ドン・ジュアン(宝塚花組)
宝塚歌劇「ドン・ジュアン」を見た感想です。
配信での観劇でしたので、生で見たものではありません。
また、ネタバレを含みますので、ご注意下さい。
まず最初に言いたのは、すごくいいカンパニーだったということです。
新生花組のお披露目でもあったわけですが、永遠輝せあさん、星空美咲さんを中心に、素晴らしいパフォーマンスだったと思います。
これからの花組の舞台が本当に楽しみでならないと思える舞台でした。
歌もさることながら、感情の機微の表現も見るものに迫るものがありました。
画面を通じてあれだけ伝わるのですから、生で見ている人にはすごく感じられたのではないでしょうか?
テンポ感もよく、全体的に非常に出来のいいものだったと思いますし、音楽の素晴らしさもほとんど発揮できていたとおもいます。これは今の花組さんの実力と努力があればこそだと思います。
ただ、ここからの話は演者とは関係のない話で、元々の原作の世界観と宝塚の世界観との違和感の話になります。
私は、以前の望海風斗さん主演の「ドン・ジュアン」も映像で見たのですが、どうも好きになれませんでした。それは、演者のパフォーマンス云々ではなく、演目として好きではないということです。
しかし、その時にはその正体がわからなかったのです。
今回、花組の皆さんの演技が素晴らしかったからこそ、その正体がはっきりと自覚できました。
結論からいうと、この演目は宝塚でやるならば、もう少し工夫が必要なのではないかと思います。今のままならば、「やってはいけない」とさえ思います。
なぜなら、本来、放蕩者が死をもって自らの責任を取るしかない、救いのない者の結末を皮肉を込めて描いているはずの話(原作を見ていないので推察です)が、宝塚的な「人が愛に目覚めることで人として成長する話」にしていることで、自殺を推奨する(少なくとも死をもって自己実現する)結末になっているからです。
ジュアンは、自らの意思で剣を捨てて決闘相手の剣へと飛び込みます。すなわち、自殺しているわけです。そして、それにより彼は称賛されるのです。自己実現がなされて、称賛されることになります。愛を知って愛に生きることができたかのように。そして、喜びに満ちた表情でジュアンがスポットを浴びて劇が終わります。
もともと、自らの行ったことへの罪を償うべきで、そこには改心の念が必要であり、皮肉がなければならないと思うのです。
モリエールの戯曲「ドン・ジュアン」もオペラの「ドン・ジョバンニ」も、いずれもジュアン(ジョバンニ)はどうしようもない者で、最後まで頑なに人に迷惑ばかりかける放蕩者であるが故に地獄へと落ちてしまう話にしています。
歌舞伎も、3人吉三等に代表されるように悪人は悲惨な最後を迎えます。
ミュージカル版も、原版をYouTubeで見ましたが、最後、ジュアンは後悔の念を歌い上げながら死を迎え、横たわったままで幕を閉じます。そして、彼を取り巻く人々は彼の死から彼の存在すら忘れ去ろうとしているようにして幕を閉じます。人が本当に恐れるのは、死ではなく、死により存在が忘れ去られることではないかと思うのです。特に、愛する人がいるなら、愛する人に忘れられたくない、いつまでも愛する人を見て、触れていたい、なのにそれができない。そんな状態に人は畏れを抱く、まさにジュアンはそんな状態に追いやられる。自業自得です。
だからこそ、この演劇は存在価値があるのです。
他人の気持ちに寄り添うことのできない、身勝手な人間に対する教訓がこの「ドン・ファン」を起源とする演劇、物語にはあるのだと思うのです。
宝塚版は、宝塚の世界観を大事にする必要があります。それは絶対に守って欲しいのですが、そうすることで死を美化してしまい、自己実現の1手段として死を扱ってしまっています。
これは、自殺を奨励していることに等しいと、私は思います。
では、どうすればよかったかというと、ジュアンが、決闘の最中、亡霊と口論になり、自らの意思を貫こうと、すなわち、自らの愛を貫くために、邪魔なラファエルを黙らせることをやめず、亡霊に咎められ、亡霊に切り掛かることで、隙が生じラファエルに殺される。息も絶え絶えになりながらジュアンは彼の後悔を歌い上げる。そして、周りの人はジュアンが最後に何と戦っていたのか、自らを変えることができなかった自分の弱さであろう、ジュアンのような生き方を批判して幕を下ろす。こうすれば、死を自己実現の手段と観客に認識させずに済んだのではないかと思います。小劇場なら大丈夫な気もしますが、やはり宝塚的ではないでしょうか?
いずれにしても、宝塚の舞台は、子供がみます。多感な少女が大きなターゲットです。彼女たちに、死が自己実現の1手段となるかのような誤解を与える舞台を提供することは、劇団としての責任が重いと感じてしまいました。
(了)
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