手段と目的を履き違えてもいいじゃないかというお話

ビジネス書や自己啓発書、ハウツー的な記事を見ると頻繁に見かける忠告みたいなものがある。
それは「手段と目的を履き違えるな」といった主張である。

例をあげよう。
「外国語はコミュニケーションの手段であって、勉強することそのものを目的にしてはいけない」
「筋トレは使うための筋肉を増やす手段であって使わない筋肉を増やしても意味はない」
「資格はその能力を証明する単なる手段に過ぎず取得するだけで満足してはいけない」
「投資はお金を増やす手段であって目的ではない」

そう、このような話は枚挙に暇がない。
それほど万人に受けている理論である。世の中の多数派は「手段と目的を履き違えるな」という主張に異論を唱えない。実際わたしもそう思っていた。

しかしある日、ふと思った。「人生の目的ってなんだろうか」・・・。
もちろん私はこの年になって初めてこのようなことを思った残念な人ではないので、子供の頃から考え続け、感情豊かな10代でも悩み、20代になっても迷い、30代を過ぎてからも定期的には自問している。
ただ答えが見つからないということは正直に言うとどうでもいい。
孔子さんも「三十にして立つ。 四十にして惑はず。 五十にして天命を知る」と言っている(ちなみにこの「惑わず」とは惑わされないという意味ではなく「区切らず」=「自分の可能性を限定しない」という意味らしいが、本当のところはどうなのか休日にじっくり調べてみることにする)

さて本題に戻る。
「目的と手段を履き違えるな」とよく言われるこの「目的」とは本当に目的なのだろうか。目的も突き詰めると手段であって別の目的がある、またその目的も別の目的の手段であって・・・と無限ループに陥る。その最終地点には何があるのだろうか。これに対する私の仮の答えとしては「自分がそれに満足するかどうかである」としておこう。

例えば上にも上げたが、外国語の勉強は手段に過ぎず、それを実際に使うことが大事(=目的)としているが、では何のために使うのであろうか。人それぞれだと思うが、外国語が使えると得られる情報が増え、触れ合える人間が増え、就ける仕事も増え、人生の幅が広がるなどいろいろ挙がるだろう。

ここだけを読むと「ほら、やっぱり手段ではなく目的の達成が大事ではないか」と思うかもしれない。
しかしよく考えてほしい。何のために目的を達成したのか。結局のところ突き詰めると「目的を達成した結果、自分がそれに満足するかどうかである」

つまり、翻って言ってしまえば、手段の段階で満足をしたら、もうそれで目的を達成したことと同じではないのだろうか。

他の例をあげよう。「投資はお金を増やす手段であって目的ではない」と聞くと、別におかしいことを言っているようには聞こえない。たしかにその通り、お金を増やした結果どのように使うかが大事で、お金を増やすことなんてよりよい人生を送る手段の一つにすぎない。どう使って満足するかが大事である・・・と私は最近まで思っていた。

しかし、ここで先程の「自分がそれに満足するかどうかである」を基準に考えてみると、結局のところどうお金を使おうが、自分が満足しなければ何の意味もない。
投資でコツコツお金を増やして、証券口座の数字が増えていくのを眺めるだけで満足するのであれば、お金を払ってサービスを受け楽しいことをするのと同じことなのではないか。

長くなってしまったが、まとめるとこうだ。
手段によって達成された目的がもたらすものが「自分がそれに満足するかどうかである」と仮定すると、「たとい目的を達成しなくても、手段そのものが自分にとって満足するのであれば、もうそれでいいのではないか」というのが、この投稿で書きたかったことである。

ここまで書いてみてモヤモヤっとしてた思いがスッキリしたが、どなたか一人でも共感してくれる人がいると嬉しく思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?