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福祉の現場に「評論家」は要らない

先日このような投稿をしました。

比較的多くの方に読んでいただき、とても光栄に思います。

この投稿の最後に根拠を示さないといけないと締めくくりました。

まさしくタイトルの通りなんです。

食事、排泄、整容に関する部分では、基本と言いますか、安心で安全で快適が確保されて当たり前かと思います。

その中で、このやり方は正しい、あのやり方は間違ってるなんて、当事者以外が現場であれこれ言うのは私としては全くあってはならない事です。

業務が終わってから、たとえ上手くいっても本当にこのやり方で良かったのか、もっと良い方法がないかを考える事の方が有意義で今後に繋がると思います。

ましてや、今までのこういった利用者の場合はこのやり方がベストという決めつけこそ、利用者と意思を尊重していない事になります。

ひとつの例ですが、決まった時間にトイレへご案内するというのは、間違ってはないと思います。しかし言葉でコミュニケーションを取れる方の場合は、絶妙のタイミングを知る努力は常に必要かと思います。

あいさつに始まり、天気やニュースの話題や昔の武勇伝やらご家族の話などをしながら、利用者本人から「ちょっとトイレに行ってくるわ」という言葉を発してもらうのもひとつですし、パターン化しない程度に、さりげなくちょっとトイレに寄り道しましょうかという雰囲気をつくる事の方が利用者の立場からすれば気持ちがいいと思います。

ここからは今書いた事と矛盾するように見えるかもしれませんが、96歳の男性が夜中にラーメンが食べたいという場合

これは介護福祉士の記述式の問題にしてほしいくらい素晴らしい事例です。

私はアリかナシかでいうと当然アリだと思います。しかし入居者全員が(このリンクの施設なら比較的少人数ですが)「私もラーメン食べたい」ってなった時に現場はどうなるか?

堅苦しい制度上の話はあんまりしたくはないのですが、深夜に食事をすればサービス業なら深夜料金などが発生する飲食店があると思います。そして利用者本人とご家族の強い要望であれば、万が一事故にあった場合の責任の所在を明確にする事と対応する職員は本来の当直勤務者以外が対応して社会保障費で提供するサービスとは別のサービスとして行う事の方が、お互い気を遣わずに安心して気持ちよい時間になると思います。

とは書いたものの、これが正しいかどうかは広く議論されて前に進むと良いかと思います。

この事例はどんどん評論家さんいらっしゃい!というくらいいろんな考えをシェアしていくのが、より良い介護と支援につながるのではないかと思います。

もうひとつだけ例を挙げるとすれば、入浴のお手伝いをする時、世間話をしながら脱衣から入浴を経て着衣に至り、本人から「ええ湯やったわ!」と無意識に発してもらえるといいのではと思いながら支援してます。

まぁ、それでも完璧な答えなんて死ぬまで見つからないというか、ずっと探し続ける努力をしなければならないと思います。

利用者本人の気持ちなんて、評論家でも大ベテランでもわかる事もあるけど、出来るかどうかも含めて、「わからない」で当たり前なんです。

その「わからない」を「わかる」だけではなく決して与えるように、「してあげる」的な対応ではなく、介助者は存在がないような対応が「出来る」というのをさりげなく自然に「出来る」事を少しずつ増やして、信頼関係を作り続けるのが「質」を高めていく事につながると思います。

上記の理由から現場には評論家は要らないと思います。ましてや現場で評論している間も利用者が居る訳で、職員のやり方よりも他の利用者に対して時間を使ってほしいと思います。

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