思い出落語(その2)

立の家恋々 たつのやこいこい

当時の立命落研のOBには、恋という字が付いている人はいなかった。他の5人の芸名よりシュっとしているように思った。ただそれだけの思い出しかない。

前期の試験が終わるころ、どっぷり落研生活の沼にハマっていた。朝起きて学校に行ったらBOX直行。落語の本を読んだり、プロやOBの音源を聴きたおし、夕方になるとプロの落語会を観に行ったり。授業に出た覚えが全く無い。(いまだに試験会場の場所が分からないって夢を見たりする。)8月末に上京し「新宿末廣亭」で、志ん朝師匠の主任興行を3日連続観た(鰻の幇間 強情灸 お見立て)ことが思い出深い。

ただ、稽古は苦手だった。喉も弱かったし、何せ自分がやっていることが面白くない。当然のように同期と差がついていく。9月末の「若手の会」に向けて「看板のピン」を演ることになっていたが、夏合宿までに覚えていなかった。

夏合宿でのマンツーマン練習は、私にとっては過酷だった。正座に耐えれなかった。痺れるとか感覚がなくなるというものでは無く、膝と腰が崩壊した。膝の皿がもげるような痛み。腰が抜けるような感覚。OBの方も含めて夜通し練習を見ていただいたが、苦痛でしかなかった。

「若手の会」当日。番組は夏合宿中に決まっていた。出来の良かった珍平やぽん太がトリをとるべきだと思っていたのに、同期はワタシを推した。

出囃子がなる。確か「野崎」高座にあがる。お客様は10名程度。

「看板のピン」という噺は、オウム返しで笑わせる12分くらいの噺。仕込んだことを後半間違ってやるから面白いはず。自分ではしっかり話せている。話し続けて頭がだんだん真っ白になっていく。高座は1人なのに誰かが声をかけてくる。「もうすぐ間違えるよ!」あれ?仕込の途中で、バラシのセリフ言ってしまいそのままサゲを言ってしまった。トリの前代未聞の大惨事。

書きたかった寄席文字は「一」ばっかり書いてた。千本ヨコイチと言われ、ただひたすらに書く。千本どころじゃない。マイ筆を持っていたので下宿でもひたすらに書いてたし、毎日毎日。。。

「学園祭参加立命寄席」には「米揚げ笊」を演ることになった。古臭い噺のようだが、落語のエッセンス的なことも詰まっていて稽古が楽しかった。当時落研の4回生留年生はたまたOBまでが住んでいた「やよい荘」で、OBのちょぼ丸さんにマンツーマン練習を見てもらったのは、良い思い出。八戒さんも見てくれたなぁ。

学園祭参加立命寄席は、教室を寄席小屋風に改装し4日間昼12時から夜20時くらい迄ぶっ通し。一回生は二つ。二回生以上は三つのネタをかけることになっていた。「米揚げ笊」の出来は良かった記憶がある。学園祭は結構お客様が入っていただけたこともあり、それなりの笑いもあった。サゲ前でまた出てきた誰か「笑われてるだけやで。」高座から客席を見るのが怖かった。

幹部交代があって年末は老人ホームの慰問に行き倒した。「米揚げ笊」ばかり演っていた。
春合宿で「胴斬り」を演ることが決めた頃、年越した2月に衝撃が起きる。
5人の新二回生のうち3人が辞めると言いだし、BOXにも来なくなった。なんとか1人は残る事になったが、同期3人は歴代でも少ない。歴代の3人の代に、初代ぽん太さんが居てる。ワタシ達3人の中にも二代目ぽん太。
ちょいぽちゃの女の子は、そんなことは意に介さず。

春合宿は波乱の予感。
(つづく)








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