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なにもかもがポータブルなわけではない

本当の芸術というのは、音楽にしたって映画にしたって文章にしたって演芸にしたってなんにしたって、ドアが開かぬままにあなたに会いに行ける魔法だ

と、かつて峯田和伸は言った。この「ドア」というのは物理的なドアの話じゃないけど、このご時世、自己隔離を連想しがちで、こういうツイートが流れてきてなんとなく思い出してしまった。

物理的にドアを開かなくても触れられる芸術はたくさんある。

音楽は、ライブ配信がさかんに行われている。課金したり投げ銭したりする文化が根付けば、これはこれである程度は経済が回るのかもしれない(あくまでも、ある程度は)。ちなみに投げ銭は、YouTubeだとチャンネル登録者が1000人を超えないと機能が使えないらしい。行ったことあるライブハウスとかがチャンネルを持っているなら、登録して1000人を超える手助けをするといいと思う。

あとはダウンロード販売というのもある。昨日聴いてたやつは投げ銭はなかったけど、演奏した音源を後で買える、というタイプだった。NUMBER GIRLの曲のカバーが良すぎて思わず買ってしまった。

本は、通販とか電子書籍とかある。映画も、配信で見れる。(小さな本屋とか映画館がどうやって生き残っていくか、という難題はとても気になってるけど今日はいったん脇に置く)

でも、そうやってかたちを変えてドアをすり抜けていける芸術ばかりじゃない。ダンスとか演劇とか、ドアを開かないと観に行けない体験もある。

先週、新感線の舞台を観に行った。間違って4枚取ってしまったチケットのうち3枚がキャンセルになり、最後の1枚、公演は再開されたけど行っていいものか迷った挙げ句に行った。そして、「人が目の前で動いている」というそれだけのことが新鮮すぎて泣いてしまった。ただそれだけのことが、どんどん遠ざかる今だからこそ。貴重な食材が惜しみなく使われている料理に舌が感動するように、人間がこんなにもふんだんに使われているという贅沢に圧倒されてしまう。

平田オリザが「役者は演出家にとって将棋の駒だ」みたいな冷徹なことを言っているのを高校の頃に読んで、なんかよくわからないけどかっこいい...、とぼんやり思っていた。今ならわかる、人間が将棋の駒のように使われているからこそ、パフォーミングアーツは人の心を打つ。それがなぜなのか、まだうまく言葉にできないけど。ただ、わかる。

これから、「人が目の前で動いている」というそれだけのことはますます遠のくだろう。演劇やダンスには特に厳しい時代が来る。でも、だからこそ、その価値はますます大きくて、なんとか生き残ってほしくて、そのために何ができるかを考えるには夜が短すぎる。

(カバー画像:https://flic.kr/p/owgHc7

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