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3.11に思うこと

「僕は1月17日生まれです」
それだけ言っても、多くの人にとっては「noteでなに誕生日アピールしてるんだ」と感じるだけだと思います。

では「僕の9歳の誕生日の1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こりました」だと、どうでしょうか?
多少イメージが変わると思います。

上記のように僕の9歳の誕生日に、阪神淡路大震災が起こりました。
僕は東京に住んでいたので、被災したわけではありません。
しかしテレビに映し出された、街が炎につつまれる様子や、崩れた高速道路に車体の半分だけが引っ掛かったバスの光景などは今でも忘れられません。
そしてこれからも忘れることはないと思います。

当時の僕も小さいなりに被害の大きさを理解し、「何か援助したい」と考えました。
ただ10歳の僕にできることなんてたかがしれていて、「苦しんでいる人がいるのに何もできないふがいなさ」を感じたことを覚えています。


時は経って、2011年3月11日。
僕はちょうど仕事が休みだったため、地元を自転車で散策していました。
少しずつ暖かくなり、外で過ごすのが気持ちよく感じられる時期でした。

その途中赤信号に引っ掛かって、信号待ちをしていました。
その時電線が上下に激しく揺れていて「今日は風が強いんだな」と感じた次の瞬間、地面が大きく揺れだし、柵につかまっていないと立っていられない程の揺れに襲われました。
車に乗っていた女性があまりの揺れに動転して車から飛び出し、僕の腕を思いっきりつかんで「どうすれば良いですか?」と尋ねてきたのが、とても印象的でした。

しばらくしてから家に帰ってニュースを見ると、大きな揺れのわりに被害は小さく、安心したことを覚えています。
僕の中で地震というと、どうしても阪神大震災の「街が炎に包まれる様子」を思い出します。
そのため、「今回は火災がない分、阪神大震災よりも被害は小さいだろう」と感じていました。

その希望はすぐに打ち砕かれることになります。
東北の太平洋側を津波が襲い、死者数がどんどん増えていく。
「未曽有の大災害」という言葉では形容しきれないほどの被害が各地で報道される様子を、ただただ呆然と見ていました。
阪神大震災の「街が炎につつまれる様子」を忘れられないのと同様に、「津波が街を飲み込み、街を破壊していく様子」も、一生決して忘れられないと思います。


被害がどんどん大きくなる様子を目の当たりにし、阪神大震災の時に感じた「何もできなかったふがいなさ」が再び心に浮かんできました。
そして「今回こそは被災地に行ってボランティアをしよう」と考え、地震から半年ほど経った夏休みの間に岩手県でのボランティアに参加しました。

テレビで見ていたため、被害が大きいことは覚悟していましたが、その様子は想像を遥かに上回るものでした。
特に陸前高田市で見た光景は今でも忘れられません。

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家が建っていたはずのところには家の基礎部分しか残っておらず、「ここには本当に街があったのだろうか?」と疑ってしまう程でした。
全く人の息吹がないんです。
また山にマツが生えていたのですが、ある部分からマツの色が変わっていました。
津波が遡上した部分から上のマツは青々と生い茂っていたのですが、津波に飲み込まれた部分は赤茶色になっていました。

被害のあまりの大きさに、ただただ言葉を失いました。

ボランティアに関しても、2泊3日でできることはあまりにわずかで、阪神大震災の時と同様にふがいなさが残りました。


これからもこの「ふがいなさ」はきっと心に残り続けるだろうと思います。
ただふがいなさが残っているからこそ、僕は阪神大震災も、東日本大震災も決して忘れない、その事は断言できます。

そして忘れないだけでなく、「生かされている」という感覚を持ち続け、「『生きたい』と願っていた人達が生きられなかった今日」を丁寧に、そして大切に過ごす。
それは1月17日が誕生日である僕の使命だと感じています。


京都で大学時代を過ごした僕は、阪神大震災で被害の大きかった地域で育った子と付き合ったことがありました。
その子が言っていた「街は確かに綺麗になったけれど、変わってしまった部分もたくさんある」という言葉を、僕は忘れられません。

「復興」というのは決して外から押し付けられるべきものではないと思います。
その土地で生まれ育った人たちが「復興した」と感じてはじめて、復興と呼べるはずです。

一人一人にとって復興の形は違うと思いますが、被災された方達が心の底から笑える日が来ることを願っています。
また亡くなられた方達のご冥福をお祈りいたします。


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