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“呪縛”という紙一重 ~「ちぎる」の和紙~

2021年3月。
私は佐賀県の名尾という場所にいました。

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目的は「ちぎる」で使う、ちぎり絵の和紙の選定。
この地にある名尾手すき和紙さんの工房に直接出向き、その質感と色を直接この目で見たかったからです。

関東から行く場合は羽田空港から佐賀空港に行くというのが最短ルートですが、福岡経由で行きたい理由があったので、移動手段はレンタカー。
冬を抜けた3月の暖かい風の中、東京にも負けじと高い建物がそびえ立つ博多から、次第に景色は山の中へと変わっていきました。

そうして車を走らせること1時間。
桜が咲き誇るのどかな自然の景色の中に、その工房がありました。

ところで、なぜわざわざ佐賀まで行ったかという疑問があるかと思います。
和紙の産地は全国各地にあり、メジャーな和紙の産地といえば岐阜の美濃が挙がりますが、ほかにも高知や福井や島根埼玉…、探せばどこにでもあるというくらい和紙の産地はあります。

じゃあそれぞれ何が違うかといえば、その和紙の特性です。
そして、この名尾の和紙を選んだのは強度透過性です。

まず私はちぎり絵といっても、それをストップモーションで動かすというやや特殊なことをします。その際に、両面テープを貼った面に対して、何度もちぎった紙を貼って剥がして、貼って剥がしてを繰り返します。

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するとヤワな紙では折れてしまったり、破れてしまったりするわけです。

また、透過性というのは特殊な撮影条件でちぎり絵×ストップモーションをする目的のためにありました。
今回の作品は透明のアクリルドーム越しという特殊な撮影環境で制作をしました。この環境下で光が透けない紙を使ってしまうと、絵が暗くなってしまいこの条件に適しません。
そこで障子紙のように光が透けやすい紙である必要がありました。

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そこで各地の条件に適しそうな紙を取り寄せてテストした結果、佐賀の名尾手すき和紙が適していると考え、直接目で見て問題なければお願いしようと出向いたのでした。

さて話は戻ります。工房に着くと、職人さんらが出迎えてくれました。
そして和紙の原料となる梶の木の畑から、和紙として漉き上げるまでを教えて下さいました。

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と、ここで和紙に詳しい人であれば引っかかる点があるかと思います。
和紙の原料は通常、楮(こうぞ)という木を使います。
そうです、この強度と透過性はこの原料の違いにありました。

ちなみに和紙というのは、ざっくり言えば木の表面の皮の、さらに内側にある繊維質の皮の部分を剥がしてほどいて紙にします。
この繊維が和紙の特性に直結することになります。

そこで梶についてですが、この種は楮の原種にあたります。
しかし楮と比べて、梶は木の繊維が長くて丈夫です。そのため長く繊維が絡み合うために、透過性のある薄さのまま、丈夫な紙が出来上がります。
これが、強度と透過性を両立できる理由でした。

この一連の流れを直接目で見て、ご説明いただき、より自身の使う和紙について詳しく知ることができたわけですが、その最中でお話いただいた中に印象に残っている言葉があります。

それは原材料の梶の育成について聞いていたときのこと。
この梶の木は名尾地区に自生しているものを使用していて、それを使って三百年やってきたという話のときに出てきた言葉でした。

「毎年同じことをして、ある意味僕らはここに、立ち入らないと出来ないという制約のもとやってるという、ほぼ呪縛ですね」
「でもそれがあることによって、どこまでもいける。ここという大前提があるからこそ色んな所から人が来てくれるのかなと思っている」

“呪縛”という言葉を現実で使っている人とはじめて会ったかもしれない、と思いました。こういう言い方をすると、ちょっと嘲笑的なニュアンスを含んでしまうような気がしますが、決してそうではないです。

呪縛とは人をあるものを縛り付けます。
それは土地やモノ、金銭やまた別の誰かということもあるでしょう。
ただ縛り付けられている限り、命は保証されます。
呪縛の範囲内では自由に動き回れるという意味でもあります。

それを踏まえるとこの土地があってこそ、和紙を作り続けることができる。
300年という歴史もそうかも知れない。それよって人は和紙を求めてやって来るし、その和紙を伝えたり広げたりことでどこまでも行ける。
この梶の木のある名尾という環境の“せいで”とも呼べるし、“おかげで”とも呼べる表裏一体というか、まさしく紙一重の世界です。
それを理解して呪縛という言葉を使いながらも、そのことを肯定し、受け入れて、和紙づくりに邁進する姿というのは、生きる力の強さを感じました。

ただ、やはり呪縛は呪縛と思わせる出来事が今年の2021年の8月。
今年も豪雨の被害が九州、それから佐賀を襲い、各地に多大な被害をもたらしました。そしてそれはこの土地も例外ではありませんでした。

訪問している最中に、名尾にはところどころに水や土地の神様を祀った碑を置いているという話も聞きました。山に、森に、水にに生かされているという考え方が生活に根付いた、そういう土地でもあるのだと思います。

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この呪縛の話を聞いてからこのニュースに直面すると、もしこの土石流が工房や梶の自生する畑をも襲ってしまったらと想像し、恐ろしくなります。
ましてや、この土地・歴史を引き継ぐ人たちにとってはこれがどれだけのことか、想像つきません。

ただニュースによれば自宅やギャラリーに被害が出たものの、工房は無事だったとのことです。今は和紙づくりも再開されているとのことで、一刻も早く安心した状態で和紙づくりに取り組める、そういった環境がまた出来ることを願っています。

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最後に、「ちぎる」という作品には前に別のnoteで私個人の想いが乗っている話をしました。

さらにこれで使った和紙と、それが作られた土地というまた別の物語もあることを、このnoteでご紹介しました。

私はこの「ちぎる」という作品を本当に好きだなと感じています。

この「ちぎる」という作品はその制作過程で、あるいは皆様にお見せするにあたって、私を様々な世界と、人とつなぎ合わせてくれました。
この作品のコンセプト通り、「千切る」ではなく「契る」を届けてくれました。この作品を作って、一番救われたのは他でもなく私自身です。

そしてこの作品が皆さまの目にどう映りましたでしょうか。
この作品は球体映像という稀なプラットフォームでの映像表現ですが、技法としてはちぎり絵とストップモーションという表現としては旧来のものです。
メディア芸術祭、あるいは日本科学未来館という場所を考えると先進性もテクノロジーも感じない、平凡なものと思われるかもしれません。

でも、そんな古い当たり前な方法を使って「千切る」と「契る」、「分断」と「つながり」を描き出しました。
先日の岸田新総裁の当選演説にもそのニュアンスの言葉があったように、今や誰もが掲げるような普遍的な、当たり前なメッセージです。

でもそんなことを、そして「当たり前のことを、当たり前の方法で言う」ということがどれだけ貴重で難しいかを私はこの数年で身を持って学びました。そして、この事を言葉で伝えているだけではもしかしたら伝わらないかもしれないと思い、それを映像にして伝えました。
言葉ではわからなかったけれど、この映像を見てなにかが伝わったと思ってもらえたならこれ以上に幸せなことはありません。

会期は10/3(日)までと、残り少ないものになりました。
これ以降は上映環境であるジオ・コスモスが改修に入り、来年の春まで稼働を停止します。また春以降、新システムとなったジオ・コスモスでこの作品が上映できるかは今はまだ分かりません。

台風も通りすぎて、10/2,3の週末は快晴となる予報です。
私も10/3の上映回にはまたこの目で立ち会いたいと思っています。

そんな残りわずかとなったメディア芸術祭、ならびに「ちぎる」の上映を最後まで多くの人に見てもらいたいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

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