25より引用
これは映画が最終的に問題にしたこと-自分を見る自分、人類を見る人類としての映画を見る映画-ですが、映画の頂点といっても良いこの段階で、じつは、映画そのものがアニメーション化している、というより映画は映画もまたアニメーションの一部分であることを認めるにいたっているのです。
-熱風2020年3月号P25より引用

ちょっと難しい話になってきました。簡単にまとめると、①アニメーションは自己言及的な作品をいくらでも作ることができる。これはSHIROBAKOなどの作品を見るとわかりやすいですね。

②映画が最終的に問題にした「自分を見る自分」=客観性=自己言及の一部は、そもそもアニメーションの発端であり、アニメーションが持つ性質の一部として映画が内包されている、ということでしょうか。

映画をフィクションの観点で捉えると、わかりやすいかもしれません。アニメも映画もフィクションであることに変わりはありません。ただ、その質を考えると、アニメの方がフィクションとしての純粋性が圧倒的に高い。なぜなら、映画において、役を演じるのは実在する俳優や女優であり、彼らはどこまでいってもノンフィクションだから。

黒澤明監督は「息を止めているだけの状態を死」と表現するのが映画の限界だ、とおっしゃっていたように、その観点に辿り着くと、あんまり実写を楽しめなくなるんですよね笑。本当におもしろい映画はそこらへん気にならないぐらい、かっさらってくれるんだけど。

ある観念、ある概念を具現する存在が視覚化されていることが第一。そしてその視覚化にあたっては、あらゆる映像技術が可能なかぎり駆使されなければならない。とすれば、映画という芸術のなかにアニメーションがあるのではない、逆に、アニメーションという芸術のなかに、俳優の実写を中心とする映画なるものもある、と考えた方がいいのではないか、ということになります。
-熱風2020年3月号P25~26より引用

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今日も日刊ムショクを覗きに来てくれて、ありがとう。
テレビも映画も動画で、動画=アニメーションなんだよね。立場が逆転してる。


このnoteは「日刊ムショク」と題して、
無色の毎日をつらつらと綴る。
平日は7時ごろ、休日は9時ごろに更新予定。
また明日、時間があれば、覗いてね。


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