シン・薩長同盟①~龍馬の果たした役割とは?~
ゆたをです。
前回の記事の続きとして、今回は坂本龍馬が薩長同盟で果たした役割について再考していきたいと思います。
参考文献
まずは今回の参考文献について紹介させてください。
上記町田明広氏著作の『新設 坂本龍馬』(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)を参考にさせていただきました。
膨大な一次史料から、龍馬の実像に迫っていくという内容で、僕自身も新たな発見の連続でした。
今回のnoteでは、その中でも「薩長同盟」について取り上げて考えていきたいと思います。
薩長同盟のリアル
「薩長同盟」と言えば、龍馬が、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩の間を取り持ち、西郷隆盛と木戸孝允をシェイクハンドさせた奇跡的な出来事として描かれることが多いですね。
いわば、薩長同盟は龍馬のアイデンティティとも言える功績といった印象です。
ですが、参考文献のなかでは、龍馬が薩長同盟締結のその場には立ち会っていなかった(不在だった)可能性が指摘されています。
※その点については参考文献の著者である町田氏が詳しく解説している下記動画も参考になるかと思います。
坂本龍馬は薩長同盟において何の役割も果たしていなかったのか・・・?
ドラマで描かれてきたのはただのフィクションだったのか・・・?
結論、僕はそうは思いません。やはり龍馬なくして薩長同盟の実現は難しかったのではないかと考えます。
では、龍馬が薩長同盟において果たした真の役割について考察していきたいと思います。
薩摩藩にリクルートされた龍馬
今回の参考文献においても、薩摩藩士として活躍する龍馬の姿が指摘されていました。
幕末期、薩英戦争(1863年7月、鹿児島沖でイギリスの東インドシナ艦隊と薩摩藩との間で行なわれた戦争)などで、海軍人材を失い、海軍立て直しのための活路を模索していた薩摩藩。
そこで白羽の矢が立ったのが、龍馬を含む勝海舟の門下生である脱藩浪人グループです。
まさに龍馬は薩摩藩にリクルートされるかたちで召し抱えられました。
龍馬に与えられた新たなミッション
当初は海軍人材として雇われた龍馬でしたが、長州藩とのコネクションがあることを買われて、別のミッション・役割も与えられます。
(龍馬は江戸留学の際に桂小五郎と剣術試合で交えるなど、長州の要人との面識がありました)
それが、長州藩に潜入し、薩長融和に向けた情報収集を行ってくることでした。
薩摩藩は、1863年の「8月18日の政変」や翌年の「禁門の変」を通して、幕府側と協力して京都から長州勢力を駆逐させてきました。
ここにおいて、薩摩と長州の敵対関係が明確になったものの、薩摩藩も自身が主張する幕政改革の活路が見いだせず、方針を転換して幕府に対する強硬論が高まっていました。
そんな中で、薩摩としても西国雄藩である長州とパートナー関係を結び、対幕府の陣営を強固にしていきたい意向がありました。
このような状況下において、長州藩とのコネクションもある龍馬という存在は、薩摩藩にとってはまさに渡りに船でした。
薩長融和というアイデアは、龍馬のオリジナルと捉えられがちではありますが、薩摩藩の意向が多分に働いたものでもあったのですね。
こうして薩摩と長州の締結に向けた新たな役割を担うこととなった龍馬。
その後の働きは日本を駆け回るまさに大車輪の活躍となります。
その動きの中から読み取れる龍馬の特徴について次回は書いていきたいと思います!
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