ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
(これは、2016年に昔のブログに書いたやつをほぼそのまま移してきたものです)
ある本を「読む」というのはいったいどういうことなのか、という命題を掘り下げていく本。冒頭でバイヤールは、「読んでいない」という言葉に対して切り込みを入れる。
こうしてバイヤールは、「読んでいない」を擁護するばかりではなく、「読んだ」という概念に揺さぶりをかけていく。
本は、著者の意図通りに読まれるわけではない。さまざまに読まれ、あるいは読み飛ばされ、解釈され、伝聞され、さらには忘れられ、記憶の中で改変される。「読んだ」という概念はかくもあやふやなものなのであるからして、ある本について語るのに「その本を読んだ」という権威を頼る必要はない。さあ、読んでない本について存分に語るがいい。
てな具合のことが書いてあって...いや、最後の部分になんか引っかかる。ほんとうに人類はこれで「本を読まなくては」という強迫観念から解放されたんだろうか。
例えば、「古事記にもそう書かれている」というミームがある。これは、ニンジャスレイヤーというサイバーパンク小説に出てくる表現だが、このミームを使うためにニンジャスレイヤーを読む必要はない。さらに言えば古事記も読む必要はない。読む必要はないが、このミームの意味と味わいを解することはしばしば必須の教養となる。
そういえば、野矢茂樹の『語りえぬものを語る』という本でも同じような構図が出てくる。以下、引用。
ある人が「鳥」という語について理解しているかテストするには、「鳥の定義は?」と聞くのではなく、さまざまな対象を指さして「あれは鳥か?」という聞くのがいい。「鳥」という語を理解している人は、鳥を指さした時には「鳥だ」と答え、鳥でないものを指さしたときには「鳥でない」と答えるだろう。
この「鳥」を「古事記にもそう書かれている」と置き換えても文意は同じになる。バイヤールが言っていることは、結局こういうことなんだと思う。「本を読んだ」というのは「本について語ることができる」というのと同じなんだ、と。
インターネットには、読むことができるコンテンツは無限にある。すべてを読むことはできない。その特性上、おそらくインターネットは物理的な書籍の言論空間よりも「本を読んでいない」ことに対して寛容だ。それでも 「本について語る」ことは求められがちである。それは、まわりまわって「本を読む」ことが求められていることになりはしないだろうか。
なるほどバイヤールは「本について語れ」とは言っていない。「もし本について語らなければいけないとすれば」という仮定を述べているに過ぎない。しかし、そうして「本を読む」と「本について語る」を接続する機転は実は裏目に出ていて、「本について語る」ことを通じてますます「本を読む」ことが求められたりはしていないだろうか。「本を読む」という権威性はかたちを変えて人心に居座ろうとしていて、その歴史的な犯行現場を目撃しているんじゃないだろうか。足がすくんで動かないけれど、何ができるだろうか。
と、暗い気持ちになりながらつぶやいたツイートを、特に意味はないけど最後に書き記しておく。語るために読む必要はないけれど、語るための言葉を俺はまだ持ち合わせていない。
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