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贈与の差出人のライフハック

このnoteは、僕の著書『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』に入れられなかった文章や、関連する考察を中心に更新しています。記事を気に入って下さったら、書籍もお読みいただけるととてもうれしく思います。

出版してから、読者の方々から直接感想や質問をもらう機会が何度かありました。
その中でも僕自身、返答に困ったのが、「贈与の差出人になりたい場合はどうすればいいですか?」というものでした。

僕の回答は、ひとつです。

贈与の差出人になりたかったら、受取人が現れるのを待てばいい。
その受取人があなたを贈与の差出人に変えてくれる。

だからこそ、僕らは受取人になるトレーニングを積む必要がある。
あなたが贈与を受け取り、そのを相手を贈与の差出人に変貌させるために。


「私はあなたからこれを受け取った」と宣言してくれる他者としての受取人の到来を待つこと。
贈与の差出人になりたい人のために、僕が言えるのはそれくらいです。
本の中では、受取人の話しかしてないように見えますが、受取人を得たとき初めて差出人になれるのであれば、受取人を語ることはそのまま差出人を語ることを意味します。
僕らは差出人に「なる」のではなくて、差出人に「してもらう」のです。

とは言ったものの、差出人としての贈与の「ライフハック」がないわけではありません。

以前、お受けしたインタビューの中でそのような差出人の作法を少し語っています。

──贈る側には、「お礼を言われること」は「贈与に気づかれること」だから照れ臭い、カッコ悪いという感覚もある。そういう意味では、近内さんの本ではカミュの「シーシュポスの神話」と「アンサング・ヒーロー」の話が印象的でした。こういう、気づかれなくてもOKという感覚の人が増えれば、贈与も呪いにならずに済む気がします。

近内 気づかれてしまったときは、差出人としては「えっ、何のことだっけ?」ととぼけるとか(笑)。よくあるじゃないですか、「私が苦しかったとき、あなたのあの一言で心が軽くなったんです。救われたんです」とか。それを言われてしまったら、「僕、そんなこと言ったっけ? 忘れちゃったよ」ととぼければいいんです。あるいは、本当に忘れてしまうとか(笑)。それが粋であり、品のある贈与なのかもしれません。差出人不在の贈与。受取人だけが存在する贈与。そういった贈与は存在するのです。

とぼけること。
忘れること。
ユーモア。
あるいは、はぐらかすこと。

うまく贈与を手渡すなら、そのような作法が要る。

先日、ツイッター上で「はぐらかす贈与者」のこんなエピソードを見つけました。

そのおっちゃんは、割引券が無駄になるのがもったいないと思っただけかもしれません。
そのもったいなさを解消するという自身の「(心理的)利得」のために、たまたま通りがかった人に声を掛けただけの可能性はもちろんあります。
ですが、重要なのは、おっちゃんが照れながら「紙屑や!」と、話をはぐらかして、こちら側の感謝を強制しなかった点です。つまり、返礼を強要しなかったのです。
「今の私の振る舞いは、大したことじゃない」と身ぶりで示すこと。
差出人に必要とされる礼節がここにあります。


「贈与」とはお金で買えないものおよびその移動。
本では、「贈与」の一次近似として、この規定から議論が進んでいきますが、改めて贈与について考えたとき、次のように言うこともできるのではないかと最近では感じています。

受取人にとっての贈与:お礼を言いたくなってしまうもののすべて。

差出人にとっての贈与:どうすれば自分にお返しが返ってこないかに配慮しながら差し出すもの。

そして、どうすれば(できるだけ多くの)お返しが自分に返ってくるか。そこに腐心するとき、その振る舞いは「交換」となる。

贈与が贈与だと気付かれてしまったときに、「これは贈与ではない」と偽ることなら、僕らでもできる。
愛をもって、ごまかし、はぐらかし、偽り、とぼけること。
贈与が贈与であることを隠す仕草。
差出人のライフハックはこのあたりにあるはずです。


さいごに・・・

紀伊國屋じんぶん大賞の読者アンケートが始まりました。
読者の方々のアンケート(投票)が加味されて、大賞が決まります。

100字~150字の推薦コメントもあるので、もし『世界は贈与でできている』をお読みいただいて、コメント書いてもいいかなぁを思ってくださった方は、ぜひご応募していただけるとうれしいです。

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