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デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論 』

「ブルシット・ジョブ」の定義が難しい。

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

「ブルシット・ジョブ」は、無意味な仕事のことであり、割に合わない仕事「シット・ジョブ」とは明確に区別される。というか、まったく別物である、と筆者は言う。

ブルシット・ジョブはたいてい、とても実入りがよく、きわめて優良な労働条件のもとにある。ただ、その仕事に意味がないだけである。シット・ジョブはふつう、ブルシットなものではまったくない。つまり、シット・ジョブは一般的には、だれかがなすべき仕事とか、はっきりと社会を益する仕事にかかわっている。ただ、その仕事をする労働者への報酬や処遇がぞんざいなだけである。

ここから、ブルシット・ジョブの人が多くの報酬を得ている一方、シット・ジョブの人が貧困に甘んじている経済システムはおかしいのではないか、というアナーキスト的な主張に発展していく。

おそらく、「自分の仕事こそブルシット・ジョブだ」と思ってこの本を手に取った人の半分くらいは面食らったのではないだろうか。労働条件が悪いだけの仕事はブルシット・ジョブではない。が、ブルシット・ジョブに従事する人とともに、歪んだシステムの被害者である。みたいな話はこの訳者の方の解説がコンパクトだったのでそっちに譲りたい。

疑問は、定義のうち「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で」という部分だ。たとえば、ブルシット・ジョブは主に5つあるとされ、1つ目に「取り巻きの仕事」が挙げられている。

取り巻き(flunkies)の仕事とは、だれかを偉そうにみせたり、だれかに偉そうな気分を味わわせるという、ただそれだけのために(あるいはそれを主な理由として)存在している仕事のことである。
(略)
歴史を通じて記録されてきたように、富と権力をもった男女は、奉公人(servants)や子分(clients)、おべっか使い(sycophants)や手下(minions)のたぐいを自分自身のまわりにはべらせる傾向にあった。
(略)
取り巻き(entourage)なくして威厳なしである。そして、真に威厳のある者にとって、おのれのまわりにはべらせた制服を着た家臣の無用性こそ、みずからの偉大さをなにより雄弁に語るものに他ならなかった。

これはほんとうに無意味な仕事なんだろうか? いや、おれ個人としてはつねに権威などクソくらえと思って生きてるけど、なにかに威厳をもたせる仕事というのものになんの意味はもない、と予断なく決めつけられるものなんだろうか。

たとえば、式典的な行事はそういう無駄な人間をはべらせることで成り立っている。そんなものは無意味だと簡単に言い切れるんだろうか。仮に言い切れたとして、そこに威厳をもたせるためだけに立たされている人間は、ほんとうに「その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味」だと考えながら立っているんだろうか。

これは重箱の隅をつつくような話だけど、もっと大きく言えば、一見無駄に見えることを無駄としてただ排除してしまっていいのか、という点が気になっている。無駄を邪悪なものだとして祓う、という筋書きだけを取り出すと、資本主義が「未開の」文明に対してしてきた仕打ちと何も変わらないように聞こえる。

デヴィッド・グレーバーには、文化人類学者として、宗教が持つ重要性みたいなところを踏まえつつ資本主義を解体してほしかった。などと他力本願なことを言っても意味はなく、答えは自分で見つけるしかない。どうぞ安らかに。

(カバー画像:https://flic.kr/p/SvRHWs

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