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史記の一部抜粋

お天道様にえこひいきはない。いつも善人の味方をなさる、というけれども、伯夷・叙斉は善人といえるのではなかろうか。これほど仁の徳をつみ、行いを清潔にしながら餓死してしまった。七〇人の門弟の中で、孔子はただ顔淵だけを学問ずきと認めた。その顔淵が貧乏で、たびたび無一文で、酒糟・粗糠のような粗末な食事も腹いっぱい食べられずに、ついに若くして死んでしまった。お天道様の善人に応報を与えられるということがほんとうなら、これはいったいどうしたことだろう。盗路という悪党は、毎日罪のない人を殺し、人間の肉を刺身にし、凶暴で白目をむいておどし、数千人の手下をひきつれて天下を横行しながら、極楽往生をとげた。彼は一体どういう徳の報いを受けたのだろう。

真面目に生きることほど、馬鹿を見る。現代社会でも、徳を重視するのは、学校の授業や本くらいで、日常生活に戻ると、復讐や不正を繰り返す人たちに辟易してしまい、本来持ち合わせていたやさしさや健気な志は、骨が折れてしまう。そして、社会には、本当に凶悪な者たちでさえ、これらのことを正義だと思って行っていることである。つまり、徳というのは、共通認識であり誰もが志すべきなのに、あまりにも軽視されてるがゆえに、そういう議論は机上の空論で片付けられてしまう。また、どんな極悪人でさえ、凶行が正義という論理なため、誰しもが、悪いことを悪いことだと思って行う人がいない。ここが難しい。正義であるがゆえに正しい行いをするのだ。つまり、

これなどは、天が善人に味方するという通説に対する最も明白な矛盾である。さらに近世に近づけば近づくほど、素行はおさまらず、人のはばかることを平気でやりながら、死ぬまで生活を享楽し、財産を作り、そのおかげが子孫まで続いているものがいる。そうかと思えば、一歩ふみだすにも、土地をえらんで浮上の国に仕えず、よほどの場合でないと発信しない。道を歩くのに近道しない、国家の大事にかんすることでなかればむやみに興奮しないような人で、禍いにかかったものは数えきれないほどいる。自分はこれにたいへん疑問を感じている。いったいお天道様のなさりかたは正しいのか、間違っているのか。

無神論の萌芽である。絶対的な存在を疑うなんて、かなり徹底している。果たしてすべては神々が与えたもので、済んでしまうのだろうか?そして、諸悪の根源を根絶をなくすことはできそうもない。なぜなら、すべてのものには、対をなす存在があるからだ。生の反対は、死であり、楽しいの反対はつまらない。目覚めるの反対は、眠るのように、正の反対は、悪である。では、完全なる純粋なものとして存在するものは何か。

神的であり、不死であり、知性のみがかかわりうるもの、まさに一なる形相のみを持ち、分離・解体を受けることなく、つねに不変の在り方において、自己同一性をたもつものが存在し、そして魂は、そのようなものにもっとも類似しているのである。 パイドン 80b


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