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東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』

ただ居るだけ、ということがいかに難しいことなのかが淡々と語られる本。

と、「淡々と」という地味な言葉を選んだのは、ほんとうは書きたくないくらいつらかったであろう出来事の日々を、飄々とポップに書ききった筆者に敬意を表して。あとがきにはこうある。

何より、私はやはりそこで傷ついたわけだから、それは書くことが難しいものだった。

様々なことが起こる。「おれは一流のカウンセラーになって、臨床心理学を極めるのだ!」と意気込んで沖縄の精神科デイケア施設に向かった筆者の自信は打ち砕かれる。人は色んな理由でそこに居られなくなる。

個人的に印象に残ったのは、5章に出てくる「ハエバルくん」だった。「ハエバルくん」は、どちらかというとハッピーエンドな方向の理由でそこを去っていく。「ハエバルくん」ははじめ、

一瞬一瞬を切実なものとして懸命に生きていた。ハエバルくんには退屈している暇なんてなかった。

という状態で、デイケアの遊びに加わろうとしなかった。それがだんだん遊ぶようになり、やがては退屈を感じ、退屈しないものを求めて去っていくまでになる。最初は退屈しなくてデイケアの輪の中に居られなかったのが、最後は逆に退屈して居られなくなるのだ。

そのふたつの「居られなさ」の間にある、あった、遊び、とはなんなのか。筆者は、砂場で砂の要塞をつくって遊んでいる子供を例に挙げて説明する。曰く、その子供は、現実と想像が、自己と他者が重なるところにいる。

遊びは現実と想像が重なるところで生じる。そのどちらかしかなければ、それは遊びではない。「ただ砂をこねているだけですよ」となったら楽しくないし「ロボット帝国の要塞なんです。本当にヤバいんですよ、いまこれをやらないと世界が滅びるんです」と脂汗を書いていたら、それはそれでヤバい。

でも、現実と想像を重ねていられる時間がずっと続くわけではない。砂の塊はいつまでもロボット帝国の要塞ではいられない。やがては現実に醒めてしまう。

遊びとはいつか醒めるものだからだ。

という退屈に関する話が、『暇と退屈の倫理学』を引きながら解説されていて、興味深かった。

『暇と退屈の倫理学』では、退屈から逃れるために仕事やミッションの奴隷になるという「決断」に向かうことが論じられ、批判されていた。人は退屈から自由になろうとするあまりに自分の自由さえも差し出してしまう。この本が語ろうとしている「ただ、いる、だけ」にもおそらく同じような構図があって、居ることはつらいから、「ただ、いる、だけ」の価値は無視されたり乱暴に扱われたりしがちだ。最終章で出てくるブラックデイケアの話は「ただ、いる、だけ」がいかにグロテスクに濫用されうるかという例として考えさせられる。

『暇と退屈の倫理学』が読者を退屈から救うわけではなかったように、この本も、読んだからといって居ることのつらさを緩和してくれたりはしない。この世はこれからも居心地の悪い場所であり続けるだろう。読むと「ただ、いる、だけ」の価値がわかったような気持ちになるけど、そんな確信はきっとすぐに風に吹かれて消えてしまう。それでも。

だけど、それでも、僕らは居場所を必要とする。

(カバー画像:https://flic.kr/p/oeV26L

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