なぜ「サザエさん」は日曜夜に放送されるのか問題
このnoteは、僕の著書『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』に入れられなかった文章や、関連する考察を中心に更新しています。記事を気に入って下さったら、書籍もお読みいただけるととてもうれしく思います。
日曜日の夜って、憂鬱ですよね。
一週間がリセットされ、次の一週間がやってくる。些細なサプライズはあるでしょうが、明日からまた、変わらない毎日を送ることになる。
それでもアニメ「サザエさん」の登場人物たちの生活に比べれば、まだましなような気もします。彼らは歳も取らず、変化も成長もない、あまりに無時間的で平凡な生活を繰り返しているのですから。
なぜ僕らは「サザエさん」を観るのか?
なぜ、僕らは「サザエさん」を観るのでしょうか。
描かれているライフスタイルは、今の時代とはズレています。ですが、視聴率は低迷しているとはいえ、サザエさんが無くなった日曜の夜を想像すると、どこかさみしい。
考えてみれば、「無時間的な物語」は「サザエさん」に限った特徴ではありません。「ちびまる子ちゃん」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」。いずれも変化と成長がない、毎回状況がリセットされる物語です。
興味深いのは、これらの物語の放送時間帯です。
平日の最終日である金曜の夜、そして、平日の始まり前夜である日曜の夜(「クレヨンしんちゃん」と「ドラえもん」は2019年から放送時間が土曜日に移りましたが、それでもやはり週末なのです)。
僕たちの「日常」、つまり平日の始まり前夜(日曜日)と平日の最終日(金曜日)の夜に、無時間的日常を描くこれらの物語が集中的に放送されているのです。選択的に放送されていると言えるのかもしれません。
だとしたら、こう考えてみるのはどうでしょうか――。
「『サザエさん』のような無時間的な物語に触れることで、僕らは何かを得ているのではないか?」と。
「国民的アニメ」のウィトゲンシュタイン的機能
なぜ、いま「サザエさん」や「ドラえもん」を取り上げるのか。それは、これらの物語は「本質的に変化しない物語」を描いている作品だからです。
もっと言えば、「変化してはならない」物語形式なのです。
これらの物語の登場人物たちは、エピソードが終わるごとに、必ず元の位置(性格や人間関係などのキャラ設定)に戻ることを強いられます。変化してしまったら、翌週の物語に影響が出てしまうからです。
このような物語を毎週摂取することで、一体どのような利得があるのか?
ポイントはこれらのアニメがしばしば「国民的アニメ」と呼ばれる点にあります。
それは、僕らの日常の生活のデフォルト、つまり、参照すべき基本設定を描いている(描いていた)ということです。
たとえば、外国人の友人が日本語を学ぼうとしているとします。
彼が日本に来て、スムーズにコミュニケーションを取れるようになるにはどうすればいいでしょうか?
おそらく、先に挙げたアニメを見てもらうのが手っ取り早いでしょう。
なんとなくイメージできるでしょうか。彼が日本に来て何が困るかと言うと、「言葉の意味」そのものではありません。そうではなく、「その発話や振る舞いを取り巻く日本語のコミュニケーション全体」を見渡すことができないから、当惑するのです。
僕らにとって、僕らの「この」生活、つまり「この」コミュニケーションは透明になっています。透明になった行為とコミュニケーションの中では、「なぜ?」や「どうして?」あるいは「どういう意味?」という言葉によるゲームの中断は起こりません。
毎朝起きて、スーツを着て——「なぜスーツを着るの?」
途中、コンビニで飲み物を買い——「どうしてコンビニには商品が無くならないの?どこから運ばれてくるの?」
金額の不足分をsuicaにチャージして——「お金はどこへ消えたの?なぜそれで電車に乗れるの?」
いつものように会社に向かう——「そもそも働くってどういう意味?」
子どもは僕らのコミュニケーションというゲームを止めようとします。というよりも、日常の透明になっているコミュニケーションに馴染めていない存在が「子ども」なのです。
うまく踊れない子ども/踊り続けることができる大人
村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』で語られる次の言葉は、まさにそんな「子どもの問い」に対するコメントとなっています。
「踊るんだよ」
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。」(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上)』、講談社文庫、164頁)
ここには重要なポイントが含まれています。
「意味を問わない」ことによって、僕らのコミュニケーションが成立する。
意味に囚われて、そこの拘泥してしまったらコミュニケーションの彼岸へと至ってしまう。
それは僕らの共同体の外部へと転落してしまう(「こっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう」)ことを意味する。
子どもは子どもであるがゆえに、日常のコミュニケーションに対する疑義を申し立てることが許されます。なぜなら、子どもは共同体の外部と内部を行き来する存在だからです。その存在を共同体の内部へと引きずり込み、ソーシャライズ(社会化)することを教育と呼びます。
サザエさんは「現代の神話」である
哲学者ウィトゲンシュタインは、僕らの判断や思考の基準となる「常識の総体」を「世界像」と呼びました。また、そんな世界像は「神話」であると表現しています。
それは、そこには確固たる根拠がないにもかかわらず、僕らが受け入れなければならないという実相を指摘しています。
だから、サザエさんの物語は、「現代の神話」だったのです。
(ちなみに「アンパンマン」も変化のない無時間的な物語であり、週の終わりの金曜日に放映されています。しかも、そこに登場するのは、食品に魂が宿った主体たちです。アミニズムであり、まさに神話の名にふさわしい。)
日常生活の神話が語られるには、週の終わりと週の始めが似つかわしい。
サザエさんのような物語(神話)を見ることで、僕らは日々を踊り続けることができる。
週の終わりと始まりに、僕らは音楽が今日も鳴り続けていることを知り、ステップを踏み続けることができる。
神話が無ければ、踊ることはできない。
しかし、僕らが踊ることができるのは、あくまでも「日常」が続くかぎりにおいてです。
日常が破られたとき、僕らは何らかの対処を迫られます。
ぼくらは、僕らの日常を描く無時間的な物語を摂取しながらも、同時にそんな「日常の裂け目」を思い描きながら生活しなければなりません。
僕が『世界は贈与でできている』で、小松左京のSF作品を重点的に取り上げました。それはまさにそのような「日常の裂け目」に対する知性の一つの形が小松SFだったからです。
踊りながらも、踊れなくなった日を思い描くこと。
そのような難題を僕らは引き受けていかなければならないのです。
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