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父について

2月8日早朝に父が亡くなった。

2月5日に母から、父の危篤の知らせを受け、急いで姉と実家に向かい、病院で待機することを3回ほど繰り返し、多分このまま回復することはないんだろうなと覚悟をした。
8日の早朝病院に駆けつけたときには意識がない状態で、最後に言葉をかけたが父に届いていたんだろうか。

父は私にとってとても大きな存在だった。
恐れ、たまに憎み、愛していた。

父と話をしようと思いながら、次会ったときでいいや、と先延ばしにしてきた。最期まで父に向き合うことができなかった。
面倒で煩わしいことからは逃げたいという意識から父に話しかけることをしなかった。亡くなってから後悔しても遅い。
時を巻き戻せたとしても、また私は今度会ったときでいいや、と先延ばししてしまうんだろう。そうして先延ばししてきた結果が今の私の人生だと思った。

どこかで父が死んだら自分は自由を手に入れることができるのではと思ったことがあるが、そんなことはなかった。

泣いて次の日起きて、記憶がぼんやりとするだけで、私の内面はなにも変わっていないことに気づいた。

誰かのせいにして不幸面したいだけの人間。

ああ、そうかこの私の内面を映し出していたんだ、と思った。

醜い自分、孤独な自分、独りよがりでいつも片隅にいたい自分。
面倒なことには関わりたくない、という意識は私の根底にずっとある。

そんな自分を父に投影して勝手に嫌っていた。

父には優しい面、人を楽しませることもできる面もあったのに、そんな面は極力見ないようにしていた。

本が好きで、どこに行くのにも文庫本を携帯していた人だった。
子供の頃、父がよく私と(双子の)妹をあちこちに連れて行ってくれた。
繁華街に連れて行ってもらったときに、喫茶店に入り、パフェを食べさせてもらって、父はコーヒーを飲みながら本を読んでいた。そんな父をぼんやり眺めていた。
ゆったりと流れる時間が心地好かったことを覚えている。
比較的無口な人だったけど、よくあちこち遊びに連れて行ってくれた。

歩くのが好きで、母とよくあちこちを歩いていた。
喧嘩もよくしていたが、今思うと仲が良いとこもあったんだな、と思う。
私が高校1年くらいの時に一度離婚したが、その4年後にまた一緒になった。嫌になって離婚したのに、なんでまた同じ相手と再婚したのか私には意味が分からなかった。

今の十分大人になった私にはなんとなく分かる気がする。
結婚には 好き、とか嫌いという感情だけではない何かがあるのかもしれない。

母が私に「〇〇にも戦友みたいな人が居たらいいのにね。」と言ったことがある。
父との関係性について「戦友」だと思っていたことに驚いた。
出会ってから60年近く、ずっと近くで寄り添ってきた母にしかわからないことがきっとあるんだろう、と思った。

病室で、最期のときにそっと父の頭を撫でて「よく頑張ったね。」と言葉をかけた母。

コロナがまだ5類に移行しておらず、意識がなくなる時まで病室に入れてもらえなかったが、看護師の方に一人ずつ呼ばれて最期に父に言葉をかけた。

「お父さん、お父さんの娘に生まれてきて幸せやったよ。」
涙が溢れてそのあとの言葉が続かず、妹と交代しに廊下に出た。

本当は父が生きているときに言いたい言葉だった。

言葉にして伝えるということは常日頃からしておいた方がいい、と
大切な人を亡くしてから気がつく。

落ち込んだりするときもあるが、なるべく笑顔で生活していくことが、
残された家族にできる最善のことなのかと思う。


不器用で孤独に強かった貴方のことが大好きでした。





















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