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テッド・チャン『息吹』

SFには映像のほうが向いているか文章のほうが向いているか、という論争に参戦するつもりはないけど、表題作「息吹」は間違いなく文章のほうがいい。人間ではない何者かの主人公は、とある疑問から自らを生きながらに解剖し、脳の中を覗こうとする。その針の穴ほどの視界に見えるものから、世界の真実を手繰り寄せていく、というスリル感は文章ならではの体験だ。

主人公は、解剖を進めながらこうつぶやく。

この景色についてじっくりと考えながら、わたしの体はどこにあるのだろうと思った。(中略)本質的に言えば、今回の実験期間中はこのマニピュレーターこそわたしの手であり、展望鏡の端にとりつけた拡大レンズこそわたしの目なのではないか。

これは、小説を読むときの没入感と相似している。熱中すると、(「わたしの体はどこにあるのだろう」とまでは思わないにしても、)文章を読む自分と、文章の中の主人公との境界が曖昧になることがある。この小説ではそれを二重に体験することになる。つまり、拡大レンズに没入する主人公に没入する、というようにして。

その没入はしかし、一方通行ではない。主人公の語りはこのフラクタル構造に自覚的であり、そこにこそ希望を見出している。SFを覗く時、SFもまたこちらを覗いているのだ。

(カバー画像: https://flic.kr/p/ouN5sB

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