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誰もがそれぞれの世界で生きている...

『赤い月の香り』~千早茜~

人はそれぞれの世界で生きていて、見たいもの見て信じる。だから変えようなんて無謀なんだと改めて強く感じた。匂いの感じ方もまた、同じでは無い。だけど、香りは時に人を変える力を持っていることは確かなものなんだと思った。
植物は立派に咲き誇り生命を終えたあと、香り成分として役割を果たし誰かの癒しや力となる。
私もそのような植物のように生命を遂げたい。

|言葉の抜粋|

*「ローズウォーターってなんですか?」
「薔薇の花弁を水蒸気蒸留すると油分と水分が抽出される。その水分にあたるものだ。蒸留器はさっき見た源さんのログハウスにある。ローズウォーターにはわずかながら殺菌効果がある」

*「忘れているのならいい。けれど、隠せば隠すほどにおう。隠すというのは執着だから。執着は濃くただよう」

*「僕からしたら、まぎれもなくお二人からは肌を合わせている匂いがする。互いの肌や体液の匂いが色濃く染みついています。けれど、それを万人に証明したとしても全員を納得させられるわけじゃない。肌を合わせているからといって、愛し合っている証拠にもならないし、正直、不貞の基準は人それぞれだと僕は思います。人は見たいのもを見て、信じたいものを信じます。あなた方の関係を見ないようにしている人に認めさせることはできないんです」

*「でも、基本的には主観的なものだからね。君の感じている世界を誰かにそっくり体験させることはできないだろう。誰もがそれぞれの世界で生きている」

*庭園の、日当たりの良い一角に蔓薔薇の垣根がある。その中は薔薇園だ。遠くからでも眩い薔薇たちは華やかで、花に興味のない俺でも目を奪われる。愛でられるために咲くことを誇りに思っている気がする。そんな輝きのある花だった。

*「あなたの通っていた小学校の教室の香りを作ることは可能です。お代は香りを確認してもらってからで構いません。ただ、それはあくまで、あなたにとっての教室の香りだということを覚えておいて欲しいのです。人はそれぞれ違う感覚を持っているのが普通なのです。同じ教室にいたからといって同じ香りを感じていたとは限りません。」

*「香りは完璧なんだ。何度嗅いでも、確実にあの頃を思いだす。記憶だけじゃない、感情がよみがえるんだ。でも、小川さんの言う通りだった。同じ場所にいても同じものを感じてはいないんだ」

*「嗅覚は主観に左右されます。そして、経験に。僕が作った匂いは彼には懐かしいものでしょうが、あなたには違いましたよね。あなたは懐かしいと言いながらいつも憤っていました」

*「─感じ取れない人がほとんどだというだけで。存在している限り、匂いのないものなんてありませんよ。石にも、金属にも、なんだって匂いはあります」

*「アノスミア」と橘さんを見る。
「嗅覚脱失ともいいます。あなたのように匂いを感じる力がない状態のことです。なんらかの原因で鼻と脳を繋ぐ神経回路が切断されている可能性があります。つまりは脳と周辺神経細胞の問題です。匂いが脳に届かないのですから、香りでは解決できません」

*「僕は人を治療する立場の人間ではありません。ここは人の欲望を香りに変える場所ですから」

*「雨の日は匂いが押し寄せてくるんだってよ。匂いの記憶の蓋がひらくって言ってたかな。生々しいもんだろうな、もういない人間が幽霊みたいにうろつくのかもしれん」

*「ジャスミンには、心身ともにいろいろな効能があるんだよ。肌の火照りを鎮め、ストレスを軽減させる。快感物質をださせるとも言われているね。夜に咲く花だからかな」

*洋館に通って痛いほど知った。花は終わる。華やかな盛りの後、ぽろりと落ちるか、徐々に萎れていくか、どちらにしろ、永遠に咲く花はない。常に花々に囲まれているように見える鮮やかな庭園だが、無数の花が次々に咲いては終わりを迎えている。

*「月桂樹は、神の求愛を拒んだ美しい娘が、その姿を変えた樹だそうだ。けして触れられない女性なんだと」

*彼女の纏う透明さの正体がわかったような気がした。この人は自分の身に起きるすべてのことを受け入れようとしているのだ。何か、大きな覚悟を決めた人の佇まいだった。

*「自分のかたちが消える感じがして。違いますね。違う自分になれる気がするんですよね。整った、濁りのない、朔さんに作られた存在に。わかりますよ」

*「体臭は皆、違うので、同じ香水をつけたとしても同じ香りになるわけではないのです。同じ香りにしたければ、それぞれに合わせた配合にします。トップ、ミドル、ラストと変化に従って同じように香るものを作れますよ」

*「前に薔薇の香りには鎮静効果があると言ったのを覚えているね。香料の世界では薔薇が女王で、ジャスミンが王だと言われる。ジャスミンの効果は覚醒だ。思い出すには、ぴったりの晩だよ」

*体臭を求めることは唯一無二の欲望。いつか小川朔がそんなようなことを言っていた。確かに、これは執着だ。彼もまた、代えのきかないものにとらわれることを恐れているのだろうか。

*菜園を抜けて果樹園に向かう。捻れた大ぶりの枝の下に小川朔が佇んでいた。相変わらず、まわりの音が吸い込まれてしまうような、しんとした空気を纏っている。

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