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FC東京の応援をするため、24年ぶりにカシマスタジアムに行った話

FC東京の応援をするため、カシマスタジアムに遠征してきた。
じつに24年ぶりのカシマスタジアムだった。

24年前のカシスタ行きは当然ながらFC東京の応援のためではない。まだ前身の東京ガス時代だから基本的に対戦がなかった。例外としては94年の天皇杯での対戦があり、東京ガスが番狂わせの勝利を収めたが、試合の開催地は新潟であった。

24年前の鹿島行きは当時応援していた鹿島アントラーズの練習を見るためだった。

今回行ったのは2019年の9月14日の試合だったが、そこに至る過程というものがある。

まずは過去の話から始めよう。

1982年の、おそらく春ごろ。

あらんかぎりのフィンガーテクを駆使した前戯と、血管が切れんばかりの必死のピストン運動により見事着床に成功したぼくの遺伝子の父側50%&母側50%は、細胞分裂をくりかえし、83年1月16日に赤子として完成。無事、産道より出荷された。

肉体的にはすくすくと(しかし性格的にはじめじめと)育ち、迎えた小学5年生の1993年。Jリーグ開幕。大ブームとなった。

小学生だったのでそれまで日本で何が流行っていたのかはよく知らないが、開幕戦のヴェルディ川崎VS横浜マリノスの試合が後半戦にさしかかったころには、日本中の流行に敏感な層(アーリーアダプター)のみなさんも、「今もしかして『なめ猫』流行ってない……!?」と気がついたらしく、瞬く間にJリーグ各試合のチケットが売り切れたとのこと。

僕たち小学5年生の間でもJリーグは大ブーム。

性の目覚め前夜であり、まだ精通までわずかな猶予期間のあった僕たち10~11歳男子たちは、性欲に支配されることなく、いや、支配されてないがゆえに跳ねるスーパーボールのごとく無軌道にボールを蹴りまわった。

ボールを蹴って蹴って蹴って、家に帰ればJリーグ観戦。

今となっては驚くべきことに、当時のJリーグの試合はゴールデンタイムに地上波で放送されるという「マジカル頭脳パワー!!」級のあつかい。しかも放送時間帯が被って真裏で別の局も放送している(すなわち「コメディーお江戸でござる」級のあつかい)なんてこともあった。ブームのすごさがよくわかるというものだ。

96年の夏休みから「新世紀エヴァンゲリオン」に興味を持ち始めたような「ちょい遅アダプター」だった僕は、93年シーズンにはほとんどすべて乗り遅れ、初めてのテレビ観戦は94年1月16日に行われたチャンピオンシップの第2戦。ヴェルディ川崎VS鹿島アントラーズになった。

この試合を見たがったのは父親だった。父は鹿島アントラーズを応援していた。

先述のようにこの日が誕生日だった僕は、プレゼントとして買ってもらったばかりのスーファミ版『餓狼伝説2』がやりたくてやりたくてしょうがなかったのだが、ともかく試合が終わるまで待たされた。

おそらく中継で解説がしゃべったのであろう。見ていないはずの第1戦で鹿島アントラーズがすでに敗北しており、苦境に立たされている状況を理解しながら、それでも「はやく終われよ」と思いながら試合の行方を見守った。

この試合は、ヴェルディ川崎が獲得したPKの判定に不服なジーコが、ペナルティスポット(ゴールの少し前にある「こ、ここが性感帯です」みたいな感じのぽっち)上にセットされたサッカーボールに唾を吐いたことでも有名になった。

その唾はきによるジーコ退場と、それでも懸命にPKをストップしたGKの古川の姿に、小学生ながらも「おいおい、なんかすげぇ歴史的戦いを見ちゃってるよ……それはさておき試合終われ」と、手に汗と『餓狼伝説2』を握り締めた。

かくしてヴェルディ川崎がチャンピオンとなり、Jリーグ初年度が終わったわけだが。

そのオフシーズン中に、92年まで週刊少年ジャンプで連載されていた『超機動暴発蹴球野郎 リベロの武田』を全巻一気読みした僕。

もともと僕はアニメや漫画の影響を受けやすい系男子で、『まじかる☆タルるートくん』の座剣邪寧代がけん玉を武器としてあつかっていたのを見てけん玉を買ってもらったりした系男子。

なので『リベ武』に案の定影響された僕は、94年シーズンのJリーグをほぼ開幕から見ることに。

サッカー雑誌なるものを初めて買ったのもこの頃で、デビュー戦から連続ゴールをあげていた城彰二が取り上げられていた。彼はクラスでも話題の人物だった。

試合は見ることが可能な限りすべてテレビで観戦した。

現在はDAZNでJ1~3まで全試合生中継されるが、当時はテレビ局側が選択した試合を強制された。

しかし、サッカーを見ることそのものに夢中になっていた僕には対戦カードはほとんど関係なかった。

それにせいぜい12クラブ。つまり6試合しかない。3試合も放送してくれればその節の半分はチェックできるのだ。

板橋区立志村第三小学校(FC東京の橋本拳人の出身校)のクラスメイトたちは、それぞれ応援しているクラブを持っていた。

オランダより帰国した小倉隆史が好きで名古屋グランパスを選んだ人、GKの加藤好男と名前が一緒だからという理由でジェフ市原を応援していた人、なんか知らないけどやたらとフリューゲルスの話をする人、などが揃っていた。

やはり多かったのはヴェルディ川崎の応援をしている人だ。クラブレベルでの応援はなくとも「カズかっこいい」と語るクラスメイトの言葉を何度も聞いた記憶がある。

存在しないのだから当然だが、志村第三小学校に地元「東京」のJクラブを愛する人はいなかった。

Jリーグでも「ホームタウン」を重視しているが、地球上でもっとも普及しているこのフットボールというスポーツは基本的には「おらが町」への愛とセットである。

この競技を生んだ母国イングランドの様子を、1970年代に同国にわたった東本貢司氏の経験談から引用してみよう。

(前略)とある日、いつものフットボールごっこの仲間数人に訊ねてみた。
「君の贔屓のフットボールクラブは?」
「ヨーク・シティー」
 他の仲間にも次々に同じ質問を向けると、マクルズフィールド、シュールズベリー、ダーリントン、ヘレフォードなどの耳慣れない名前が飛び交った。
ところが、あるひとりがリヴァプールと言った瞬間、申し合わせたように皆が眉をひそめ、鼻でせせら笑うような冷淡さとともに会話が終わってしまったのだ。けむに巻かれた私は、グループが散会してしばらく経ってからハウスメイトのひとりに“わけ”を訊いてみると、彼はこう答えた。
「だって、あいつはピーターボロの生まれなんだぜ」
 ピータボロはロンドンの北方約100キロにある町の名前で、リヴァプールとはもちろん、当時彗星のように表舞台に登場し注目を一身に集めていたケヴィン・キーガンを擁してイングランド1部を席巻していた世界的名門、リヴァプールFCのことだ。
 つまり彼はこう言いたかったのだ。「地元のクラブを袖にして、常にリーグ優勝を争っている全国区のクラブに肩入れするような、お調子者ミーハー野郎なんだ」と。
 どうやら、イングランド人は多分に、フットボールに対する思い入れを生まれ故郷への愛情にダブらせているようである。

東本貢司『イングランド 母なる国のフットボール』NHK出版、2002年


今でこそJリーグだけで55クラブもある。

Jクラブがない県だろうと、JFLやそのさらに下のアマチュアリーグに参加するクラブを応援する人々も(たとえ動員数が数百人規模だろうとも)いるし、上から下まで基本的には同じ方法論で応援している(と思う)。

けれど初年度には10クラブしかなかったし、ヴェルディ川崎、横浜マリノス、横浜フリューゲルス、と3つも神奈川が有していた。
にもかかわらず世は空前のJリーグブームで、人々はサッカーが見たくて見たくてしょうがないのだから、地域性にこだわるほうが無理というものだ。

そうした条件の下、東京生まれ東京育ちの僕は(冒頭でも記したとおり)鹿島アントラーズを愛するクラブとして選んだ。

その予兆はあった。この頃の僕は毎日のように思っていた。

(なんだか最近鹿っぽい気がする……)

と。

思い当たる節はいくつもあった。

妙に鹿煎餅ばかり食べたくなるし、トイレでも丸い粒状の糞ばかり出る。

人間の言葉が分からないと思っているのか「鹿臭ぇー」なんて詰襟の修学旅行生に言われるし、信号が青に変わってから横断歩道を渡るところをよく撮影される。

鹿年生まれの鹿座で血液型もCK型なのも偶然とは思えない。

『聖闘士星矢』の黄金聖闘士でも鹿座のシカマスクでがっかりした。

小学校6年生というと思春期へのとば口。第二次性徴の始まりとともに異性や自分の存在への幼き思索が始まる時期だが、さしあたって「自分は鹿なのでは?」と考え始めた僕が鹿島アントラーズへと向かうのは順当であっただろう。

しかし実際のところ、鹿島を選んだのは父の影響だった。

現存する多くのクラブが19世紀に創設された英国ではむろん、父親どころか祖父より数代前から、地元のクラブへの愛を継承してきているだろう。20世紀初頭にクラブを創ったヨーロッパの他の地域や南米においても同様であろうし、正統なあり方だと言っていいと思う。

今でこそ子連れのサポーターは珍しくもないが、Jリーグが始まったばかりのこの時代は、みんな同時にサポーター、ファン生活を始めたのだ。

したがって、「父から子へのクラブ愛の継承」なるフットボール界のスタンダードは、日本においてはほぼ存在しなかったはずである。クラスメイトにもそんな家庭はなかったように思う。

にもかかわらず、うちではそれが起きた。

……といっても1年の差でしかないが。

こうして鹿島アントラーズの応援を始めた1994年。

明け透けな家庭ではなかったし、どちらかというと「外弁慶」とでも称すべき気質の子供だったので家庭内でいまひとつ自己主張の弱い子供だった僕は、自分が鹿島アントラーズに入れ込み始めたことをなかなか言い出すことは出来なかった。

アルシンドの延長Vゴールが決まって勝利し沸き立つカシマスタジアムと、我が家のテレビの前で喜ぶ父。
僕はおなじ画面を見つめ、胸のうちを激しく興奮させるも、表に出すまでまだ時間がかかった。

時間はかかったものの、けっきょくおなじ家のおなじテレビで試合を見ているわけで、さまざまな影響を父から受けた。

その最たるものがヴェルディ川崎を憎む気持ちだ。

ブーム絶頂のJリーグで最大のスター軍団であり、初年度に鹿島アントラーズと年間王者をかけて戦った仇敵。

しかもそのチャンピオンシップは、ヴェルディ寄りの不可解な判定の連続だったように鹿島側からは見えていた。審判への不満の帰結がジーコの唾はき事件だった。

ヴェルディ川崎が他クラブとの試合においても負けること、これすなわち絶対的正義であるとの価値観を、まるでリヴァプールとユナイテッドのサポーターたちが各々の息子や娘に植え付けるように教え込まれた。

とりわけ、エースであった三浦知良へのディスりは欠かせなかった。

この頃、「ニューチャンプ」というスポーツ用品店が赤羽にあることをサッカー雑誌で発見したのを皮切りに、父親とスポーツ用品店を巡るようにもなった。

じょじょに所有する品々の鹿島グッズ率が高まっていく。

ある日、おなじく赤羽にあった別のスポーツ用品店(店名を失念しており、検索しても不明。もちろん現存しない)の店頭で、Jリーグというリーグそのもののファンクラブ的な組織への入会の誘いを受けた。

たしか年会費は2000円ほどだったように思う(これも記憶が超絶曖昧で、グーグルの力を駆使してもよくわからない)。間違いなく杉本健勇の会員制サービスの月額よりも安かったと思う。

お金は父が支払ったが、入会の書類は僕が記入した。

書類にはいくつかアンケート的な項目があった。

そこに、

「好きなチームはどこですか?」

といった旨の設問があった。

鹿島アントラーズと書き入れた。

これが父の前で初めて明確に、自分も鹿島アントラーズを応援していることを表明した瞬間だった。

ところで、この設問はなぜか、二番手の推しクラブまでも記入する欄があった。

鹿島アントラーズを応援することに決めても、まだまだサッカーそのものを観戦したくてしかたがなかったし、放送している試合は一通り視聴していた。だから二番手クラブはあった。

父の視線がある手前少々迷ったが、ジュビロ磐田と書き入れた。

「マンチェスター・ユナイテッドとアーセナル両方好き」と言ってるようなものだが、この時点ではまだ歴史が築かれる前。

小柄なFWの鈴木将方が奮闘する姿が気に入っていたし、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)とともに94年に加盟したばかり。
93年の各クラブの初年度を見逃した僕が最初から追うことのできたジュビロ磐田はサブの応援対象として手ごろだったのだ。

書類の記入を終えると、会報とキーホルダー、Jリーグのロゴ入り5号球をもらった。

そんなこんなでJリーグ三昧、サッカー三昧な日々を送り、夏になった。

1991年の小学校3年生時に1年未満だが西が丘で練習するサッカーチームに所属していたが(これに関してはチーム名も不明でググってもよくわからないが、3~6年生が学年ごとに別れて練習する大規模なものだった。ユニフォームは上下青一色)、基本的にはサッカーなんてよくわからない時代。

『奥寺康彦の楽しいサッカー』を参照し、西が丘や学校の校庭や公園、道路でボールを蹴り、少しずつ技術を磨いていった。自分ひとりなこともあったが、一緒にプレーするクラスメイトには困らなかった。みんなサッカーが好きだったし、やりたがった。

日本が「ドーハの悲劇」で出場を逃したワールドカップアメリカ大会も始まり、こちらも海外のスターをよくわからないなりに観戦。なんならワールドカップで覚えていくスタイル。

小学生でも名前だけは知っていたディエゴ・マラドーナをいちおうは見ることができたし、決勝もPKまでがっつり観戦し、バッジョの有名な失敗まで目に焼き付けた。

そして迎えた夏休み。

鹿島アントラーズの練習を見に行くことになった

練習を見学に行くなんて発想は子供の僕にはなかった。父はどこで「練習を見に行く」というファン活動のやり方を知ったのだろうか。

プロ選手の練習自体はいちおう覗き見したことがあった。西が丘で行われたファルカン監督下の日本代表だ。

試合前のウォーミングアップを除けば、今でもファルカンジャパンとこの時期の鹿島アントラーズしか生で練習を見たことはない。

鹿嶋までの移動手段は、父の運転する車だったような気もするが、高速バスだったかもしれない。短期間に2回行ったような気もするが、記憶にない。

鹿島のクラブハウスに着き、練習場を目の当たりにして思ったのは「毎日ここに通える場所に住みたい」的なことだった。

鹿島アントラーズはブラジル代表の貴公子レオナルドを獲得するも、ニコスシリーズ(後期)開幕4連敗。本来なら雰囲気が悪くてもおかしくない状態だ。

けれど、レオナルドは集まったファンのために気さくにファンサービスをしてくれた。朝の練習が終わると、集った鹿島サポーターたちのためにサインをしてくれた。

僕は練習場と見学スペースを分ける柵の一番前にいたのだが、レオナルドのサイン欲しさにどんどん後ろから人々が押しかけてきて、とんでもない圧力がかかった。

ついに埋め込み式の柵は倒れた。

倒れたものの、子供だった僕は遠慮もなく色々な選手達にサインをねだっていった。進入不可のところにも入った気がする。

その後、父にどうしたいか聞かれたので、鹿島神宮に行きたいと伝えた。

汐文社という出版社がJリーグ各クラブを題材にした児童書のシリーズを出していた。作者は田中舘哲彦。そのシリーズが板橋区立清水図書館にほとんどすべての巻が揃っていたため、図書館通いだった僕はかたっぱしから読んだ。

鹿島アントラーズを題材にした『やったぜミラクルアントラーズ』には鹿島神宮が登場した。だからそこに行ってみたかったのだ。聖地巡礼的なものである。

午後の練習を見るために練習場に戻ると、朝にサインをもらったところの手前で立ち入り禁止になっていた。

この時期、テレビでのサッカー中継の他に、西が丘で開催されていたJFLを頻繁に生観戦していた。

要するに、東京ガスサッカー部のホームゲームを、だ。

当時のJFLは(といっても観測対象は西が丘のみだったが)試合の後半あたりになると入り口周辺から関係者がいなくなり、無料で入場することができた。無断入場なのか開放されていたのか、それは知らない。

ともかくこの無料入場情報を父がなぜか掴んでいて、程よい時間帯になると、西が丘に連れて行ってくれた(といっても、徒歩1分の距離だが)。

さすが本蓮沼育ちの地元民だ。1994年のこの時点でFC東京の前身で東京ガスサッカー部と出会っていたのだ。

FC東京のコールリーダーである植田朝日さんの著書(『俺のトーキョー! FC東京ラブストーリー』)にもわずかに記述があるが、試合後には駐車場で選手と会話することができた。

先述の、Jリーグそのもののファンクラブ的な組織の会員特典としてもらったサッカーボールを持参していた僕は(試合後に西が丘の空いてるところでボールを蹴る気満々だったし、実際蹴っていた)、そうはいってもまだ綺麗だったボールに、東京ガスの選手達のサインを大量にもらった。

サッカーメディアが応募者1名様に全選手のサイン入りユニフォームやなんかをプレゼントすることがあるが、あんな感じで寄せ書き状態でサインをもらいまくった。選手の名前すら覚えていないのに。

そのなかにはKING OF TOKYOアマラオのサインだって、きっとあったんだろうと思う。

サインをもらっておきながら、11歳の僕は、


(この人たち、Jリーグのプロ選手でもないのに、いっちょまえにかっこつけたサインなんかしちゃうんだ。へー)

なんて、内心で思っていた。

鹿島アントラーズに僕を染めた父が東京ガスとの出会いもくれていた。僕のサッカー人生の始点には、父親の影響が刻み込まれているのだ。

ちなみにこのサッカーボールはさすがに残っていないし、サインもがんがん掠れて消えていったはずだ。

小学6年の三学期。卒業前。

1月16日生まれの僕は、母親からの誕生日プレゼントとして、国立競技場で開催される鹿島アントラーズのチケットをもらった。

いわゆるゴール裏のチケットだった。

母親がそのチケットをどうやって入手したのかはまったくもって不明だったが、当時の僕にはこれ以上ないプレゼントだった。

記録を参照すると、3月22日に開催された1995年シーズンの第二戦。Jリーグ入り元年の柏レイソルとの試合だった。ちなみに柏レイソルのホームゲーム扱いであった。

雨が降っていて、レインコートを着用しての観戦となった。
レインコートの下にはおそらく鹿島アントラーズのユニフォームを着ていったのだろうと思うが、よく覚えていない。当時いくつか所持していた鹿島アントラーズT-シャツだったかもしれない。

人生で初めてのゴール裏。

周囲のサポーターたちの真似をしながらの応援となった。

最初はいささか気恥ずかしさはあったものの、だんだんと吹っ切れていき、鹿島の勝利のために力を捧げた。

結果は勝利だった。

自分はずっとこの中の一員として鹿島アントラーズの応援をするんだと思った。

この少し前から将来はサッカー選手となって鹿島アントラーズでプレイしたいと夢見るようになっていた。

いずれは鹿嶋市で暮らして鹿島を応援しながら選手を目指し、鹿島でプレーしてから、また鹿島を応援する生活に戻る。小学校の作文にも書いた。

12歳の幼い夢想は赤い鹿の色一色だった。

そんなこんなでサッカー漬けの小学校最終年は終わった。

小学校生活の終わりに、サッカーへの情熱のすべてを教えてくれたのが鹿島アントラーズだった。

年度がかわり、1995年4月、板橋区立志村第一中学校へ進学。

プロサッカー選手になりたいと考えていたし、毎週土日はいっしょに校庭でボールを蹴っていたひとつ年上の幼なじみが一足先に同校のサッカー部に入っていたこともあり、入部はほんとうに濃厚だったのだが……。

父が唐突に「パソコン部に入るならパソコン買ってやる」と言い出し、入部届け提出ギリギリのところでパソコン部を選択してしまった。今にして思えば、あれは父がパソコンを買う口実だったと思う。

95年はパソコンを購入するには本来いい年だった。

同年11月に発売されたWindows95はインターネットエクスプローラーがバンドルされており、こいつが日本のインターネット人口を増やした。日本のインターネット元年とされてる年だ。僕の高校生時代のテキストサイト界のスターであったウガニク氏が「オナニー日記」をアップしていたのも、Windows95搭載パソコンだったはずだ。

にもかかわらず、入学当初の4月にパソコンを買ってしまったため、Windows3.1搭載のモニター一体型マシンが我が家に。
テーマパークやなんかのバンドルされているゲームを少々いじった以外はほぼ置物だった。

今でこそ起床と同時にパソコンに電源を入れ、帰宅して最初にやることも電源入れの人々も多いと思うが、一般人にとって当時のパソコンの扱いなんてこんなもの。無用の長物として放置されることとなった。

パソコン部自体も入部したはいいものの、暗い部屋に集うオタク集団の巣窟だったので、(今なら余裕で溶け込めるものの)性に合わずにすぐ行かなくなった。

サッカー部入部を些細なことで逃し、事実上の帰宅部とはなったものの、当初はサッカー熱そのものは冷めていなかった。

冷めてはいなかったが多少は世界が広がったことにより、関心の対象が増え、相対的に自分の中でのサッカーと鹿島に対する熱量が減少した。

もっぱら音楽への関心が高まり、特に小室哲哉プロデュース楽曲のヒットもあり、trfを中心としてそれらの音楽に夢中になった。

中学校に上がったことで学生手帳という身分証をつかいレンタルビデオ店の会員にもなったので、音楽CDをよくレンタルした。

当時エイベックスがたくさんリリースしていたヨーロッパのダンスミュージックのコンピレーションアルバムがあったのだが、うちの近所のレンタルビデオ店はなぜかそれを大量に置いており、よくわからないなりにそれをレンタルして、電子音の踊れる音を聞いたりもした。

それでも自分の中の7割ほどは、まだサッカーと鹿島アントラーズが占めていた。

なのでこの年も鹿嶋の練習を見に行った。

この年は夏休みではなく、もしかしたらゴールデンウィークあたりの鹿島行きとなったようにも思う。時期の記憶は曖昧だが、いずれにせよ父の運転する車で鹿島を訪れた。

午前中はクラブハウスで普通に練習が行われたが、午後はカシマスタジアムでの練習となると、どこかから情報がもたらされた。

集っていた鹿島サポーターたちは慌ててカシマスタジアムに移動。これが24年前のカシマスタジアム行きだった。

行ったはいいものの。

実はこの日の数日前、中学校からのクラスメイトのひとりに『魔法陣グルグル』を猛烈にプッシュされていた。そして鹿島に出発する直前に、コンビニで4巻の単行本を買ってもらっていたのだ。

読み始めたら止まらなくて、目の前の練習中にもかかわらず『グルグル』に読み耽っていた。

頭では「これ後で読めばいいんじゃね? それよりも練習を見るべきでしょ」と分かっていながらも魅了の魔法をかけられたように抗えず。

けっきょく、カシマスタジアムを去る段には父に「ぜんぜん熱狂的じゃない」と言われてしまった。

1996年、中学2年生。

クラス替えで出会う新たなクラスメイトたち。

その中の一人にオタクがいた。

このオタク、高身長でスポーツ万能のバスケ部員で13歳で彼女持ちとかいう、反オタク物質で構成された人物。

出席番号がひとつ違いで席が近かったため、よく話をするようになり、彼によって僕の世界にオタク文化がもたらされた。夏休み目前のことだった。

始まりは『神王伝説クリスタニア』という『ロードス島戦記』と同一世界を舞台とするライトノベルを教わったことだが、その直後に『新世紀エヴァンゲリオン』をプッシュされ、即ハマりかつガチハマり。

島本和彦の『アオイホノオ』で庵野秀明がハーロック歩きやウルトラマンの動きを日常生活で真似るが、あんな感じで初号機の動きを公共空間で真似るくらいハマった。(そのことを友人に「一緒にいて恥ずかしい」とまで言われた)

生活のすべてがエヴァを中心としたオタクコンテンツ(『機動戦艦ナデシコ』や『セイバーマリオネットJ』などなど)に侵食された。心のなかの70%くらいを占めていたサッカーに対する情熱は、15%程度まで落ち込んだ。

ほんとうに直前まで、自分の中の鹿島アントラーズの割合の大きさを示す写真がある。

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中央にいる赤いジャージの少年が13歳の僕だ。

八ヶ岳での林間学校の1シーンなのだが、ジャージのメーカーが「エネーレ」なところが注目ポイント。

初期Jリーグは、リーグ戦では全クラブのユニフォームサプライヤーがミズノで統一されていたが、カップ戦その他では各々が別のメーカーと契約しており、鹿島アントラーズはこのエネーレだったのだ。鹿島の選手たちが登場するカタログまであったと思う。

これは鹿島グッズでもなんでもないが、林間学校用にエネーレの、それも赤のジャージなあたりが鹿島ファンの証だ。(補足しておくと、当時の鹿島アントラーズのジャージは青だった。それは知っていてこれを選んでいる)

こんなジャージを買う人間だったのにアニメオタクへと華麗に転身。

サッカー部に入部しなかった件といい、この時期はあやまちが多い。

小学生時代にほとんどアニメを見てこなかった僕は、広大な未知の世界が広がっていることに興奮し、『クリスタニア』や『エヴァ』のみならず、どんどんオタクコンテンツに手を出していった。

アニメは当然見る。

まだライトノベルなんて言葉もなく、ヤングアダルト小説と称されていた時代の小説群(『MAZE☆爆熱時空』や『スレイヤーズ』『フォーチュン・クエスト』富野由悠季自身の手によるガンダムシリーズのノベライズなどなど)も読み漁る。

当然のようにアニメ雑誌を毎月購入した。『月刊ニュータイプ』派だった。

声優のラジオは聞く。金曜土曜は23時~3時まで文化放送を聴きとおし。

椎名へきると富永み~なの「おこんばんわ」だとか国府田マリ姉の「合言葉はBee~~~~!!」だとか緒方恵美の「銀河の平和は我らが守る!!」だとかの時代である。ついでにいうなら「電撃大賞」は石川英朗と永島由子であった。

日曜も2時くらいまでは聞いていたし、月金の帯で0時から「ファンタジーワールド」というアニラジのゾーンもチェックしていた。月曜日は伊集院光まで聞いていた。

聞くCDも林原めぐみや岩男潤子や奥井雅美のもの。特に林原めぐみは絶対的に買わなければならなかった。

プレイするゲームもオタク的なものになっていった。具体的にいえば『悠久幻想曲』『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』『メルティランサー』『エーベルージュ』などである。どうだ、声優の声付きADVなあたりがオタクっぽいだろ?

それでもとりわけ重要だったのはやはり『エヴァ』であった。

イケメンバスケ部員に教わった直後、ニッポン放送のヤングタイムの帯番組「ゲルゲットショッキングセンター」で1週間まるごとのエヴァ特集が放送された。当時はエヴァ特集があらゆる番組で企画されたが、『エヴァ』ともっとも良好な関係を築いたのがこの番組だった。同番組のメインパーソナリティの井手功二は後にエヴァ本まで出版している。

まだ1本も『エヴァ』を見たことないのにこの番組をガッツリ聴いた。なにもわからなかった。番組中に流れた「残酷な天使のテーゼ」を「残酷な天使のせいで」だと思っていたくらいだ。

今でこそ放送済みアニメを知ったらネットで全話いっきに視聴するのが当たり前になっているが、当時の『エヴァ』を取り巻く状況は違った。

地方局と放送時期に大きなズレがあった90年代。各地方ではおのおの現在進行形で『エヴァ』を放送していた。しかし僕はキー局である東京の子。なので96年の3月に放送終了した『エヴァ』は、もっともテレビで見るのが困難な立場だったのだ。

となるとレンタルビデオの出番である。

だが、『エヴァ』のビデオは放送終了時点では全巻リリースされておらず、それどころか97年の劇場公開時にも20話あたりまでしか発売していなかった。今では考えられないことだが。

なので、ビデオも途中までしか借りることが出来ない。そもそも中学生だったのでそれほどお金もない。

朝日カルチャーセンターで行われた哲学者東浩紀のトークによれば「当時、『エヴァ』の全話録画ビデオをゲットできるか否かは重要な問題だった」らしい。

だが、オタクになりたててオタク的人脈がまったくなかった中学生にはダビングビデオの入手なんてかなわぬ夢。

結局どうしたかといえば、書籍から情報を得ていたのだ。

貞元義行の漫画版と設定資料集、フィルムコミックやムック類、謎本をちょっとずつ入手して読み、まだ映像としては未見の使徒たちに思いを馳せた。(こういう人たちは実際同世代に多かったのではないかと思う)

なので、映画公開に合わせて毎週4話ずつの再放送されたのはほんとうにありがたかった。パーペキな録画をキメた。

こんなキモオタライフをしていれば、さすがに鹿島アントラーズを追いかけるのも厳しくなった。

しかも世間ではJリーグブームの衰退期だったはず。

サッカーはほとんど見ることがなくなり、せいぜい代表の試合だけ。代表厨的存在となっていった。

父も同様だった。父の情熱がどう変化したかは知らないが、そもそも試合中継の数自体が減少していたのだからしかたのないことだった。

高校は私立順天高校に進学。最初に受けてさっさと受かったのでここにした。受験に対して真剣ではなかったので。

禁止されていたものの高校1年の夏には秋葉原の天丼てんや末広町店でバイトを始め、Windows98マシンを購入。インターネット環境を手にいれ、いっそう濃厚なオタクとなっていく。

97~98年にかけて、ジョホールバルの歓喜もワールドカップフランス大会もいちおうテレビで見た。特に前者は感動したが、Jリーグに戻ることはなかった。

本蓮沼から王子駅そばの順校までは自転車で通っていた。
京浜東北線沿線なので埼玉県民が多かく、クラスでは浦和レッズの話を女子すらもしていた。とくにシーズン終盤なんかは。

浦和レッズの話を聞きながら、心のどこかでうらやましいと感じでいた。
けれどもどうしようもないくらいオタクになっており、しかもローランドのMIDI音源を購入し、DTMにまで手を出すタイプのオタクになっていた。サッカーの入り込む余地はほとんどなかった。

在学中、毎日、西が丘サッカー場の周縁部の歩道を走った。2001年3月までだ。2002年のワールドカップ日韓大会のため、西が丘の施設が改修され綺麗になっていくのを、通り過ぎながら毎日眺めていた。時期的には東京ガスがFC東京としてプロ化し、J2を戦っていたころだ。

2001年に高校卒業し浪人。

2001年の1月(つまり受験真っ只中)にジオシティーズを使ってテキストサイトを立ち上げた僕は、浪人中も予備校に行かず、そもそも勉強せずにテキストサイトの更新ばかりしていた。なので2浪してしまった。

2浪したことのすべてが悪いわけでもなく(親からしてみればそうとう悪いけど)、2002年のワールドカップをがっつり観戦できたのはよかった。

さすがにあの空前のブームにはあてられ、ここでサッカー熱が再燃。

トルシエジャパンと並んでブームの中心となったのはデイビッド・ベッカムだった。

このころから僕はベッカムと、彼が幼い頃から愛しプレーするマンチェスター・ユナイテッドの存在が気になり始めた。この2002年は我が家にケーブルテレビが実装された年でもあったのだが、スポーツ専門チャンネルに合わせた際にたまたま試合を見た記憶がある。

W杯が終わり、トルシエは去った。

次なる監督はジーコだった。その初陣は感動的ですらあった。

僕はふたたびJリーグを見始めた。とうぜん応援すべきは鹿島アントラーズだった。


まだかろうじて現役だった長谷川祥之がゴールを決めたことや、ナビスコカップを優勝したことなど、ことあるごとに父に報告した。父は普通の親子の会話として報告を聞いていたが熱意が戻ってくることはないようだった。

シーズンが終わり2003年になり東洋大学文学部に入学するころには、またもJリーグから離れ、アテネ世代やジーコジャパンだけの代表厨的暮らしに戻っていた。

テキストサイトの更新やシーケンスソフトとMIDI音源からDAWに移行したDTM、新本格ミステリならびにメフィスト賞にエロゲー……世の中に誘惑は多く、ともかく忙しかったのである。

他方で、伊集院光を経由してファンになったみうらじゅんと安齋肇によるラジオ番組TR2をよく聴いていたのだが、この番組はFC東京のCMがよく流れていた。このCMのおかげで、この時期「へぇ……味の素スタジアムっていうのがあるのか……」ということが刷り込まれていた。

さて、この大学時代。

2004年に押井守監督の映画『イノセンス』が公開になる。これは95年公開の映画『攻殻機動隊』の続編である。

この作品は宣伝にスタジオジブリの鈴木敏夫が絡んできたせいか、この時期、押井守はプロモーションにためにやたらと世の中の露出が増えていく。

『エヴァ』によってオタクとなったものの、オタクとしての僕がもっともあつい信仰心を抱いていたのは押井守だったので、このビッグウェーヴに乗りに乗った。

新装版の復刊なんかもふくめて、書籍の出版も相次ぎ、その中の一冊に『これが僕の回答である。1995‐2004』というエッセイ集があった。
そこに収録された「勝敗論に徹するということ」(月刊「サイゾー」二〇〇二年八月号掲載)に、以下のような記述があった。

 そういう意味で、今回のワールドカップは基本的には、かなり僕好みな展開となった。僕が個人的に応援していたのはドイツで、彼らの「機能」に徹した「勝つためのサッカー」はとても理想的だった。逆にスペインとかポルトガルとかのサッカーはあまりにも非効率的だ。彼らのサッカーには基本的に「いかに相手をコケにするか」という思想がある。イタリアとフランスは自分たちが完成させた「いかに無駄のないサッカー」をするか、という思想に溺れすぎた。
 ワールドカップとは相手の思想といかに戦うか、という戦争の場だ。自分のサッカーのみを貫こうとして、勝ち残れるほど甘くない。そして、その思想の戦いに関する主役は監督であって、選手ではない。

これは意外だった。押井守信者の中でも彼がサッカー好きなことをこれよりも以前に知っていた人はあまりいなかったと思う。

信者たる僕は、民放の深夜にじゃっかんのディレイを伴って放送されていたセリエA(中村俊輔と中田英寿の日本人が期待されていた時期だ(が、あまり同時にピッチに立っていなかったようにも思う))を見る程度、その他はせいぜいサッカー番組で海外リーグのハイライトを観たり、代表厨をする程度。

そして2006年4月、『イノセンス』の次の作品となる『立喰師列伝』が公開。

この時も商品展開がざまざまに行われたのだが、その商品のなかの一点に『勝つために戦え!』という書籍があった。

「勝敗論」をテーマにした本だったのだが、ほとんどの回が海外サッカーを話題にしていた。

いくつか抜書きしてみよう。

毎週ブンデスリーガを観てる。WOWOWは高原が出る試合しかやってくんないんだけどさ。だから月曜は眠いんだよ(笑)。夜中の3時まで観てさ、9時前に起きて犬の散歩
そりゃやっぱりUEFAチャンピオンズリーグでしょ。CLというか、チェルシーの監督モウリーニョに今注目してるんだよ。モウリーニョって最初は知らなかったんだけど、とにかく笑わない男なの。ゴールが決まってもニコリともしないクールな監督。彼は現役時代は一流選手ではなかったんだけど、間違いなく今の欧州でベスト3に入る監督だよ。彼の場合は自分のカリスマでも戦術でもなくて、人身掌握術だけで戦っている感じがする。不思議と選手には好かれてるみたいでさ、多分選手が納得できることと自分がやりたいことを一致させるのが上手いんだよね。それは監督にとって一番大事なの。しかも勝つことであらゆる不満を解消できるからね。
こないだTVで観たブンデスリーガのブレーメンとシュトゥットガルトの試合で、前半は伯仲の勝負だった。ところが後半あっという間に3-0になった。ポコポコポコって気が付いたら3-0。普段なら外れるヤツがみんな入っちゃった。そういうことがあるんだというのがサッカーなんで、だから面白いんだけどさ。その時に負けてるブレーメンの監督はストライカーを下げてDFを入れた。サポーターは怒り狂ったけど、要はこれ以上傷口が広がるのを避けたんだよ。下手して6-0とかになったら次の試合にも影響してシステムが崩壊しちゃう。だからディフェンシブに切り替えた。そうしたらあっという間に守備が安定して結局3-0で終わったの。ただこれをサポーターがどう評価するか。選手が、替えられたストライカーが、オーナーがどう評価するか。さらに批評家はどう評価するか。全部違うはずなんだよ。監督は最終的には自分の勝つための理論、勝つために何をすべきか、どう特化するかっていう理屈の部分と戦わなくちゃいけないんだよ。特にそれに忠実であろうとすれば、必ずサポーターとぶつかり、オーナーとぶつかり、新聞で叩かれ、しかも選手にそっぽ向かれ、ということになりかねない。だから勝つために特化するということは、全て勝ちに行くということとはちょっと違うんだよ。一見するとそれと逆のことをやる必要もある。確かにあのままやったら1点くらいは入れたかもしれない。でも監督にとっては1点じゃ仕様がない、だったら得点することよりも失点を防ぎたい。だからこの試合は落とすんだと。ただこれをサポーターや選手や球団がどう評価するかはまた別の話だけど。中々面白かったよ。これも確かに監督の戦いだって

とまぁ、こんな調子である。

この本を読んでいるうちに、海外サッカーにどっぷりと浸かりたいという気持ちがふつふつとわいてきていた。

また、本書の聞き手である押井守原理主義者・野田真外氏は「おわりに」にて、

とりあえず、今年二〇〇六年のドイツワールドカップはしっかり観ようと誓いました。

と締めくくっている。

さらに、同年5月。

ラカン派精神分析医である藤田博史の『人形愛の精神分析』出版記念イベントが藤田博史×押井守の対談という形で行われた。

これは前作『イノセンス』が人形を主題とした作品であったためだが、トークイベント終盤の質問タイムにて、「精神分析」と「人形」のイベントでもあるにもかかわらず、押井守ファンの女性が「ワールドカップの見所は?」という質問を投げた。

この質問に対し、その日最大の食いつきを見せた押井監督。ドイツや過去最強のメンバーを揃えたイングランドなどの名を挙げ、大会の全試合を観戦する予定であること、それどころか日ごろのブンデスリーガ中継の解説者の話や読むべきサッカー本の話まで始まる始末(この間藤田氏は沈黙)。

野田真外の「おわりに」と、この質問と回答に後押しされ、ドイツワールドカップは過去最も観戦数の多い大会となった。

日本代表をのぞけば、注目したのはイングランドとドイツとアルゼンチン。とりわけイングランドは最注目である。

ベッカムにとって最後のワールドカップとなったのも無論だが、サッカー番組で見知っていたウェイン・ルーニーの活躍を楽しみにしていた(直前に怪我をして本来のプレーができなかったと思うが)。

この大会の最中から二つの予感があった。

「マンチェスター・ユナイテッドに注目すること」「海外サッカーを観まくること」の二つである。

イングランド対ポルトガルの試合でルーニーとクリスティアーノ・ロナウドが衝突し、ルーニーが退場に追い込まれた際には、「新シーズンのマンチェスター・ユナイテッドからどちらかが欠けたら楽しみが減るな」と心配をした。

大会が終わり、わずかな間をおいて欧州の06-07シーズンが始まった。

ケーブルテレビの力を最大限駆使し、姉萌えエロゲーをプレーする時間すらを投げ捨てて、ともかく多くの試合を見た。

ブンデスリーガ、プレミアリーグ、スコティッシュプレミアリーグ(当時)、リーガエスパニョーラ、エールディビジ、チャンピオンズリーグ、アルゼンチンリーグ、コパ・リベルタドーレス、コパ・スダメリカーナなどなど。

「Foot!」「FIFAフットボール・ムンディアル」のようなサッカー番組まで舐めるように観た。

極端な変転を遂げたわけである。

しかしとはいえ、そんなに大量の映像を見ていられる時期はそう長くは続くわけもなく、見るべき試合は絞り込まれていった。

マンチェスター・ユナイテッドとブンデスリーガ2~3試合、クラシコ、南米の試合といった具合だ。

絞り込んだなかではユナイテッドが最重要であり、いつしか、

「ユナイテッドこそがすべて」

なんて思うようになっていた。

『MANCHESTER UNITED OFFICIAL HISTORY 1878-2002』なるDVDでクラブの重要な歴史の数々を知り、ますますのめり込んでいったし、イングリッシュフットボールについての本も読んだ。

そして知れば知るほど、マンチェスターの街の出身ではないことへのコンプレックスが心のどこかに育っていくのを感じた。

英国に移住する、という選択のためにググったりもしたが、永住権の獲得が困難であることを知るばかりだった(とはいえ、現実にはこれを実現している日本人は何人もいるのだが)。

ユナイテッドが3冠を獲得して以降に制作されたオフィシャルムービーに『MANCHESTER UNITED BEYOND THE PROMISED LAND』と題された作品がある。

この作品にはユナイテッドの熱狂的なファンであるニューヨークの青年が現地観戦に出かけ、地元マンチェスターのファンたちと接する場面が登場する。ここでの会話で「国籍は関係ない」と語られる。

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         引用元:Manchester United: Beyond the Promised Land

また、ディエゴ・マラドーナのDVDを見ると、ナポリ生まれナポリ育ちであろう老人が、「マラドーナはナポリの人間であり、アルゼンチン生まれであることは関係ない」と述べている。

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                    引用元:マラドーナ

どうにもフットボールの世界では、クラブをサポートしている仲間は国籍関係なく仲間であり、地元の一員とみなされるようである。

であるなら、僕という日本人も、ユナイテッドを愛していればそれでよいのではないか。地元マンチェスター生まれのマンキュニアン(マンチェスターっ子)でなくとも、おなじようにユナイテッドさえ愛していれば……。

ましてや、世界をマーケットにしようとしているのは彼ら自身であり、実際に2007年にユナイテッドは日本に興行に訪れている。
けれども、心のどこかで、

(子供のころに親の仕事の都合でマンチェスターに移住し、地元のクラブとしてブライアン・ロブソンやエリック・カントナのいたユナイテッドを応援し、改修前のオールド・トラフォードに通っていれば……)

などと、都合の良いことを考えずにはいられなかった。

2007年くらいには学生時代の友人と音楽を作ったり、2010年~2014年ころにはやる夫スレを投下したりなど、自分自身の活動もあったため、熱意の増減はあったものの、それでも今日に至るまでユナイテッドを愛している自分がいる。

そうこうしているうちに2014年のワールドカップブラジル大会がやってくる。

このころからサッカー関係のフォローを増やしていった。

それまではやる夫スレ作者や読者、東浩紀ゲンロン関係、魔法少女まどか☆マギカの同人作家とマンチェスター・ユナイテッド関係でタイムラインが構成されていたのだが、サッカーの戦術関係や、昼間はJリーグを見て夜は海外サッカーを楽しむサッカー狂の割合がどんどん増えていった。また、やる夫スレ関係のアカウントのなかにもJクラブのサポがおり、当初はやる夫スレ関係者として相互フォローになったが、だんだんとサッカー関係のアカウントとして認識するようになった人もいた。

これによりJリーグ情報がドンドン、ネタ的なものまで含めて入ってくるようになり、じょじょに関心が高まっていった。

クラブワールドカップでの鹿島アントラーズ対レアル・マドリーは燃えたし、オグランパス終焉後の闘莉王復帰なんかも楽しんだし、FC東京もACLに出場しているから「もしかして強いのか?」と勘違いしてtotoをバンバン買ってはバンバン外したり、柳沢敦の不倫に呆れつつ奥さんのCDを聞いたりした。田村ゆかりさんのアビスパ福岡ツイートも、王国民がレベルファイブスタジアムに集結した天覧試合もドメサカブログで楽しんだ。

そして2018年のワールドカップロシア大会。

誰もが記憶に新しいことと思うが、大会前の4月に日本代表監督のハリルホジッチが解任された。この決定のショックでワールドカップそのものへの関心をだいぶ失った。

この件に関しては、中村慎太郎氏のバズりまくったnoteがすべてを代弁してくれている。

「負けろ日本、未来のために」とは言わないまでも、

「KIRIN製品もアディダス製品も買わねぇ! 体脂肪が多い……? じゃあ代表選手よりも俺のほうがフットボーラーに相応しい体脂肪率まで落としてやるよ!」

みたいな気持ちでいた(そして体脂肪の件はいまだ実行されていない)。

過去最も関心が低い状態でワールドカップに突入したのだが、その僕のテンションを最初に高めてくれたのはNHKの観戦アプリによる「戦術カメラ」だった。上空からの視点に固定できるコイツは、(僕はその成果物を読むだけだが)世界中の戦術分析オタクや戦術分析ブロガーたちを喜ばせたに違いなく、中継側の見事な対応ぶりによって僕まで興奮状態になった。

そして迎えた日本代表にとっての最初の試合であるコロンビア戦。

とはいえ、日本代表に期待はしていなかった。

楽しみにしていたのはトルシエ監督の通訳だったフローラン・ダバディ、『砕かれたハリルホジッチ・プラン』の五百蔵容、『サポーターをめぐる冒険』の中村慎太郎、元サッカー選手の丸山龍也による裏解説のほうだった。

楽しくて戦術的な解説を楽しめれば、それでいいや、と。

キックオフ30分くらい前、ちょっと買い物でもしようと、西が丘の前にあるセブンイレブンへ。

そのときに日本代表のユニフォームを着た二人組みの男性とすれ違った。

さすが本蓮沼駅~西が丘間なのかどうか知らないが、その二人の姿を見た瞬間、急速に血中の戦闘的な何かの濃度が、まるでリバプールやマンチェスター・シティと対戦する日と同じくらいにまで高まってきた。

結果として、日本代表の4つの戦いを最高に楽しんだ。

7月2日のベルギー戦敗戦後。

こんなツイートが投稿された。

サッカー関係者たちによる、Jリーグの盛り上がりを期待する声だ。

ワールドカップ直前にヴィッセル神戸がイニエスタを獲得したことの後押しもあり、再開されたJリーグをヴィッセル中心に見ようとは考えていた。

また、こちらはワールドカップ後だが、久保建英選手が横浜Fマリノスへの期限付き移籍をした。これにより出場機会がJ1で増えることが期待された。彼はバルサのカンテラ時代から、海外厨的だった僕の関心を惹きつけてきたため、Jリーグとはいえプレーを見たかった。

それと同時に、やはり鹿島アントラーズである。神戸の試合と同時間帯の開催でない限り、DAZNにて全試合中継されるJリーグのなかから鹿島の試合を選んでいた。

さて、先のツイートにおいて、ついでのようになされた本の宣伝につられ、まんま購入した僕であったが。


読み終えるころには、僕にひとつの変化が起きていた。

「FC東京の試合を現地で見たい」という欲望がわいてきたのだ。

本書『サポーターをめぐる冒険』は、著者である中村慎太郎がとあるきっかけでJリーグの試合を観戦し、だんだんとFC東京サポーターになっていく過程を描いた本だ。

であると同時に、苦しい研究者生活からライターになり、サポーター文化の中に飛び込むことで掴んだ体験を記すことで作家として目覚めていく物語である。

が、さらに同時に、人間はどうしようもなく故郷から逃れがたく、東京という一様には捉えがたい街への不思議な愛着を自覚していく話でもある。

上記の三つは第15節「東京からメリークリスマス」において交差する。

舞台は天皇杯の準々決勝。

リーグ戦も終り、残す天皇杯を最後に引退を決めていたルーカス選手が小平グラウンドでの練習中に全治6ヶ月の怪我をした。選手たちもサポーターもみな、元旦までルーカスといっしょに戦うつもりだったはずなのに、それは叶わなくなった。

けれど、病院にいるルーカスに前を向いて欲しい。そのためには勝利が必要だ。だから著者に唯一できること、応援をする。応援をしにいく。

そう決めて、アウェー仙台の地へ。

ユアテックスタジアム仙台での一戦は、考えられる限り最悪のスタートを切った。試合開始直後に先制を許したのだ。

その後90分近く無得点が続く。控えゴールキーパーの塩田のセーブと必死のディフェンスと運で追加点をゆるすことはなかったが、FC東京もあと一歩のところで1点がとれない。

いよいよ中盤を省略してロングボールに頼るアディショナルタイムの土壇場にてフリーキックを獲得。

駆け上がってきたゴールキーパー塩田が相手キーパーの視界を遮るような位置取りを味方選手に指示し、太田宏介の蹴ったフリーキックが、ついに試合をふりだしに戻すことに成功。ビジターのゴール裏に集った東京サポーターたちはよろこびを爆発させ、いっきに逆転ムードとなった。

    楽しい都 恋の都
    夢のパラダイスよ 華の東京
 
 調べてみると随分古い曲のようだが、東京という街に対する素直で肯定的な歌だ。この曲を聴くと、得体の知れない複雑な気持ちになった。生まれ育った土地への思い、ルーカスへの思い、共に戦うFC東京の選手とサポーター達との一体感、鬼神と化した塩田、太田のフリーキック、色々なものがぐちゃぐちゃに混ざっていった。
 この感情を一言で説明すると、「涙が止まらなくなるような気持ち」としか言いようがない。目には涙が溜まっていて、時折流れ落ちていった。この気持ち、止まらないぜ。
 そして、延長戦が始まった。
 
    バモス東京 バモス東京 バモス東京
    東京こそすべて 俺らを熱くする
    情熱をぶつけろ 優勝をつかみ取れ
 
 東京こそすべて。東京こそすべて。東京こそすべて。
 何度も何度も口に出していると、涙が止まらなくなっていった。
 こんなに美しい言葉は聞いたことがなかった。生まれ育った土地が、ぼくのすべてなのだ。理屈はよくわからない。しかし、妙に納得した。東京こそすべてなのだ。

そも著者と年齢が近く、本書の序盤から共感の多い本ではあった。

ではあるものの、この文章を読んだとき(著者の筆運びの巧みさもあるのだろうが)、過剰な共振をしてしまった。

「東京こそすべて」。そして「東京」

きっと、同じ現場で同じ試合を見ていたら、僕も同じように涙がこぼれてきていたかもしれない。

世界には、そして人の生には、自己による決定可能性と決定不可能性のふたつが満ちている。

自身の決断の帰結として達成感による喜び。できると思ったのにそのための力が足りず手の届かなかった悔しさ。不意にもたらされた不運による悲しみや喪失感。あるいは予期せぬ幸運……。

たとえばルーカスがこの状況で怪我をし、以後の選択に関わらず、FC東京での活動を離れて病院で治療に専念しなければならない。これは当然誰の意思でも自己決定でもなく、偶然がいやおうなしにもたらしたものだ。

自己決定と外部からもたらされたものの両者は、ともに僕たちの感情を弄ぶように揺さぶり続ける。

その多くの瞬間は「東京」と名指されるこの複雑な街のどこかで経験したことだった。

だから「東京」を歌うと涙が出てきてしまう瞬間があるのだろう。

僕たちのように東京を故郷とする人間には。

たぶん、幼い子供のサポーターにはこの涙はまだない。いずれ同じ経験をする瞬間が来る類のものだと思う。

僕は30代でこの本と出会ったから、読みながらにして共振が起きたのだろう。

天皇杯を準決勝で敗退しFC東京のシーズンが終わり、『サポーターをめぐる冒険』は最終節の「第17節」へ。

フットサルを終えた著者が飯田橋駅で降りて東京の街を歩き回る描写(と学生時代の回想)が続く。

 飯田橋駅には東京大神宮と靖国神社への道順が掲示してあった。そうだ、今日は元日だからついでに初詣をするのもいいかもしれない。ぼくは、詳しい道順は調べずに、矢印のほうに向けて適当に歩き始めた。東京という街では、歩いていれば何処かに辿り着くことができるのだ。この街のことは何だって知っているとまでは言い切れないが、ぼくにとって世界で一番馴染みのある場所なのは間違いない。
(中略)
 白山通りとの交差点を越えると神保町の書店街に入る。この街で何百冊の本を買っただろうか。左の坂を登っていくと御茶ノ水だ。ここらの楽器屋に毎週のように通っていた時代があったが、今は楽器を弾いていないので用字はない。
 そのまままっすぐ進むと秋葉原、さらに行くと浅草橋、端を越えると両国だ。すべて思い出深い土地だ。浅草橋にはバスケチームのホームタウンがあったし、知人がやっているアクセサリー問屋もある。両国には母校の安田学園高校があって、森下のほうに行くと叔父が経営している印刷屋がある。どの方角を向いても、思い出が転がっている。東京は、一番よく知っている街なのだ。詳しく知ることによって愛着が生まれ、接し続けることによってそれが固定されていく。
(中略)
 東京駅は、街の象徴の1つではあるが、こんなところに住んでいる人はいない。東京の住人は、中心地から少し外れたところにある小さな街に帰っていくのだ。東京とは、小さな街の集合体であり、東京駅は、俺たちがそれぞれ住んでいる場所を繋いでいるだけだ。大きすぎて全体像がよくわからない街だが、ぼくにとっては一番馴染みのある街であり、一番好きな街だ。

この最終節を読みながら想起したのは、マンチェスター・ユナイテッドのサポーターズソング「Take Me Home United Road」だった。

いわずと知れたジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads」が原曲だ。日本においては映画『耳をすませば』の主題歌として歌われた日本語訳の「カントリーロード」として有名だろう。

第15節「東京からメリークリスマス」における共振は、マンチェスター・ユナイテッドがあったからこそだと感じる。

既に、東本貢司『イングランド 母なる国のフットボール』において見たように「イングランド人は多分に、フットボールに対する思い入れを生まれ故郷への愛情にダブらせている」そうだ。

僕が東本の書にあたったのはマンチェスター・ユナイテッドを経由してイングリッシュフットボール全体に関心を抱いたからだ。

だからこそ、『サポーターをめぐる冒険』において、東京の人間である著者がFC東京のサポーターになってしまうことがフットボール文化にもっとも忠実であることをただちに理解できた。実際に、『サポーターをめぐる冒険』のなかほどで、著者の中村慎太郎は浦和レッズのホームゲームの後に浦和サポーターたちとの飲み会に参加している。そこで「慎太郎さんは、浦和サポにはならないの?」との問いを投げかけられ、うまく返答をできずにいた。その理由がいくつか自己分析的に記されているが、そのなかに「浦和という地名にも馴染みもなかった」とある。

僕の共振と感動はそこにあった。

もちろん『サポーターをめぐる冒険』ではサポーターの多様なありかたが肯定されている。各人の考えに基づいてよし、とされている。

とはいえ、世界で最も長いフットボールの伝統をもつ母国イングランドの在り方が正統性を見るのも、そうおかしなことではない。

そしてその「東京こそすべて」に共振したからこそ、自分がどうしようもなく東京の人間でマンチェスターに生まれていない事実を痛感させられたのだ。

大学が都営三田線の白山駅にあった僕は、第17節に登場する景色はよく知っている。神保町から秋葉原を友人と歩いたし、なんなら喧嘩だってした。東京駅は長く働いた場所だし、コミックマーケットにむかうバスの乗り場としても重要だ。

東京駅や神保町、秋葉原あたりから本蓮沼まで歩いてみたことなんて何度もあるから、このあたりは自分の家がある街へと明確に続く道だ。身体の行動履歴としてよく知っている。

高校時代に『耳をすませば』にハマり、一時期は聖蹟桜ヶ丘まで自転車で往復していた。調布や府中を駆け抜けていた。東京スタジアム(味の素スタジアム)が建造中~できたてホヤホヤのころだ。我が家の前の道(ロード)もFC東京のホームに続いているのだ。

が、どう考えても英国はマンチェスター、オールド・トラフォードにまで続いているなんてことはない。

自分は「東京」の人間なのだ。FC東京の試合を見てみたい。

さて。『サポーターをめぐる冒険』の話が長く続いたが、ワールドカップ後のツイッターに戻る。

Jリーグの盛り上がりを期待するツイートのほかに、ストリートサッカーに関するツイートも見かけていた。

僕たちはかつて西が丘の至るところで時間を問わずボールを蹴っていた。
東京ガスの選手たちにボールにサインをもらったのだって、試合の後にボールを蹴るために持っていっていたから実現したのだ。というか、その周囲で蹴ってすらいたように記憶している。

日韓ワールドカップのために生まれ変わって綺麗になった西が丘は、用もなしに侵入することが躊躇われるようになっていた。

しかし、試合観戦のためなら堂々と中に入れるし、かつてボールを蹴った場所を歩いてまわりたいと思った。

『サポーターをめぐる冒険』により、FC東京の試合を見たくなった。
かつてストリートサッカーをした場所の思い出に触れたくなった。

そしてU-23チームが西が丘でホームゲームを行うというので、これはFC東京ならびにJリーグ見たさと、かつての遊び場見たさの両方を満たせることに気がつき、次のチケットを買った。

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FC東京U-23対ザスパクサツ群馬(2018年8月25日 味の素フィールド西が丘)

この試合の様子は観戦記としてnoteに投稿済みである。

この試合は、試合展開そのものもなかなか面白かったのだが、試合から受け取ったものは大雑把に言って以下の2つである。

・生の試合観戦やみつきになるぅううう
・リーグのレベルに関係なく、少しでも上手くなりたいと思ってがんばる選手たち尊い……推せる……

上のnote内にも記したが、この時点での僕は「FC東京の試合を見る」という体験そのものには惹かれながらも、まだ応援するには至っていなかった。ザスパクサツ群馬への好感度がFC東京へのそれをわずかに上回ったからである。

というわけで、またサッカーを(ある程度FC東京の試合を織り交ぜつつ)現地観戦したい! と思うようになった。それも国内リーグを。

DAZNでもJリーグを楽しみつつ、次の観戦の機会を探った。

FC東京U-23対AC長野パルセイロ(2018年11月23日 味の素フィールド西が丘)

次の機会は結局、2018シーズンのJ3最終戦となった。前回とおなじくFC東京U-23。対するはAC長野パルセイロだ。

この試合を選んだ理由は「東京対長野」の戦いだったからだ。長野の小諸は母の故郷である。

「東京」と「母の故郷」がぶつかったときに、どう感じるのかを知りたいという気持ちもあったと思う。

この試合の前に情報を収集していて偶然目にしたのが、平岡翼選手が契約満了で退団という話だった。

知らない選手だったが、前回のザスパクサツ群馬戦でもメンバーにいたらしい。

なかなか面白いメンバー構成で、元日本代表の前田遼一なんかも入っている。

芳賀日陽選手はベンチ入りもしていなかった。

この日はギリギリの時間に西が丘(なんせキックオフ2分前に家を出ても間に合うのでつい遅れてしまう)に入ったため、席がほとんど空いておらず、ベンチの屋根で視界が大きく遮られる席に座ることになった。

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この日まず印象的だったのは、横並びで座った女子だった。

ユニフォームではないが、耳元のアクセサリーからブーツに至るまで全身を青赤コーデで参戦していた。パンツの見えかねないかなり短いスカートだったが、スカート内まで青赤を意識しているのかは不明だった。いずれにせよ、FC東京がそうとうお好きなんだろう。

で、この子。FC東京の選手がシュートを放つも得点にならなかったとき、思いっきり地団駄を踏んだのだ。くにおくんシリーズのマッハキックを左右交互にやるがごとく、ものすごい速度で。

そんなにワンプレーに気持ちを込めて試合を見守ることができるのか……と、驚いた瞬間だった。

観戦をしながらぼんやりと考えていた。

自分は日本のサッカーに対してなにができるのか、と。

若者は「自分に何ができるだろうか?」と考えるものである。自分の可能性をさぐるのが10代20代だ。

困ったことに僕は35歳になってもそんなことを考えていた。

世間の多くの35歳は

(セックスレスになってだいたい2年くらいか……今夜誘っても拒否されるんだろうな……)

とか考えているのに、である。

ベルギー戦の敗戦後からそんなことを考えていた。

目の前で戦う選手達を眺めながら、いくつかのことを思いつく。

●勝手に観光協会の日本サッカー版
勝手に観光協会とはなにか。その説明を、公式youtubeチャンネルから引用しよう。

「勝手に観光協会」とは・・・・・・
みうらじゅん&安齋肇により1997年結成。頼まれもしないのに、勝手に各地を視察し、勝手に観光ポスターを制作し、勝手にご当地マスコットを考案し、勝手にご当地ソングを作詞・作曲・旅館録音(リョカ録)し続けている大きなお世話ユニットである。

そのサポーター版の活動というのもアリなのではないか、と思った。

たとえば松本山雅のホームゲームを見に行く。その旅行過程や周辺のお店、観光名所などをまわる。それを発信する。

もちろんここまではサポーター系ユーチューバーやなんかがとっくにやっていることだが、さらに曲を作るなどもしていく。その曲というのは応援ではなく、観戦旅行の体験の曲だ。

曲は僕の場合はDTMで、つまり電子音で作ることになるが、これのPVに英訳詞をつけるなどして、Jリーグまでチェックしているような海外のサッカー狂に届ける。旅行記も日本語ページと英訳ページの両方を作る。

サッカー系Youtuberがやるのはトークイベントだが、こちらは音楽ライブだ。

なんてことを考えて「けっこういいかも……」と思った。

このアイディアにはマンチェスター・ユナイテッドファン的目線も入っている。

というのも、日本の旅行会社ではヨーロッパの主要クラブの海外サッカーツアーが組まれているが、外国当地の旅行会社に、日本のJリーグ観戦ツアーが存在するのか、という疑問が生じたからだ。

けれど、そういった旅行ガイドではあまり扱われず、それでいて地域の歴史的文化的食事的豊かさにとって重要な文物の紹介がどれだけなされているのかはあやしい。ひこにゃんやくまモンのような非本来的な意味でのゆるキャラは紹介されるかもしれないが、ブンカッキーやトリピーなどの元祖ゆるキャラの紹介なんてされるわけないのではないか、と思う。

だったら、Jクラブのスタジアムとその周辺の散策を込めた旅行をしたくなるような、各地の文化産物と注目度の低いゆるキャラたちの情報の発信するべきでは、と思ったのだ。

だいぶお金がかかりそうなうえにどこから手伝ってくれる人がわいてくる算段なのか謎だが、「これイイじゃん!」なんてひそかに考えた。

●大人と子供の泊りがけフットサル合宿
山梨あたりにあるフットサルコート併設の宿泊施設で2泊3日くらいでやる。夏休みかなんかに。
親子が時間を忘れて大人数でボールを蹴って、しかもBBQをしたり、湖かなんかで遊んだりもする。子供にとって学外の友達作りにもなるし、お父さんお母さん同士での出会いもあるだろう。なんなら不倫も始まるかもしれない(お父さん同士で)。
フットサルの指導をできる人間を連れて行けば1日目をフットサル教室にもできる。運転手付きバスなんかもレンタルしちゃえば東京集合でいける。

だいぶお金がかかりそうなうえにどこから手伝ってくれる人がわいてくる算段なのか謎だが、「これイイじゃん!」なんてひそかに考えた。

●日本でストリートサッカー
日本でストリートサッカーができないか検証。出来る場所を日本中から探してオフ会でプレーし、動画なんかのレポートをあげていく。
これは「日本はプレーできる場所が少ない。本当はストリートでもいいということをわかってない」という意見をツイッター上で目にしたことが発端。

もちろん通常はストリートサッカーなんて迷惑なだけだし、危険も多いだろう(小学生のとき散々やったけど)。

でもさがせば、迷惑がほとんどかからないエアポケット的空間もあるんじゃないか? なんて愚考したのだった。

35歳にもなって考えることか、これ?

●サポーターをめぐってインタビュー
インタビューを受ける機会もないしネットでの発信も基本的にはしていないようなファン・サポーターの人たちのインタビューを日本全国のサッカースタジアムをめぐって、とってくる本。名もなきおっさんおばさん、じじいばばあ、息子夫婦なんかの人生とサッカーの絡み合いが大量に読める貴重な本。

地元クラブにレプリカユニフォームを着て通う還暦間近のご夫婦なんかに、そもそもの応援のきっかけやなんかからインタビューしていく。おそらく日本サッカー史を描いた本にもなるはずである。

コミックマーケット、文学フリマ、ネット通販で販売。

だいぶお金がかかりそうなうえにどこから手伝ってくれる人がわいてくる算段なのか謎だが、「これイイじゃん!」なんてひそかに考えた。

そんな妄想以前の夢想を繰り広げていると、試合終了の笛。

FC東京U-23はJ3最下位に沈んでおり、良いプレーをする局面があっても、勝利を逃し続けていた。この日も、最後まで懸命なプレーを見せたものの、FC東京U-23は敗北した。

ザスパクサツ戦と同様に、その場に崩れ落ちるFC東京U-23の選手たち。

この試合で勝つため、せめて引き分けに持ち込むために最後の瞬間まで走り続けたのはもちろん、シーズンのすべてが終わったからだろう。

最下位で最終節に敗戦。結果を出せずに何もかも終わってしまった。

とりわけ目を惹いたのは契約満了で退団の決まっている平岡翼選手の姿。彼はプレー中から際立った意欲を発揮しているように見えたが、敗北でFC東京での(今の時点での)すべての時間を終えた。

その姿を見て、

(なんか、日本人のやるサッカーって愛しいなぁ……)

と、感じた。

FC東京U-23は要するにBチームであり、プロ契約前の2種登録の選手もいる。ここからトップであるJ1の出場は狭き門のはず。

他方の長野パルセイロ。こちらはクラブとしてのトップチームではあるものの、所属するディビジョンは3部リーグ。

両チームにいえることだが、日本国内、なんなら世界中でも、この日出場した選手達と同世代、年下が、もっと競争力のあるリーグでいくらでもプレーしている。

しかし、そうしたリーグの格やレベルの上下とは無関係に、いま自分の力にふさわしい場所で、個人でもチームでも、少しでも良い結果を目指す。少しでも「上手くなりたい」と願ってひたむきに練習を重ねる。前回観戦のザスパクサツ群馬の選手達だって同じのはず。

『サポーターをめぐる冒険』を読んで「FC東京の試合を見たい!」と思った僕だが、この試合あたりから日本サッカー全体へと興味と愛しさが拡散していっていた。

この日が2018年の最終戦だったということもあり、安間貴義監督からシーズン締めくくりの挨拶。

FC東京のサポーターでもなければ、まだ2試合しか見たことない僕が、関係者や熱狂的なファンのように正面で聞いてしまった。

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試合後にツイッターで芳賀選手のアカウントを見ると「引退」という言葉が使われていた。これはU-18からトップチームに上がれなかったので大学に行ってサッカーを続けるという意味だが、サッカーかな離れるということかと勘違いして一瞬ドキリとした。

さて、2018年の日本サッカーはおおむね終わった。

しかし、日本サッカーのオフシーズンはヨーロッパサッカーのシーズン中である。

愛するマンチェスター・ユナイテッドはジョゼ・モウリーニョを解任。暫定監督として同クラブのレジェンドであるオーレ・グンナー・スールシャールを迎えた。

米国でプレー中のウェイン・ルーニーからの助言もあり、ユナイテッドは本来のアタッキング・フットボールを取り戻し、それまでの停滞したムードが嘘のように連勝を重ねた。

チャンピオンズリーグではベスト16でパリ・サンジェルマンを撃破。続くベスト8では、バルセロナを相手にセカンドレグまで興味を繋ぐ戦いをした。

全世界のユナイテッドのファンたちは幸福の中にいた。自分もその中のひとりだった。

さて

2019年も2月になり、日本サッカー界も公式戦が始まる頃。

こんなことを考えるようになっていた。

まだ残存している『サポーターをめぐる冒険』の余熱と、J3でのFC東京U-23観戦によるものだ。

しかし、まだFC東京を応援することを決断するに至ってはいなかった。

至ってはいなかったが、自分自身を試す必要があるとは感じていたのだと思う。

と同時に、長野パルセイロ戦の最中に芽生えた日本サッカーそのものへの関心。

だから、まずはどこかで試合を見たくなった。

大宮アルディージャ対ヴァンフォーレ甲府(2019年2月24日 NACK5スタジアム大宮)

関東圏のスタジアムをしらべていたところ、ふと「NACK5スタジアム大宮に行ってみたいなぁ」と思いついた。

予定は空いていたし、大宮なら1回乗り換えるだけですむ。

大宮アルディージャの試合をどうしても見たいというわけではなかった。

どちらかというとスタジアムに行きたい、という気持ちだった。西が丘を増設したかのような親しみやすい規模の専用スタジアムで、サッカーのある空間そのものを楽しみたいと思った。ならびに、サッカーのある街と日本サッカーの文化に、FC東京U-23以外でも触れたいという思いも。

ナクスタ行きの前日。J1の開幕節で鹿島アントラーズ対大分トリニータの試合が行われた。

アマチュアリーグであるJFLから(まるでレスター・シティのジェイミー・ヴァーディのように)のし上がってきた藤本憲明選手によるゴールを楽しんでいる自分がいた。鹿島アントラーズの敗戦にもかかわらず、である。

(もしかして、鹿島アントラーズに対して残してきたわずかな想いすら失われつつある……?)

なんて疑念を抱いた。

思えば、J3最終節のFC東京U-23対AC長野パルセイロの試合でも、自分の気持ちはどっちつかずだった。

母の故郷である長野のクラブを応援するでもなければ、FC東京サポーターでもなく、とうぜんユルネバも歌わない。それでいて、試合の終りには、力を出し切っても求める結果に届かなかったFC東京の若い選手たちの崩れ落ちる姿に胸を打たれた。

どんなにがんばっても才能や実力の差がある。なんとかしてあげたいと思っても、本人の人生と自分がとってかわることはできない。そして、自分だって力のある存在ではない。ただ見守って、次に向かって励ますことしかできない。

これはわが子を見る父親の視線なのではないか、との考えが一瞬浮かんだ。

勝手に観光協会の埼玉県御当地ソング「やるねさいたま」をイヤホンで聞きつつ家を出て、本蓮沼駅から都営三田線で新板橋駅へ。

JRの板橋駅まで歩く。古臭かった板橋駅は大幅に改装されていた。

脱糞のため男性用トイレの個室に入るとそこも綺麗。まだDQNカップルのファックにも使用されていないだろう。

で、そこから埼京線で大宮へ。

車内ではOWL magazineの記事を読む。

OWL magazineというのは中村慎太郎さんたちが立ち上げたProject OWLの1コンテンツであり、現状(当note執筆時点)の主力コンテンツだ。主としてサッカーに関する旅の記事をnoteの共同編集マガジンとして提供するWeb読み物である。

一般からの寄稿も受け付けている(添削アリ)参加型マガジンであり、Project OWL全体ではコミュニティとしてサッカー好きでProject OWLに賛同する人々を繋げる役目を担い、動画配信やイベント開催もしている。

プロジェクトが立ち上がるぞ、という直前くらいには存在を知っていた僕はさっそく月額課金。

スタジアムに向かう車内でサッカー旅の記事を読むことで、気持ちがどんどん高まっていった。

そんなこんなで駅に着いた。

大宮駅はターミナル駅なためか、駅構内にそれほどアルディージャ感オレンジ感がない。なんなら高崎線の案内こそがオレンジ感出してきている。

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とはいえやはりスタジアム行き出口には看板があり、駅前に出ると……

いっきにアルディージャ感が迎えてくれた。

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この通りを抜け、ユニフォーム姿の人々についていく。

東京の人間はなかなか埼玉の大きな街に行く機会なんてないが、大宮は駅前に魅力的な雰囲気をたたえた飲食店が立ち並んでおり、暮らしやすそうな印象を受けた。

背の高い木々が左右に並ぶ氷川神社への参道を歩いていると、鹿島神宮の参道を歩いた日の記憶がわずかに蘇ってくる。

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参拝をするでもないなりに神社を見てから、スタジアムへ。

サポーターの歌うチャントに迎えられながらホーム側ゲートに並ぶ。

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よく晴れたスタジアムは。まだ2月だというのにじゃっかん暑かった。

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着ている上着を脱ごうかと思ったものの、おそろしいことにこの日、マンチェスター・ユナイテッドのシャツを下に着ていた。ユナイテッドのアパレルを身につけていることよりも、チームカラーが赤なことが問題だった。さすがに大宮アルディージャのホーム側ゲートに赤い服で並ぶわけにはいかなった。

入場し、まずはスタグルを買うことにした。人生で初めてのスタグルである。

深谷ねぎをのせたタレ漬け唐揚げとビールを購入し、席へ。

バックスタンドの、大宮ゴール裏にかなり近い場所に席を決めた。

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ゴール裏ではないものの、熱心なサポーターの密集しているゾーンであることにかわりはなく、どちらのサポーターでもない自分はどんどん不安になっていった。急に場違いなところにいる気がこみ上げてきて、居心地が悪くなった。右手にはユニフォーム姿の子供達が並んでおり、真後ろにはその母親軍団だった。子供達以上に母親軍団がバリバリサッカーの話をしまくっていた。大宮アルディージャ知識のまるでないこちらとしては、話しかけられたわけでもないのにどんどん不安が募っていった。

とはいえ、なれないスタジアムで場所を移る気にもなれず、あきらめてスタグルを食べた(二口女なので後頭部で)。

場所が場所だけに、サポーターたちの様子はよく観察できた。

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大宮ゴール裏は高い密度感と急な傾斜でオレンジの壁を作っていた。

チャントが聞こえてくる。

FC東京のサポーターたちが「You'll never walk alone」を歌うがごとく、オレンジのマフラーをかかげて。

叫ばずにはいられない
大宮への愛を歌う
オレンジと紺の勇者 俺たちの街の誇り
だからどんな時もここに集い
大宮への愛を歌う
この歌よ君に届け 共に戦うために

ケーブルテレビやDAZNでユナイテッドの試合を日本にいながらにして見続けてきた自分とは違い、毎週のようにオレンジの壁の中で歌い続けることのできる人々の暮らしとはどんなものなだろうか。きっと地元である「大宮」の名の唱和のただなかにいる人生とは……。

駅からせいぜい20分歩いた程度でも住みよく見えるこの街で、まるでイングランドの3~4部リーグのような親しみやすい規模のスタジアムに集って生きていく生活は理想的な暮らしと思えた。

バーモー バモー バモ大宮 バーモー
バモ大宮 バーモー バモ大宮 バーモー

愛してるぜ We are ORANGE 気持ち込めて歌うのさ
俺等の誇り大宮 さぁ行こうぜ

ザスパクサツ群馬のチャントを聞いたとき以上に、大宮サポーターたちのチャントにホームタウンの地名「大宮」という言葉が多く含まれていたと思う。

そのためか、自分と大宮の地がいかに縁遠いか強く実感させられた。大宮への愛は自分にはない。愛(愛着と言ったほうがより近い感情だと思う)が育まれる人生の履歴をもっていない。

だから、チャントを歌いながらマフラーをかかげるオレンジの集団のただなかで、入場時にタオルマフラーを配布されていたものの、かかげるマネすらする気になれなかった。自分がやるのは嘘だと思った。

大宮の街で大宮サポをする人生は魅力的に思えるものの、その一員になる条件を自分が備えていないことを心が理解していた。

試合中、子供達は子供達、母親軍団は母親軍団でしている話がずっと聞こえていた。

その母親軍団のひとりが、控えゴールキーパーである塩田仁史の話を始めた。

『サポーターをめぐる冒険』に登場する選手のなかでも、特に印象に残ったうちのひとりだ。

そのお母さんは塩田が好きらしい。

彼は『サポーターめぐる冒険』でも、サポーターに愛される選手として登場した。

はからずも、移籍先のクラブでおなじように愛されていることを知り、なんとも嬉しい気持ちになる。嬉しい気持ちにしてくれたそのお母さんに、二口女として後頭部でキスしようと思ったが、なんと後頭部に口がないことが判明。後ろ髪に絡みつく深谷ねぎと、フードに落下した唐揚げが発見された。

試合はスコアレスのドローだった。しかし大宮サポーターにとってはシーズンに期待をもてるゲーム内容だったのだろう、選手達をおおいに称えていた。

帰り道、今日見た光景のことを考えた。

つまり「子供」や「親子」のことだ。

サッカーの現場には親子連れが多い、というのは、考えてみれば当たり前なのかもしれないが、実際に目の当たりにするまで思いもよらなかった。

子供を育てるということは、定住する地を選択することと近い関係にある。たとえば小学校に子供が入学したら、転校が生じるような転居を選択する親はあまりいないだろう。

子供もいないし(そもそも結婚してないし)、教育に対する意見とか特になく、

「チンポルギーニカウンタック」くらい漢字で書ける子に育つと良いな。

とかボンヤリ思う程度の僕だが、子供を作るということは、住む土地を決めることであり、それは親が人生の可能性を一定レベルであきらめることなのではないか、と思った。

子供は住む場所を自己決定できない。それが故郷への想いを育んでいく。

すなわち、故郷への愛というのはその裏側に親のあきらめが存在するのではないか、と。

FC東京U-23対いわてグルージャ盛岡(2019年3月16日 味の素フィールド西が丘)

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我が家から徒歩30秒~1分程度の距離にある味の素フィールド西が丘。
J3第2節、FC東京U-23にとってはホームの開幕戦である。

前年はけっきょく2試合の観戦にとどまったFC東京U-23であったが、実際はもう少し観戦したいと思っていた。

2試合にとどまった理由は主に熱意の問題で、試合日程を確認し、スケジュールをそれに合わせ込むということをしなかったためだ。
入場時に『FC東京U-23 2019シーズンガイドブック』なる小冊子をいただく。

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芳賀日陽君はもういない。印象的だったリッピ・ヴェローゾはどこへ行った?

おもえば、ここ25年ほどのマンチェスター・ユナイテッドは主力選手の入れ替わりが少ないクラブだった。ライアン・ギグスやポール・スコールズ、ウエィン・ルーニーといった超一流クラスの選手が揃っていたのだから当然といえば当然だが。

ユナイテッド慣れしていた僕には、U-23チームの入れ替わりの激しさはいささか驚きであった。

東京武蔵野シティFC対奈良クラブ(2019年3月24日 武蔵野陸上競技場)

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JFLの試合を見に行くことにした。

東京武蔵野シティのホームゲームだったが、どちらかといえば奈良クラブに関心があった。

2018年12月。奈良クラブが新体制を発表した。

GMに林舞輝が就任した。これは驚きだった。

林氏は名門ポルト大学大学院で学び、イギリスのチャールトンとポルトガルのボアビスタでコーチを経験を積み、ジョゼ・モウリーニョの指導者養成講座にも合格した人物で、就任時点で23歳と非常に若い人物だった。

フットボリスタへの寄稿でも知られ、ごく限られた界隈では「牛丼の神」として知られる。

もちろん彼は監督ではない。

が、都内で彼がGMを務めるチームが試合をするなら、いそいそと馳せ参じたいと思った。

試合当日はフットボール日和のいい天気だった。

ピエール瀧逮捕以降、石野卓球氏のツイッターが本格的に再始動した日であり、スマホばかり見ながら三鷹を目指した。

中央線なんて乗るのは、みうらじゅん的中央線カルチャーに憧れ、高円寺あたりのライブハウスに通っていたころ以来だ(もっぱらバイナリキッドのライブを見に行っていた)。

36年生きてきて、三鷹駅なんて一度も下車したことない気がする。

神奈川方面に稜線が見えて、「あー西東京だなー。郊外だなー。小旅行だなー。アキバでエロゲー買う以外は全部旅行だなー」なんて思った。

三鷹駅に到着し、駅蕎麦を食べる。

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店員のおっさんおばさんまで東京武蔵野シティのT-シャツを着ていた。

駅から徒歩で武蔵野陸上競技場(通称ムサリク)を目指す。

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桜は三部咲きといったところか。歩いていて見かけた公園では親子がボールを蹴っていて、妻子も彼女も近親相姦オッケーなダダ甘姉も射精管理をしてくるサディスティックな妹ももたない、非モテ濃度300%くらいの僕にも等しく(季節としての)春は訪れいていた。

ムサリクでは小学生時代の国立以来2度目の陸上用トラックのあるスタジアムでの観戦となった。

牧歌的なスタジアムだな、という印象だった。春の青空の下、ゴール裏の芝生席を子供たちが駆け回っている。レジャーシートを敷いている親子もいて、まるで遠足のようだった。

僕の腰掛けるスタンドにも親子連れがとても多かった。近所の人たちの、それもファミリーの休みの日の娯楽となっていることが察せられた。

……家族が欲しい、と思った。大宮での思索を経たせいか、そのへんは非常に敏感になっていた。

さて、この日は奈良クラブの林舞輝GMデザインのT-シャツが販売されているというので、東京武蔵野シティ側に座りながらも、奈良クラブの物販へ。目当ては着るだけでビトール・フラデになれる戦術的ピリオダイゼーションT-シャツだ。

若くて可愛い女性店員にキモオタオッサンの僕が、

「せ、せせせせ、戦術的ピリオダイゼーションT-シャツください、フヒッ、フヒヒヒッ」

と最高に気持ち悪い感じで話しかけると笑顔で対応してくれた。

秋葉原のエロゲー売り場かエロ同人誌売り場にしか持ち込んじゃいけないような小汚い財布から、手汗と手油まみれの前足で紙幣を手渡すと、平然とそれを受け取り、しかもお釣りを手のひらに向かって空中から落下させるのではなく、ちゃんと肌と肌をわずかに触れ合わせながら渡してくれた。

きっとあの子の正体は天使、もしくは女神だと思われる。なんらかの事情で人間界の奈良クラブで働いているのだろう。

奈良クラブのおしゃれな商品袋をバッグに隠すようにしまった(なんせ東京武蔵野シティ側だったので)。とはいえ、そもそも「MANCHESTER UNITED」とおもいっきり書かれた上着を着ていたけど。

JFLはアマチュアリーグであり、その最高峰であるとはいえ、J1~3と比べれば下位リーグである。そして周囲の話声を聞く限り、アマチュアリーグ観戦オタク的な人たちもそこそこ訪れており、今日開催の試合のハシゴ予定なんかを相談する声が聞こえてきた。
東京武蔵野シティ側は特定の数人だけが声を出していた。選手以上に大声かつだみ声でコーチングをしていた。コーチングの内容が的確かはあやしいが……。

奈良クラブのほうは、いわゆるJリーグっぽい応援だった。

試合中、芝生席では子供たちが試合そっちのけで遊びまわっていた。

丘サーフィンをしまくっていて、入場料の大半は丘サーフ料といってもいいくらいだった。まだ3月なのでハーフタイムあたりから気温が下がり始めたものの、丘に遊泳禁止はない。

スペリオ城北対FC INAHO(2019年3月24日 赤羽スポーツの森公園競技場)
三鷹からいったん帰宅。しかる後、スペリオ城北の試合を見に行った。

このスペリオ城北。いちおうクラブ名称が変更になる前の城北ランシールズのころから、存在は知っていた。

しかし観戦は初めてだ。本当はもっとはやく来ていても良かったはずなのに。存在を認識してから見に来るまで10年かかった。

徒歩5分の距離だが、死を覚悟するレベルで寒かったのでまずはホッカイロを購入。道すがらフリフリしつつ、赤スポへ。

赤スポは元々陸上自衛隊の駐屯地のあった場所だ。私立順天高校前のバス停に向かうバスが停車するので、雨の日なんかはよく陸自前を通った。

着いたもののどこから入るか分からないなーとおもっていたら、小学生の群れが自転車でやってきた。

「はやく、はやく!」

なんて急かしあっている。たぶん試合を観戦するんだろうと察し、精通前夜っぽい小僧どもの後を着いていく。

建物の内部に入ったはいいがガキ小隊の姿を見失う。どこからスタンドに上がればいいのかわからなかったものの、選手らしき人が教えてくれた。

スタンドには予想以上に人が集まっていた。

ここでもやはり親子連れの姿が多く見られた。

昼間に行ったムサリクでもそうだったが、やはり「サッカーと親子」というのは重要なテーマだと確信した。

この試合の印象は、ともかく「寒い」の一言に尽きた。

ホッカイロはまるで効果を発揮せず、死を覚悟するレベルの寒さというより、すでに肉体は死亡していて、魂が凍り付いて肉体から離脱できないから意識が機能してしまっている、と錯覚するレベルだった。

スタジアムDJは小太りのサポの人がメガホンでつとめていたことも印象的だったが、よく凍えずにいられるものだと思った。サポーターは肉体の発熱量が違うのだろうか。

試合終了後、即刻赤スポを後にしたことは言うまでもない。

東京ヴェルディ対水戸ホーリーホック(2019年4月3日 味の素フィールド西が丘)

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平日夜のJ2である。徒歩1分の西が丘である。

東京ヴェルディが長くJ2にいることはむろん知っていた。昨年はJ1参入プレーオフでジュビロ磐田に負けて、また1シーズンJ2での時間が続くことになったことも。

ヴェルディは昔から嫌いである。そして今も緑のものを身につけるなんて(『踊る大捜査線』の青島のM-51パーカーをのぞけば)ありえないと思っている。

しかし、彼らの歴史に敬意を抱き始めているのも確かであった。

ヴェルディゴール裏寄りのバックスタンドに座ったのだが、目に飛び込んできたのは「東京」と染め抜かれた(のか?)横断幕。

『サポーターをめぐる冒険』を読んでいたせいか、一瞬「東京」なる言葉にクラっとくる。ヴェルディサポなってしまう可能性がこの瞬間、数秒だけだがあったと思う。

俺のヴェルディ オーオー
俺のヴェルディ オーオー
俺のヴェルディ オーオー
オーヴェルディ 愛してる

俺ら東京 誇り持ち唄い
熱く燃やせ 緑のハート

歌われているチャントがいつごろからあるのはわからない。1993年の開幕からあるのだろうか。少なくとも「東京」が含まれてるチャントは当時ないか。

ブームの頃のチケット即完売のスター軍団とは違って、フットボールクラブらしいチームと応援になっている、と思った。

川崎時代の何分の一になったのかは知らないがサポーターたちも減り研ぎ澄まされている。

どちらも応援しないまま進行していく試合の感想は「寒い!」の一言に尽きた。

先日のスペリオ城北の試合の前に購入したホッカイロはまたも効果が弱く、吹き付ける寒風で脳みそまで凍ってしまっているかのようだった。

浦和レッズ対横浜F・マリノス(2019年4月5日 埼玉スタジアム2002)

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埼玉スタジアムに来るのは久々だ。

まだクリスティアーノ・ロナウドが所属していた時代のマンチェスター・ユナイテッドの来日試合が行われた日以来である。とうぜん当時はユナイテッド側で座った。

浦和レッズは周囲にサポーターが多かった。順天高校時代のクラスメイトはもちろん、大学卒業後に一瞬だけ埼玉のフットサルチームに参加したときも浦和サポーターがいた。ツイッターで相互フォローになりオフ会もしたことあるやる夫スレ作者にも浦和サポーターはいた。

なんなら、鹿島アントラーズを応援していたはずの父も、2000年代後半頃に埼玉スタジアムに浦和の試合を見に行っていた気配がある。それっぽいグッズを家の中でみかけたのだ。

なのでさいスタを歩いていると色んな顔が浮かんできた。

いわゆるスタグルを初めて買う。

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……期待に反してたこ焼きはおもいっきり冷めていた。

2階の指定席に座った。

そして真隣にやってくる、浦和オタクっぽい風情のニイチャン。

こっちは超疎い上に浦和サポーターでもなんでもないので、じゃっかん気まずい。周囲にはそこそこ空席もあったが、それでも指定席券なので移動するわけにもいかず、まるでニイチャンの友人のような感じだった。

この日最大の発見は、狭い席でスタグルを食べることがけっこう難しいことである。

たこ焼きといっしょに氷結も買っていたのだが、ドリンクのカップをこぼさないように把持しつつスタグルを開封して口に運ぶのは難しく、カップコントロールを誤ると隣のニイチャンの股間あたりを濡らしてしまいかねない。

ファミレスの女性店員が客(主人公)の股間の辺りにドリンクをこぼしてしまい、フキフキするところからいやらしいシーンに雪崩れ込む系のエロ漫画やエロゲーと同様の展開が起こりかねないので、ツェペリさんにワインを渡されたジョナサン・ジョースターのごとく気をつけた。

東京武蔵野シティFC対MIOびわこ滋賀(2019年4月27日 武蔵野陸上競技場)

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再度ムサリク。そして再度三鷹駅の冷やしたぬき蕎麦。

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対戦相手はMIOびわこ滋賀。『聖戦士ダンバイン』や『重戦機エルガイム』、あるいは『星銃士ビスマルク』のOPを歌っていそうなクラブ名称だ。

天気が悪く、いつ降り出してもおかしくない天気。

スタンドは中央部にしか屋根がないので、そこに人が密集していた。

密集していたが、単独で観戦にきた僕はなんとか1人分のスペースを見つけて腰を下ろした。

なので、東京武蔵野シティのユニフォームを着ているような人たちが多く近くにいる条件で見ることになった。

スタグルであるたこ焼きを買ってみた。

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埼スタと同じく冷めていた。そしてカロリーの摂取しすぎである。サッカー観戦は太る、と思った。

声を出すのは前回の人々。響き渡るだみ声のコーチング。あいかわらず妥当性はあやしい。

この試合、東京武蔵野シティが得点した瞬間、おもいっきり手を振り上げて喜んでいる自分がいた。考えて行ったのではなく、自然な反応だった。マンチェスター・ユナイテッドが得点したときのように。

FC東京対松本山雅(2019年4月28日 味の素スタジアム)

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高校生の頃、京王線で『耳をすませば』の聖地である聖蹟桜ヶ丘に友達と出かけた。ひとりでも何度も訪れ、サントラを聴きながら街を歩き、今では侵入不可能な「耳丘」なる場所で、耳すまファンの交流ノートに書き込み等をした。

そんな僕も、飛田給なる駅とは無縁だった。新宿から西側に京王線でむかうときは、どうしても特急に乗りがちである。通過は何度もしていたはずだが、存在そのものを認識していなかった。

初飛田給は2月2日。「犬フェス」というアニソンイベントに、もっぱらワルキューレ目当てで参加した日である。

味スタに繋がっている歩道橋を左斜め方向に進んだところの武蔵野の森総合スポーツプラザで開催され、そのときに「あ、味スタだ……」と、行き方を認識した。

ちなみにこの犬フェス参加時には調布駅で乗換えを失敗し、橋本方面へと一度むかってしまった。飛田給に行く際の典型的な失敗をこの段階でしていた。

犬フェスの帰り道、真っ暗な味の素スタジアム外観を眺めながら、

「たぶん、今年1度はこのスタジアムに来るんだろうな……」

と思った。

そしてようやく、この日がやってきた。

FC東京の試合日程はチェックしていた。

3月17日の名古屋グランパス戦が初味スタになる可能性もあった。

しかし理由があって避けた。

この当時、マンチェスター・ユナイテッドの勝ち点の枚数500円玉を貯金箱に入れていた僕は、ヨーロッパのシーズンオフ中にJリーグで同じことをやろうと思った。

そのことをツイートしたところ、やる夫スレ作者時代から相互フォローの名古屋グランパスサポに「名古屋でおなじことをやってはどうか」と提案してもらい、それを採用していた。

なので、自分の本当の気持ちの確認するのにジャミングノイズが入ると思ったのだ。

4月14日の鹿島アントラーズ戦も可能性が濃厚だった。

いうまでもなく、子供のころに応援していた鹿島が相手だからだ。

前年のJ3最終節に、母の出身地である長野のクラブ(AC長野パルセイロ)とFC東京U-23の試合を見に行ったときと同様に、自分の現在の素直な心境を知りたかったのだ。

けっきょく鹿島戦はDAZNに。

そんなこんなで先送りしていたが、

「久保建英の活躍を多く見ないと! だから早く行かないと! 18になったらバルサ戻るぞ!」

との危機感から、次のホームゲームである松本山雅戦となった。

素直な心境を確認したいし、まだFC東京をほんとうに応援するかわからないという可能性を理性的なレベルでは残していたが、行く前の時点ですでに、FC東京の応援をしてしまうまで後一歩のところまで来ていたと思う。

FC東京サポーターのコールリーダーである植田朝日氏は前身の東京ガスを応援することを決めた時点で、まだ東京ガスの試合を一度も見たことなかったそうである。

僕ももしかしたら、『サポーターをめぐる冒険』を読み終えたとき、あるいは読んでいる最中に応援を決めつつあったのかもしれない。

少なくともずっと予感だけは抱え続け、この日を迎えたのだった。

飛田給へは無問題で行くことができた。犬フェスの失敗のおかげだ。

駅からゆっくり歩いていき、味の素スタジアム直通の歩道橋を上がると、備え付けのスピーカーからブラスサウンドの「You'll never walk alone」が聞こえてきた。晴れたゴールデンウィークに相応しい穏やかな聴き心地だった。

「You'll never walk alone」が来場者を迎える。FC東京の本拠地に足を踏み入れたことを実感した。

埼玉スタジアム以来の大きなスタジアム。

コンコースをゆっくりと左手に進みながら、美味いものを探したり、グッズを物色する。

ビールとなんか食い物をゲットし、席に着いた。

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人の多さに驚いた。自分が知らないだけで、FC東京は人気クラブなのか……けっして成績の良いイメージはなかったが……。

周囲にはレプリカユニフォームを着た老若男女。カップルから親子、友達連れ、熟年夫婦などなど、初めてFC東京U-23を観戦したときとまったく同じ年齢層が集っていた。

この日の僕の服装はというと……困ったことに「MANCHSTER UNITED」と書かれた服を着ていた。

春夏秋冬、なにかしらこの名称とエンブレムの入った服に袖を通しているので、そこそこの確率でそうなってしまうのだ。

さて、味スタの印象だが……

ビール売りのお姉さんが可愛い! しかもたくさんいる!

というのがもっとも強かった。

ツイッターを「味スタ ビール 可愛い」で検索すると、同様の証言が多数。

すでに購入済みなことを後悔したが、まぁ、しかたない。

選手紹介の映像が始まり、よく知らない選手たちの名がアナウンスでコールされ、周囲の人々がみな拍手と「オーイ!」だか「エーイ!」だかよくわからない謎の音声を発し始めた。

そして背番号15、久保建英の名が呼ばれた。

久保建英の存在を知ったのはいつのことだろうか。バルセロナのカンテラに所属していた頃だから、6~7年前だろうか。

どうやって知ったのかもよく覚えていないが、おそらくQolyなどのWeb上のサッカーメディアだと思われる。

バルセロナのカンテラでプレーする日本人で、しかもチームの中心的選手……注目せざるをえなかった。

幸いにも動画サイト全盛の時代だったので、わずかずつでも彼のプレーをYoutubeで楽しむことができた。順調に評価を高め、日本人でありながら日本人とは違った生き方で成長していく様子はおおいに期待がもてた。

クラブ側の問題で彼が帰国せざるをえなかったときはショックも大きかった。日本の育成で彼を育てることができるのか。いや、日本で育ててはいけないのではないか、と。

彼の空港の様子を報じるニュースの映像の中で、日本の空港で荷物を押している姿を見ながら頭をよぎるのは、ボージャン・クルキッチやジオバニ・ドス・サントスといった、リオネル・メッシに続いてバルサのトップでスターになることが期待された選手達の姿だった。

FC東京U-15むさしへの入団の報を聞いたときも、彼の成長に相応しい指導を与えられるのか不安を感じたし、若い世代の日本代表でも周囲との考えのズレがあるかのように報道されたこときも彼が適応しようとして日本化するのが正しいことなのか、よくわからなかった。

今にして思えば、久保建英を育てられるか否かに不安を感じていた頃の僕はJリーグを不当に舐めていたんだと思う。

その彼が、一度はマリノスへのレンタルを経験したものの、FC東京に舞い戻って活躍をしている。

たとえばアウェイの浦和レッズ戦での決定機を作り出すプレーなんか見事だった。

だから、なんとしても見ておかなければならない。

そして、今まさに彼の躍動を目にする時がきたのだ。YoutubeでカンテラとFC東京U-18、フジテレビONE TWO NEXTで見たU-17ワールドカップ。ずっとモニターの向こうにいた久保君を、生で見ることができる時がきたのだ。

選手紹介に続いて、「You'll never walk alone」の合唱。U-23と違ってモニターに歌詞が表示されている。

歌詞を表示されること。すなわり歌いやすい状態におかれたことで、この歌に対する心理的な抵抗が働いた。

ほとんどFC東京の応援をすることを確定させる気で来た僕だったが、「You'll never walk alone」はまずいのだ。

この曲はサッカーファンなら知っているように、世界のいくつかのクラブで歌われている。おそらく歌っていることが知られていない無名なリーグの無名なクラブもあるのだろうと思う。

それはわかっているが、やはりリバプールFCがこの歌を歌う代表的クラブだと、やはり思う。

「You'll never walk alone」をマン・ユナイテッドのファンである自分が歌う。それはありえない。

自分の周りの人々がマフラーを掲げて合唱している間、観光客のようにスマホで動画を撮り続けてやり過ごした。

おもえば、チームカラーにもじゃっかん問題がある。

FC東京のチームカラーは「青赤」。

赤は良い。個人的にもっとも好きな色だ。

問題は青。これはうるさい隣人、マンチェスター・シティの色である。

『アイドルマスターシンデレラガールズ』の楽曲「Nation Blue」に「あの日見た景色が 光るBlue Topazのように今も輝いて 僕ら照らしてる」という歌詞があり、大変気に入ったので青いトパーズを買って身につけようと考えググり購入サイトを閲覧しているうちに、「これ、シティの色じゃん……」と気がつき、購入を断念したこともある。

まぁ、マン・シティとFC東京の青では濃度がだいぶ違うが。

そんな引っ掛かりがあったものの、試合そのものは最高だった。

久保建英はPKを奪取し、永井のゴールをアシストし、メッシのような動きでシュートを狙い、それがポストを叩いた。

大満足の出来だった。

意外にも久保建英のディフェンス面も印象に残った。ピッチを横切るようにして、ボール保持者に向かっていき、スタジアムを沸かせていた。

勝利の後に歌われる定番チャント「眠らない街」。

『サポーターをめぐる冒険』でも第2節でさっそく登場する。われわれの街東京(というより、東京に生きる人がある時期以降に出会う一部の街の姿)を端的に歌った歌だ。

 何度も何度も繰り返される「眠らない街」というフレーズを聞いて、自分が生まれた街のことが頭を巡った。ぼくが住んでいるあたりの街はさっさと寝てしまうのだが、大学の時過ごすことが多かった渋谷は本当に眠らない街だ。1次会から2次会へ、3次会は公園で缶ビールを飲む。そして、空が白んできた頃に始発に乗るために駅まで歩き始める。横を見ると馬鹿みたいに大きいハシブトガラスがゴミを漁っている。あのあたりは深夜だろうが早朝だろうが必ず誰かしらが歩いている。
 そういった情景を今まで特別なものとは思ったことはなかったが、確かに東京という街の特徴の1つなのだろう。そういえば新宿で飲んだ時に終電を逃し、コマ劇場前で呆然としたこともある。でも、そんな時はタクシーに乗る金もないので適当に歩き始めた。行き先なんかどうでもいい、東京では歩いていれば必ずどこかに着くのだ。

今まで字面でその存在を知っていたが、初めて聞いた。

僕の住んでいるあたり(三田線本蓮沼駅近辺)もさっさと寝てしまう街である。といっても、中仙道と首都高速5号池袋線がすぐ近くを通っており、夜中でも車の行き来は絶えなかった。今では間におおきなマンションが建ってしまい眺望は遮られているが、かつては家の窓から高速を走る車の光が一定の間隔で通過する様が見えた。

そして、東京の街を夜歩いた日々も思い出す。

高校生時代にTMネットワークのコピーを始め、大学生時代にはクラブミュージックとしてのテクノを作り始めた僕は、大学卒業後に同じ学部だった友人といっしょに音楽活動を始めた。

初めてのライブである渋谷ハチ公前では終電を逃し、ふたりでファミレスで朝まで過ごした。初めて屋内でライブをした六本木でも終電を逃し、一晩中歩いて秋葉原まで移動した。そのことに意味なんてなかった。ただ、大通りを歩いている限りは街灯も車のヘッドライトも、コンビニの明かりも途切れることはなかった。だから歩き続け、意味もない話に興じることができた。

選手達は挨拶の途中だったが、そのまま帰宅した。

この日以降、僕はFC東京のチャント動画をYoutubeで検索し、聞きまくるようになった。

基本的に在宅時はパソコンを点けっぱなしなのだが、ほとんどずっとFC東京のチャント動画三昧。

起床→チャント動画→出勤→チャントをぶつぶつ呟きながら行動→帰宅→チャント動画→手淫(行きもしない風俗体験動画を閲覧しての)→チャント動画→シャワー→チャント動画→睡眠

といった生活に。

野球界のジャーゴンを使うなら、チャント動画、チャント動画、雨、権藤といった頻度である。一瞬でここまで深みにハマるからオタク気質の人間はおそろしい。

FC東京U-23対セレッソ大阪U-23(2019年5月5日 味の素フィールド西が丘)

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すっかり行き慣れた西が丘。この日もメイン中央自由席に座った。

このゾーンはアウェイサポーターも座ることができる中立地帯。なので、周囲に桜色のレプリカユニフォームを着た大阪人が多数いた。

「You'll never walk alone」が穏やかに流れ始めるも、やはり歌うことはなかった。

この日真後ろに座っていた女子二人組み。

この二人、関西人らしくやたらとよく喋るのだが、22番の右サイドバック中村拓海の話をやたらしていた。

彼女たちが中村拓海つけたあだ名は「シティボーイ」。暑くなりはじめた5月だというのに涼しげで、汗ひとつかいてないように見えるとのこと。

たしかに、彼はひとりだけ半袖ユニフォームの下に長袖をきていて、肉体的にも細身でしなやか。FC東京U-23の選手の中では髪型的にもオシャレ風で、都会的センスが光ってる感があるようなないような……。

強度のある対人プレーをするというよりは、ピッチ上を泳ぐように優雅にポジショニングを変えつつ、精度の高いクロスを送り込むタイプの選手で、その姿を見ているうちにだんだんと僕も彼が好きになってきた。

中村拓海が片手で汗をぬぐう仕草をする。

その瞬間、真後ろから聞こえる笑い声。汗をかかないシティボーイかとおもいきや、やっぱり暑いは暑いのか。

この日特に目立っていると感じたのは、矢島輝一と原大智の2枚の前線だ。

というのも二人とも長身でツインタワーといった趣。風のマントを装備すれば川の向こうに飛び移ることができそうだ(もょもと達が)。

この日は勝利もさることながら、芳賀日陽君以来の「推し」が生まれたという収穫があった日になった。

FC東京対北海道コンサドーレ札幌(2019年5月18日 味の素スタジアム)

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どんよりと曇った空の下。ふたたび味スタへ。

あいかわらず狂ったようにチャント動画を再生し、不審者のごとく「バモ東京……バモ東京……東京こそすべて……」とか呟いている僕。

この日、物販でとあるものを購入する予感がしていた。

応援初心者の定番アイテム、タオルマフラーである。

高田桂によるサポーターを主役にしたサッカー漫画『サポルト! 木更津女子サポ応援記』でも、主人公の女子高生は最初にこれをゲットしていたと思う。

チャント動画を再生しまくっていたとはいえ、直前まではまだ迷いがあった。

「ユナイテッドこそがすべて」であると、ついこの間まで思っていた。

そこにFC東京を加えてもいいかもしれない。そう考えるようになれたのも、フットボールの母国イングランドからもたらされた考え方によるものだった。

2019年の3月。つまり2ヶ月前に『ようこそ!プレミアパブ』という本が発売になった。プレミアリーグファンの集うサイト「プレミアパブ」の主催者である内藤秀明氏による、ほぼ対談集みたいな本だ(ちなみに僕が運営しているブログでこの本の感想も書いた)。

この中にイングランドに26年間住んだマンチェスター・ユナイテッドファンが登場する。彼はオックスフォードやブライトンに住んでいた経験から、ユナイテッドの他にオックスフォード・ユナイテッドやブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンをゆるく応援してもいた。そこから話はイングランドにおける「soft spot」なる概念へと及ぶ。

要するに本命のクラブの他にも「ここには弱い(愛着を持っちゃう)」というゆるい応援の対象を持っていること。

長くイングリッシュ・フットボールを見てきたが「soft spot」なる言い方は初めて知った。

さっそくツイッターで適当に検索してみると、

I have a soft spot for~

といったツイートが大量に出てきた。

そこで思い出したのがプレミアリーグの日本語解説で知られるベン・メイブリー氏だ。

彼は英国のサマセット州出身。地元にあるトートン・タウン(7部リーグ)のファンでありながら、ガンバ大阪のゴール裏住人だ。そして、クラブワールドカップでマンチェスター・ユナイテッドとガンバ大阪の対戦が実現した際に綴られたブログ記事によれば、幼い頃からユナイテッドを愛してきたそうである。

他にも、思えばいくつも思い当たるものはある。そもそもクラブを渡り歩いた選手たちなんか複数クラブへの愛情があるはずなんだから、複数のクラブを応援してしまうのが自然な心のあり方なんだろう、とようやく思い至った。

子供のころに鹿島アントラーズと出会ったことによりサッカーへの情熱へと目覚め、それゆえに海外サッカーを観るようになりユナイテッドに惹かれるようになった。ユナイテッドへの想いがあるがゆえに英国的なものへの関心と多少の知識欲を抱いており、その結果として英国関連の知識がFC東京の応援へと突入する後押しをした。

コンコースにあるグッズ売り場に陳列された商品の前に立ったこの瞬間までの自分史をサッカーに限って要約すれば上記のようになるだろう。

いくつかある中から、色合い的に青赤の分離がわかりやすく、エンブレムもくっきり見えるものを選んだ。

ついでに部屋用の小さい旗も買った。インテリア用の旗を手にとりながら連想するのはウェイン・ルーニーのことだった。彼はリバプールにある生家の自室に「EVERTON」と書かれたシンプルなプレートを飾っていた。

家の中の目に付くところにFC東京のエンブレムがある生活に突入していく……。

サポーターになんかならない方が楽なのは間違いないだろう。金も出ていくし人生はキックオフの時刻に左右される。ユナイテッドが心からいなくなったわけじゃないから、昼も夜も夜中もサッカーに時間を捧げる生活。

なんて、僕に名古屋グランパス貯金を提案してきたサポからのリプにこたえつつ、「あくまでゆるく、だ」と自分自身に言い聞かせつつ、辛めのケバブなんかも買い、自由席へと向かった。

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例によって「You'll never walk alone」の時間がやってきて、この日もまた歌うことができなかった。

このまま、「You'll never walk alone」を歌えない東京サポともいえないような中途半端な何かになっていくのか、という不安とも後ろめたさともつかないもやもやした気持ちが、心の片隅に生じた。

試合そのものは大満足の内容だった。

試合終了のホイッスルが鳴る前に始まる「眠らない街」。

スタジアムは多幸感に満ちている、と感じた。

ここに集い続けた人たちにとって、最良の日々が今なのだ、と。

まだ2度目の味の素スタジアムで、しかも首位なのだから、辛い時期をまったく知らない。

だからかもしれないけれど、「この先何十年もこの中にいたい」という想いが膨らんでいくのを感じた。

さて、そのころ。応援しているということになっている、マンチェスター・ユナイテッドの様子はどうだったかというと……。

モウリーニョ解任後の暫定監督として呼ばれたスールシャールが正式監督へと立場をかえるなり、チームはまるで魔法が解けたかのように急速に失速。

他方ではチャンピオンズリーグの決勝をリバプールとスパーズが、ヨーロッパリーグの決勝をチェルシーとアーセナルが争い、プレミアリーグはマンチェスター・シティが連覇。

イングランドのビッグ6と呼ばれるクラブの中では唯一蚊帳の外感ある存在となり、6位でシーズンを終えた。

FC東京対大分トリニータ(2019年6月1日 味の素スタジアム)

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ふたたび味スタである。

もうこの辺になるとほとんどFC東京と久保建英のことしか考えていない日々を送っていた。他に考えていることといえばせいぜい『魔導物語』や『ぷよぷよ』のヒロインであるアルル・ナジャに対する性的な妄想くらいだった。

この試合の少し前、久保建英のA代表招集が発表されていた。キリンチャレンジカップとコパ・アメリカのメンバーとして。

そして彼の18歳とヨーロッパのプレシーズンが近づいている。

次のステージに進むのか、それとも今シーズン終りまで彼の活躍を楽しむことができるのか。

席に着き試合開始を待つ。

選手紹介が終わり、「You'll never walk alone」の時がやってきた。

結果として、この日が初めて「ユルネバ」を歌った日になった。違和感や躊躇いをどうやって自分の中で処理したのかは自分でもよくわからない。「今日が最後になるかもしれない……」という予感でもしていたのか。

ただ、じゃっかん小声で歌ったと思う。

この日の久保建英の出来は最高だった。

2得点はもちろんのこと、後ろ足を使ったターンひとつで大分のサイドバックを翻弄し転倒させたシーンの歓声はすさまじかった。僕も無意識に歓びの声をあげた。

試合後、活躍した建英(バルサのカンテラ時代からつい先月までずっと「久保君」と呼んでいたが、この頃には「建英」呼びに移行していた僕)がヒーローインタビュー。

第一声が質問への直接的な答えではなく「サポーターっていいですね。力になります」。

インタビュー後、選手とサポーターが歌う「ユルネバ」が響き渡るなか、FC東京の旗をもったドロンパとゆっくりスタジアムをまわりサポーターに挨拶していく建英。

そのお辞儀が、深く長く感じた。

別れの予感がした。

同じ予感を感じ取った人の声が近くから聞こえた。

裏側で起きていることを何も知らない僕たちは、彼が18歳になって何かが発表されるのを、もしくはされないことを待つしかなかった。

FC東京U-23対AC長野パルセイロ(2019年6月8日 味の素フィールド西が丘)

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別れの予感に満ちた大分戦が終わり、翌日2日にはマクロスクロスオーバーライブをがっつり楽しみ、4日には建英が18歳のバースディを迎えるも5日のトリニダード・トバゴ戦はベンチ外。7日にはコミケに当選した神絵師たちの可愛い絵やえっちな絵がツイッターのTLを占拠し。初夏らしく『智代アフター』の麻枝准作曲BGMなんかを聞きながらそんな日々を送り迎えた長野パルセイロ戦。


前年は長野パルセイロを応援する可能性もあったが、今回は明確にFC東京U-23側。今後どこと対戦ようともずっと東京側だ。

本蓮沼駅前にある「まいばすけっと」というイオングループのスーパーに「お邪魔しマート」なんて言いながら入店し、飲み物やパンなんかを購入して西が丘へ。

味スタと違ってU-23の試合ではユルネバの歌詞が表示されない。かなりウロ覚えの状態で歌った。

東京武蔵野シティFC対松江シティFC(2019年6月9日 武蔵野陸上競技場)

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再び東京武蔵野シティ。会場はロリとショタでいっぱいである。

試合直前、スーツを着た東京武蔵野シティ側のスタッフがスタンドにあらわれ、

「誰かー! エスコートキッズやりたい人いるー?」

なんて、その場で2名ほど募集を始めた。予定していた子が風邪でもひいたのだろうか。

3名くらいの子が手をあげた。で、3名でオッケーらしい。どうするんだ、余った子は。審判が手を繋いで入っていくのか?

しかも3名の子のなかには東京武蔵野シティではなく、ヨーロッパのビッグクラブのユニフォームを着ている子もいるんだが大丈夫か? スタッフのおっさんが無理やりその子のユニフォームを剥ぎ取る犯罪的な様が脳裏に浮かんだ。

あいかわらず、いつものダミ声のおっさんの妥当か否か不明なコーチングがムサリクに響き渡る。

自分のなかでのこのクラブの位置づけはよくわからなくなってきていた。当初は奈良クラブ戦だけ見に来ればよかったのだが、なぜかまた足を運んでしまっている。

マンチェスターの衛星都市にソルフォードという街があるが、ここの街クラブであるソルフォード・シティのオーナー陣はマンチェスター・ユナイテッドの92年組み(ギグス、ネヴィル兄弟、スコールズ、ベッカム、バット)である。なのでユナイテッドのファンの一部はソルフォード・シティの動向を気にかけていると思うのだが、そんな感じか? FC東京を応援しながら、そこそこ調布と近い三鷹の下部リーグのクラブを応援するっていうのは。

FC東京対ヴィッセル神戸(2019年6月15日 味の素スタジアム)

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深夜に久保建英のレアル・マドリード移籍が報道されたこの日、東京は雨模様だった。

初の雨中でのサッカー観戦。傘をさして良いものか事前に確認。観戦中はダメとのことなので、透明のレインコート持参。味スタにつくとFC東京オフィシャルのレインコートが売っていたので、今後も使うことがたびたびあるだろうと考え購入。

ホーム自由席に着いたころ、すでに屋根の下は空いていなかった。

なのでしかたなしに、かなり前のほうの席に座った。買ったばかりのレインコートと持参したレインコートの組み合わせで自分とカバンを完全防御して待機。人生初参加のコミケの待機列でもおなじような状態だったことを思い出す。

建英がクラブを去ることが確定したことで、少しだけ「もしかしたら、東京を応援するようになったのではなく、建英個人を応援していたのではないか……」という疑惑が芽生えていた。

試合までの間に雨はやんだ。

この日は選手紹介がともかくド派手だった。ラグビーワールドカップのためにパワーアップした味スタが、リボンビジョンという2階席前面に据え付けられた帯状のモニターが初お披露目されたのだ。

しかも、欠場がちだったイニエスタの名前がアナウンスされスタジアムがどよめく。

どよめきとともに周囲から大歓声。この日のホーム自由席は、超絶新参な僕よりもにわかというか、東京も神戸もどちらも興味のないイニエスタ(とビジャも?)目当ての人たちが多く紛れ込んでいた。

この日のユルネバは、周囲の人たちに聞かせるつもりで歌った。過去いちばん大きな声だった。

試合が始まるとすぐに、中盤にイニエスタ、前線にビジャが置かれていることのおそろしさが理解できた。バックスタンド側か見ていると、一瞬の隙にパス一本で試合を決定付けてしまえる恐怖の配置だということがよくわかる。

この日唯一の得点となったイニエスタの決勝点は、彼がフリーでボールを受けた瞬間に直感的に「やられる!」と感じた。

中学3年生のときに新宿の映画館で見た『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の劇中、エヴァ量産型たちを快調に屠っていたはずの弐号機のもとにどこからか量産型の武装が飛来。ATフィールドで受け止めるも、武装は褪色したロンギヌスの槍へと姿を変え弐号機を貫通。倒したはずの量産型たちが次々と起き上がり、いっきに弐号機がずたずたにされる、あのシーン。14歳だった僕は、武装がロンギヌスの槍へと変化した瞬間、「次の瞬間に最悪のことが起こる!」と直感したのだが、あれ以来の直感である。

イニエスタのシュートは見事だった。まるでスローモーションのように、ゴールネットを揺らすまでの完璧な軌道がくっきり見えた。
イニエスタ目当ての人たちは大喜び。

この日、FC東京側は矢島輝一が男になる絶好のチャンスでもあった。しかし、けっきょく後わずかのところで得点を奪えず。

点をとったイニエスタが退くと、まだ試合は終了していないものの周囲の人々は席を立ち始めた。

試合が終わり、スタジアムを出……ようとするものの、信じられないほどの混雑。味スタ前の歩道橋まで出るのに過去の3試合の倍以上の時間を要した。

その遅々とした帰り道。そして京王線のなか。ずっと僕は、

(このままでは終わらん。次こそは勝つ……)

と、次節以降の試合と、アウェイの神戸戦の勝利を誓っていた。

11歳で鹿島アントラーズの試合を見てサッカーを好きになって以来25年の時が経過したが、この夜ようやく分かった。

敗戦こそがクラブへの忠誠心を育てるのだ、と。

もはやユルネバへの躊躇は完全に失われ、青赤の青色も愛するようになっていた。

FC東京U-23対アスルクラロ沼津(2019年6月23日 味の素フィールド西が丘)

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朝から出かけていて、試合開始45分くらい前に本蓮沼駅まで戻ってきた。

この日の対戦は「ラブライブ!ダービー」と一部では称されているそうだが、『ラブライブ!』におそろしく疎いのであまりピンと来ていなかった。

しかし、駅でラブライブグッズを控えめに(いわゆるラブライバーの鎧のようなあれとは違ってバッグ程度とか)身につけてる人を複数人見かけて、「なるほど……たしかに」なんて納得したりもした。

帰宅して飯を食ったりトイレに行ったりしてからふたたび家の前に出ると、西が丘からのチャントが届いた。アスルクラロ沼津のサポーターたちの声だ。

この日は宮崎幾笑の躍動っぷりがハンパなく目立っていたと思う。彼の今後が楽しみになった。近くに座っていた東京サポの熟女二人組みも「幾笑くん」と連呼していた。

「眠らない街」を背に、試合終了即ダッシュで帰宅。所要時間30秒程度。即刻DAZN神にアクセスし、アウェーのベガルタ仙台戦を観戦。

FC東京対横浜F・マリノス(2019年6月29日 味の素スタジアム)

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金が無限に続くなら、もしくは国から「サッカー観戦費用」を500万ほど支給してもらえるなら、ホームもアウェーもリーグもカップ戦もユースもジュニアユースもすべての試合をスタジアムで見たいと思っている。

が、現実には金は有限である。

そして、FC東京の試合を見に行きながらも、他方ではオタク関係にもお金を遣っていた。遣い続けていた。

昨年の末にSFマガジン「百合特集」が発売されたことを契機として、ハヤカワ書房は百合SFのフェアを展開。とうぜん購入せねばならない。

本代はマジバカにならない。コミケだけでなく、たとえばアイドルマスターシンデレラーガールズのオンリーイベントなんかの後も同人誌ショップには行かなければならないし、たしょうはエロい漫画も買う。やる夫スレ作者時代から、もしくはその後の相互フォローの人のラノベや批評、担当編集の本を買うだけでもバンバンお金は出て行くし、それ以外にも気になったものはゲットしている。

おまけに90年代くらいにリリースされた『ファイブスター物語』の関連書籍なんかもネットで購入したり。

音楽代もかかる。ワルキューレ好きなのでメンバーのソロ音源やライブも要チェックだし、見てるアニメのアニソンも欲しくなるし、元々がテクノ好きなのでそれらも購入せねばならない。ちなみに今年買った曲のオススメのひとつはAlbert van Abbeの「Bloodhoney Triggerbee」。

ゲームはひさしく無課金だが、動画の課金だって、DAZNやdアニメストア等の毎月の支払いと、ゲンロンカフェへの課金で、なんだかんだで1万円くらいは簡単に消える……。

お金欲しい。マジで意味もなく毎月900万くらい入金して欲しい。それか売れっ子女性声優のヒモになって、働かずにお小遣いもらって、それで味スタや遠征に行きたい。

なんて夢想してしまう。

知らないおっさんにホテルで抱かれることで金を得るというテも考えたが、股間を見ると膣はなく陰茎がある。おっさん抱かれ業で稼ぐことは困難に思えた。

なので、23日のアウェーベガルタ仙台戦はもちろん、ブルーノ・メンデスチャントでおなじみのセレッソ大阪とのルヴァンカップも行かなかった。

マリノス戦も正直、

「うーーーん、どーしよっかな……」

なんて感じで直前まで迷っていた。(「風俗嬢 男性 なるには」でググりながら)

とか考えていたら、「久保建英選手の壮行セレモニー」なるものが実施されるというツイートを目にすることに。

「これ、絶対行くやつじゃん」と、推しのイベント情報を目にしたオタクの動きでチケットを購入。

それにしても。

2018年に久保建英は半年ほどマリノスにレンタルされていた。J1での初ゴールはマリノスの選手としてイニエスタ擁するヴィッセル神戸相手に決めている。

壮行セレモニーの日の対戦相手がそのマリノスなんて……。

Jリーグの日程を決めているおっさんたちがおっさん会議にて、

おっさんA「久保君ここで18歳になるでしょ……となるともしかしたらスペイン復帰するかもしれないし……コパ・アメリカに選ばれたらこの辺が壮行セレモニーの日になるから……レンタルしていたマリノスの試合をここにするの良くない?」

他のおっさんたち「超イイー!!」

なんて会話がなされた可能性がないとはいえないものの。

……この男、運命を味方にしているッ!!

しかも首位攻防戦というアツい展開!!

そもそもラグビーワールドカップに味スタを差し出さなければならないため、今年のFC東京は前半戦にホームゲームが多い変則的な日程だった。おかげで味スタでの久保建英出場試合が多くなった。これも何かの力を味方につけている気がしてならない。

直近2試合。点も奪えずに連敗していたFC東京に不安はあった。しかもマリノスは強い。春ごろに見に行った浦和レッズ戦では見事なまでにシティフットボールグループ(うるさい隣人ことマンチェスター・シティのお仲間たち)な戦いをしていたことを思い出す。

天気は雨。今回もレインコートを羽織ってカバンも完全防御。

ドラゴンボールパフォーマンスでおなじみのマルコス・ジュニオール(サッカー好きのベジータのお仲間?)が得点し、マリノス先制。

しかしすぐにナ・サンホが試合をイコライズした(同点にした、って意味です)。

続けて、日本代表選出と2ゴールで一段上の選手となった気がしないでもない永井がループシュートでゴール。

このふたつはまさか入るとは思わなかった。サンホのシュートは本来ならストップされてもおかしくないコースだったし、永井のループをマリノスのディフェンスはゴールラインを割る前にクリアしようとしたが一歩及ばす。しかし、僕のサッカー観戦の経験的にはクリアに成功しそうだと思ったのだが……。

3点目はディエゴ・オリヴェイラ。

僕がFC東京の試合を観戦するようになって以降、ディエゴが決めるのはこれが初めてだった。
4月19日のアウェーサンフレッチェ広島戦以来。

彼はずっと得点以外のすべてがすばらしかったが、ここに来てようやく本来の仕事ができた。

FWが無得点の不調感を払拭するには点を獲る以外にない。

雨がふりしきる味スタで、ブラジル人らしく両手で天を指差した。

さらには4点目もディエゴが追加した。

この日、勝利の後のユルネバは、独特の厳かな雰囲気があった。

試合終了後だから相手サポーターが静かだということもあるが、雨によって味スタのライトの光が空気中で猛烈に拡散され、神聖な聖堂かなんかで合唱をしているかのようだった。

とても大きなものに手を伸ばそうとしている、その道のりの中途にいる。

そんな特別で神秘的な色彩を帯びたユルネバだった。

久保建英の壮行会セレモニーでは、彼らしく、高校らしからぬ落ち着きと賢さにあふれたスピーチだった。

いったんマイクの向きを180度変更し、マリノスサポーターへの挨拶をし、あらためて東京へと向き直ってみせた。

そんな気遣い、定年間近になってもできないようなおっさんもいるというのに!

しかも意図しているのかどうか分からないが笑いとったりして和ませたりなんかしちゃって。

スピーチで印象的だったのは、「あんまり練習とか行きたくなくて、辛い時期もあった」という言葉だった。

当たり前のことなのかもしれないが、本人や身近な人間しかわからないような葛藤があったんだろうと思う。ますます応援したくなる言葉だった。

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中村慎太郎『サポーターをめぐる冒険』という大きなきっかけがあったものの、やはり久保建英がいたからFC東京の試合を見に来るようになった。

僕にとってはわずか3試合だった。けれど、人生にいくつかある転機のひとつとなった3試合だった。

ありがとう、建英。15年後くらいにまた、青赤のユニフォームを着てここで試合をしてくれ。

FC東京U-23対カターレ富山(2019年7月6日 味の素フィールド西が丘)

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いつもとは違うバック側での観戦。

カターレ富山に先制されるも、推しの中村拓海のクロスから原大智が同点弾を叩き込む。

アウェーロアッソ熊本戦で決勝点をあげた久保征一郎が投入されると、僕の座っていた周辺では彼に期待する声が死ぬほどあがった。
結果として征一郎は得点を奪うことができずに1-1で試合終了。

ピッチとスタンドが近い西が丘では選手と試合後に手をタッチし合うのだが、結果には納得いっていない顔つきの選手たちが多かった。

FC東京対川崎フロンターレ(2019年7月14日 味の素スタジアム)

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令和初の多摩川クラシコである。

そして同時に、人生初の多摩川クラシコである。

クラシコ。英語で言うとクラシック。古いという意味であり、高級とか上等とかという意味もある。

まだ海外厨一直線だった時代の僕は、実をいうと、この「多摩川クラシコ」なる言葉には違和感を持っていた。

ヨーロッパ各言語のザ・クラシックに相当する言葉で名指される試合は、たしかに特別な匂いが漂う組み合わせが多いと思う。

FCバルセロナとレアル・マドリーのエル・クラシコ

オリンピック・マルセイユとパリ・サンジェルマンのル・クラスィク

バイエルン・ミュンヘンとボルシア・ドルトムントのデア・クラシカー

アヤックスとフェイエノールトのデ・クラシケル

ベンフィカとポルトのオ・クラシコ

などなど。

多摩川クラシコという言葉をなんとなく聞き知っている程度の頃は、バカにはしないまでも、「多摩川ダービーとかでいいんじゃない?」と思っていた。

ネットでFC東京と川崎フロンターレのことを少し検索してみたら、「川むこう」なる言い方を見つけた。多摩川を挟んで向こう側ということなんだろう。

しかし、「川むこう」なる言葉を使うには、川崎と調布ではいささか距離が離れている気がしないでもない。足立区民が和光市民にライバル意識をもつくらい変な感じがする。品川区にあるキネカ大森と川崎フロンターレで戦うなら「川むこう」との対戦だという気もするが、残念ながら過去に一度も対戦はないらしい。キネカ大森が映画館だからだろうか。

なので、名称そのものにはいまひとつピンと来なかったが、J1リーグ2連覇中の王者川崎フロンターレと首位の座をあらそう状況であり、この条件自体には燃えるものがあった。

試合を見に行くと色んなものをくれるJリーグだが、AJINOMOTO Dayである本日は、味の素製品をいっぱいもらえた。調味料系はともかく、「まるごと野菜ベーカリー」は席で食べた。

試合前には味の素株式会社社長の西井孝明氏による挨拶。

川崎を立てながらも、「みなさんと一緒に「眠らない街」を歌いたい!」と熱い口調でFC東京のファン・サポーターを煽る社長。

いよいよ、重要な戦い感が増していく。

川崎が先制するも、マリノス戦の記憶もあり、まだ期待ができた。そのままハーフタイムへ行ったのもいい。

問題は2点目だ。これがズシリと重くのしかかった。

強いチームが2点を取ることの持つ圧力……。勝ち点1を分け合って試合そのものを無効化するにも、2点分は取りに行かなければならない。一瞬クラッとくるような困難だ。

それでも最後まで、バックスタンドのホーム自由席でチャントに合わせて手を叩き続けた。

結果は3失点の完敗。

これは忘れてしまったほうがいい試合だ。

むろん現場レベルで問題を修正する必要はあるが、どんな大敗でもリーグの中の一試合に過ぎないのだから、次以降に引きずるべきでない戦いだ。

と自分自身に言い聞かせながらも、

(先制していれば、点の取り合いになっても、常に追いかけさせる展開に持ち込めれば……勝てたのかもなぁ……)

などと、たらればが浮かんでは消え、振り払っては浮かんでくる帰り道だった。

FC東京U-23対カマタマーレ讃岐(2019年7月20日 味の素フィールド西が丘)

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この試合の2日前に京都アニメーションで凄惨な事件が起きた。

過去10年間でも最大規模の精神的なショックを受けたが、試合にはやってきた。

U-23の選手たちの年齢的には幼い頃に京アニ作品を見ていてもおかしくはない(といっても基本的には深夜アニメだけど)。登録選手たちのなかにはもしかしたらショックを受けたような子がいるかもしれない、とは思った。

平川怜が7月17日付けでJ2の鹿児島ユナイテッドへと育成型期限付き移籍をし、他方ではトップチームの試合に出ていた矢島輝一がJ3に戻ってきてしまった。

U23チームというのは難しいものだ、と思う。トップチームのJ1で試合に出られない選手の成長を促したり経験を積ませることはできても、J3慣れしてしまう恐れもあるだろう。けれど、クラブに留まればJ1J3どちらか二択しかないわけで。

FC東京U-23初観戦の2018シーズンザスパクサツ群馬戦でも矢島輝一選手は印象に残ったし、調布FMのTOKYO12RADIOなど、FC東京系ラジオ番組でのインタビューを聞いているうちに、FC東京に所属している限りはキイチのことをあきらめずに応援し続けたいとは思っていた。

だからがんばって這い上がって欲しい。

試合終了後は即帰宅し、アウェー清水エスパルス戦をDAZNで観戦。

FC東京U-23対ガイナーレ鳥取(2019年8月4日 味の素フィールド西が丘)

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前日のJ1もそうだったが、放送中のゲゲゲの鬼太郎とのコラボの日。

鬼太郎と、一部ではシコ娘とも評されるシリーズ随一の美少女な猫娘の音声がスタジアムに流された。

PKを含む原大智の2得点でリードをするものの追いつかれ同点で試合終了。

カターレ富山戦後の引き分けに満足していなかった表情が思い起こされる。

勝ちきる力強さを身につけてほしい。

FC東京対ベガルタ仙台(2019年8月10日 味の素スタジアム)

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XFLAG Dayということで、おなじくXFLAGがスポンサーの東京ヤクルトスワローズのマスコットの雌のほうが来ていた。

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僕は基本的に野球は超絶疎い。12球団をセ・リーグとパ・リーグにより分けられないってレベルである。大毎オリオンズはどっちだっけ、東映フライヤーズはどっちだっけ……悪役商会の八名信夫が東映フライヤーズの選手だったことは知ってるけどどっちたっけ……となるレベル。

しかし、東京ヤクルトスワローズに関してはアイドルマスターシンデレタガールズや声優アニ雑団で知られる声優の松嵜麗さんが大のガチファンということで、なんとなく畜ペンことつば九郎の存在とか知ってはいた。

雌型つば九郎が何ちゃんなのかは知らないものの、畜ペンが参上した場合はうちのドロンパ相手に畜生ぶりを遺憾なく発揮される可能性もあり、雌型でよかったなぁ、と思ったり。

この日の唯一の得点はPKによるディエゴ・オリヴェイラの一点のみ。

相手ゴールキーパーに一度はストップされるも、蹴りなおしとなり見事得点。

このPKをセットして決めるまでの間になされた「ディ・エゴ! ディ・エゴ!」というディエゴコールによるFC東京サポの一体感はすごかった。

FC東京対サンフレッチェ広島(2019年8月17日 味の素スタジアム)

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飛田給へと向かう前に、丸の内の丸善にて『SFの書き方 「ゲンロン大森望 SF創作講座」全記録』。「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」により大炎上を巻き起こした東浩紀氏のささやかな援護のため。その旨を本人にリプライで飛ばす。

同時に、前から気になっていて、「買おうかなーどうしようかなー。あっ、じゃあ、エッジワース・カイパーベルト内で8888年続いてる神々同士の戦いに決着がついたら買おう」と思っていた同SF創作講座出身の作家櫻木みわさんの『うつくしい繭』も、つい先日、決着がついたため購入。
神々同士の戦いは、4対4の同点で迎えた9回の裏、幕下三枚目兼宮大工兼神のトネリ=ン=ポワーズさん(56歳)のはんなりした張り手が相手宇宙艦隊の旗艦を直撃。小一時間にわたる罵り合いの末、最終的にはあっちむいてほいにより、8888年続いた戦いは「きのこでもたけのこでもどっちでもいいじゃねぇか派」陣営の勝利で幕を閉じた。

新宿駅でJRから京王線への乗り換え時には、いったん改札の外に出て、初めてのカレーハウス11イマサ。

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腹ごしらえをし、飛田給へ。手持ちのSONYのミュージックプレイヤーのFMラジオ機能を調布FMにあわせつつ。

この日はアウェー8連戦という前代未聞の領域に足を踏み入れる前のホーム最終戦。

なんとしても勝って弾みをつけたかったが、広島は強く、東京も攻めたが追いつくことすらかなわなかった。

とはいえ、選手達が必死に戦ったことは明らかだった。敗戦後の挨拶でも称える言葉が多く投げかけられた。

負けてもリーグ最終節まで下を向く必要はない。

東京こそすべて 俺らを熱くする
情熱をぶつけろ 優勝を掴みとれ
バモ東京 バモ東京 バモ東京 バモ東京
バモ東京 バモ東京 バモ東京 バモ東京

選手たちがトンネルの向こうに完全に消えるまで、チャントが鳴り止むことはなかった。

東京武蔵野シティFC対FCマルヤス岡崎(2019年9月1日 味の素フィールド西が丘)

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9月になった。小中高生は夏休みが終わったことを意味する。

小学生時代の夏休みには志村第三小学校で行われるラジオ体操に毎日参加してスタンプをコンプリートしていた。体操後は西が丘の周りを1週してからまた小学校校庭に戻り、しかる後のスタンプ押印だった記憶がある。

もう大人なのでラジオ体操に行ってスタンプを押してもらうことはないが、今はもっぱらセルフフェラチオ達成スタンブを押してもらっている。毎日セルフフェラチオ矯正ギプスのサポートを受けつつ怒張した己の性器を口淫。しかる後に西が丘の周りを1周走り、走破後に謎の老婆からスタンプ(ザ・ローリング・ストーンズのベロマークにおちんちんが接しているデザインのもの)を押してもらうのだ。

そんな9月の1日目。東京武蔵野シティのホームゲームが西が丘で開催されるので、徒歩30秒圏内の本蓮沼っ子の僕は数ヶ月ぶりに見に行ってみた。

この日の対戦相手のFCマルヤス岡崎には、元FC東京の茂庭照幸選手が所属している。なので、ふだんU-23の試合を見に西が丘に来るような近場の東京サポも訪れていたようであった。ちなみに、この日のベンチ入りメンバーではないが、おなじく元FC東京ゴールキーパーの常澤聡選手もコーチ兼任でマルヤス岡崎に所属している。

空を見上げると夏の終わりの気配が近づいていた。

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試合自体はアディショナルタイムの劇的ゴールで東京武蔵野シティが勝利したのだが、この日印象的だったのはマルヤス岡崎のゴール裏だった。

たぶん5人に満たない人数だったのだ。

それでいて太鼓の音がけっこう響く。東京武蔵野シティが普段ホームにしているムサリクが鳴り物禁止のため、太鼓を叩く人がいないことが理由だろう。

FC東京U-23対ギラヴァンツ北九州(2019年9月7日 味の素フィールド西が丘)

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ギラヴァンツ北九州戦は相手サポーターが多く西が丘の地に訪れてくれていた。

しかも声がでかい。人数と声量的に、この場所で初めてFC東京U-23の試合を見た2018年のザスパクサツ群馬戦を思い出す。ちょうど1年前である。

北九州は速くて強かった。さすが上位のクラブだった。サポーターが多くやってきたのも、もちろん熱心さもあるのだろうが、成績の良さもあるのだろう。

試合そのものは負け試合だったが、推し選手の中村拓海が目の前で給水し始めて萌えた。

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FC東京対ガンバ大阪(2019年9月8日 NACK5スタジアム大宮)

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台風が接近していた。開催の可否は当日の朝にアナウンスとのことだった。

けっきょく時間を前倒しにしての開催となり、出先だった東京駅から大宮へと向かった。

電車乗り換え、もしくは乗る路線選択が苦手なので、案の定間違った路線に乗り込んでしまい、いったん上野駅で下車。

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ホームで正しい電車を待ちながら見上げた空はとても台風が接近中とは思えなかった。

36年間東京で生きてきて、尾久(おく)や古河(こが)といった駅を初めて通過し、大宮駅へ。電車を降りると8月のように暑かった。

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やはりナクスタは良いスタジアムだ。近くて。ゴール裏の急な傾斜もアルゼンチン的で好みである。

雨は降ってきたりやんだりを繰り返した。FC東京のオフィシャルのレイコンートを取り出すも、カバン用のものを持ってくることを忘れ、しかたなしにカバンを抱きかかえつつ、その上からレインコートをはおった。なのに日が差して暑くなる、という。

この日、目を引いたのは左サイドバックのバングーナガンデ佳史扶だった。U23の試合で目にしていたはずだが、その攻撃センスに初めて気がついた。

縦への推進力があるし、駆け上がった後にカットインしてシュートにもいける。

台風は不安定で、ハーフタイムにはドロンパがびしょ濡れになっていた。しかし手を振ってくれた。可愛い。

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ディエゴと田川のゴールで2点をとり勝ち越しに成功したものの、パトリックにアウエイゴールを決められて敗戦。

ディエゴと交代で入った矢島輝一にとってはヒーローになるチャンスだった。U-23に舞い戻ったものの、代表選手の離脱等でチャンスが巡ってきた。1点とれば勝利を手中できる状況だったのだが……。

敗戦後、台風を警戒していそいそと帰宅。台風と汗で臭くなった肉体に冷えた埼京線車内は最高だった。臭いテロだけど。

以上が、出発直前までの話。つまり前提。オタク的なジャーゴンを用いるなら『接触篇』というやつだ。

鹿島アントラーズによってサッカーへの情熱に目覚め、エヴァブーム以降のオタク化により一度はサッカーとの関係が薄れるものの、オタクであったことが海外サッカーへいざない、マンチェスター・ユナイテッドならびに母国イングランドへの愛によりフットボールと故郷への正統な関係をインストールされ、それ故に『サポーターをめぐる冒険』を経由してJクラブやアマチュアサッカーの試合現場へと辿り着き、東京の人間であるためFC東京を応援するようになった。

要約すると、こんな感じだ。

で、ここからが本題。『発動篇』である。

鹿島アントラーズ対FC東京(2019年9月14日 茨城県立カシマサッカースタジアム)

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アウェイ8連戦のどこかひとつは行きたいなぁ。となると、ホームで行かなかった鹿島戦かなぁ、とぼんやりと考えてはいた。

旅立ちをはっきり決めたのは2019年8月11日の夜。週に1度のOWL magazineの生放送。

この夜の放送のテーマは「OWL magazineに寄稿するには?」。

https://www.youtube.com/watch?v=qgombcBrKGU&t=736s

OWL magazineは素人でも(書き直しはあるものの)寄稿できるメディアである。

その話を聞いているうちに、

あれ……鹿島戦で書けるんじゃないか……?

という、なんとなくの手触りを感じた。

そのまま生放送を聞きつつも、頭の片隅で思考する。

思考の第一のキーワードは「反実仮想」である。

と言われても、そりゃいったいなんなんだ? 食えんのか? そういや村長が都に行ったときに食ったって言ってたあれか? あの丸くてモチモチで賞味期限が4秒のあれか?

と疑問に思うだろう。

なので、まずは三浦俊彦『可能世界の哲学』から、その説明を抜き出してみよう。

 必然性や可能性と並んでよく用いられる様相に、反実仮想というものがあります。「もしも加藤君が休まなかったら、C組が優勝していたはずなのに」とか「もしもあの地震が一日早く起きていたら、僕は死んでいたかもしれない」のような文で表される命題です。現実に起きたことに反する想定を述べて、その条件のもとではこうだったはずだ(It would have been…)とか、こうだったかもしれない(It might have been…)と判断するわけです。私たちが英文法で習った、仮定法過去とか仮定法現在とかいうやつです。

つまり、並行世界の話である。

僕の場合は「もしも自分が鹿島アントラーズを応援し続けていたら……」ということは考えられなくはない。

そして、僕は現在36歳である。となると、思い浮かぶのが「(村上春樹)の35歳問題」だ。

またよく分からない言葉が出てきたと思う。食えんのか? とも思うだろう。醤油と山芋をかけて食べるアレか? と思うだろう。生きたまま踊り食いするから醤油を回避されるアレのことか? と。

「35歳問題」というのは哲学者の東浩紀が10年くらい前に何度か提示していた、春樹作品のひとつの特徴だ。

それは哲学者・東浩紀の小説『クォンタム・ファミリーズ』に記されている。

そしてぼくは、初期の短編のなかに、「元水泳選手の男」が三五歳の誕生日を迎えて、煙草を吸ったり妻の寝顔を眺めたりしたあとなぜか一〇分間だけ涙を流すという、ただそれだけの物語を発見した。
 ぼくは考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直説法過去と直説法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。
 そして、その両者のバランスは、おそらく三五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。

ここで挙げられている初期の短編というのは『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている「プールサイド」という作品だ。春樹にとって35歳というのは重要な年齢で、(1年ずれるが)36歳で『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が出版されている。『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』は1984年を舞台にしているが、35歳の年だ。

そして第二のキーワード。それは「親子」だ。

今シーズン、まず初めに大宮アルディージャのホームゲームを見に行ったとき以来、東京武蔵野シティやスペリオ城北、もちろんFC東京でも「子連れが多いな」と感じていた。

それまでは、子供を持たない僕が普段子供について考えることなんて、

天狗面を電車の車内に設置するなら、子供が鼻をつかみやすい高さにすれば、つり革の代わりとして使えるのでは?

くらいのものだった。

だがサッカーとの関係でいえば、僕を一度は鹿島アントラーズに染め、同時に東京ガスの試合に連れて行った父の存在を連想する。

僕と父親との関係というのは、2006年あたりから冷え切っていた。13年ほど会話はなかった。

もともと父は自分の欲望を優先するタイプだったと思う。毎週のようにパチンコに入り浸って借金をつくった。99年ごろには夫婦関係がいちはやく冷え込んでいた。家族関係の回復よりも自分の趣味への傾倒を優先する父にある種の軽蔑を感じたこともあった。

壊した関係というのは、その直後に結びなおさないとずるずると壊れたままいくものだ。決裂の契機となった感情が過去のものとなったからといって、じゃあ修復といかない不器用さが普通の人間というものだろう。

そういってよければkeyの大ヒットゲームであり京アニによる卓抜なアニメ化作品『CLANNAD』的である(『CLANNAD』人生で一番泣いた。『AIR』や『マブラヴ・オルタネイティヴ』や『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』よりも泣いた。床がべちょべちょになるくらい大量の鼻水で呼吸困難になり、窒息死の可能性もほんのりあるくらい泣いた)。

それでいて僕も36歳を迎えている。父が僕を鹿島に連れて行ったころと近い年齢だ。

晩婚化少子高齢化が進んでいるとはいえ、年齢的には結納からの中出しックスをキメて着床からの産道通過を経験していてもまったくおかしくない。

となると、ありえたかもしれない鹿島アントラーズを応援し続けている僕、ありえたかもしれない親となって子供をカシマスタジアムに連れて行く僕が、別の世界に存在してもおかしくはない。

つまり、自分が親となり子をカシマスタジアムに連れて行くことで、かつての楽しかった日々の記憶がよみがえり、父の苦労やなんかにも子育てを経験したことで思い至るようになり、父と和解、という物語が生起しそうな配置になっている。

が、これは現実にそうなって欲しい、というわけではない。

その可能性への接近にすぎない。その可能性が並行世界として成立しうるかどうかの確認作業であり、そういってよければ虚構化の手続きだ。

かつて同様に虚構化の手続きとして、父との関係を『東京90’S非ストーリー』というやる夫スレで描いた。

東浩紀は小説『クォンタム・ファミリーズ』が三島由紀夫賞を受賞した直後、「現実はなぜひとつなのだろう」という短いエッセイを『新潮』の2010年7月号に寄せている。

 作者みずから言うのははしたないことなのかもしれないが、『クォンタム・ファミリーズ』はけっこう複雑な小説である。この小説を「私小説」として読むのは、数ある読解のひとつにすぎないし、その読解は(後述のように)小説全体のメッセージと相反するように仕掛けが施されてもいる。
 しかし、それでもあえて分類するならば、この小説が、やはり一種の、現代的でネット的な世界観(ゲーム的世界観)と想像力(マルチエンディングとデータベースの想像力)を前提として、それでもさらに文学の伝統とつなげるかのように、アクロバティックな道具立てを駆使して作られた変わった「私小説」であることはまちがいない。そして、そのかぎりにおいて、『クォンタム・ファミリーズ』の基底にあるのは、ぼくに娘ができたという単純な事実である。
 ただしぼくはこの小説で、娘の誕生をめぐる喜びや驚きについて書いているわけではない。というより、ぼくにはまだそのような小説は書くことができない。むしろぼくは、そのはるか手前で、現実の人生で娘を授かり、そして娘を愛し平穏な家庭を築き上げることが(いまのところは)できているということ、その現実そのものがあまりにっも非現実的で信じられないがために、むしろその現実全体を虚構化するために、娘がいなかったかもしれない、妻がいなかったかもしれないもうひとりのぼくの三〇代の人生を疑似体験するために、小説を書いた。だからそれは、私小説でありながら、まったく私小説ではなく、「私」をむしろ複数の世界を横断するキャラクターの断片に分解してしまうような小説だ。
(中略)
『クォンタム・ファミリーズ』が三島賞を受賞したことで、確実にぼくのひとつの可能性、ひとつの未来は消滅したはずだ。それはもう確定している。決して取り戻すことはできない。
 だからぼくにできるのは、そのもうひとりのぼくに思いを馳せ続けることぐらいしかない。
 そして、今後も、そのもうひとりのぼくでも納得するような小説を書いていくこと、それぐらいしかない。『クォンタム・ファミリーズ』の物語は、主人公が可能世界の娘から手紙をもらうことで始まる。同じようにぼくはこれからも、小説を可能世界に向けて手紙のように書いていきたいと思う。

その手紙としての虚構の執筆だ。やる夫スレ以上に現実を素材に旅行記として書くが、同時に私小説のつもりでもある(今お読みのこの文章のことです)。

他にはまぁ、OWL magazineに寄稿すれば原稿料は出るらしいし、多少は旅費が返ってくると考えることもできる。

つまり行って書いたほうが得なのではないか。5000字から1万字程度なら自分にも書けるはずだ。

それに、おもえば『サポーターをめぐる冒険』も何割かは「子」の話である。

……よし、決めた! 鹿島に行って旅記事を書き、8割くらい書いたところでOWL magazineに掲載の可否をうかがってみよう!

生放送中にそう決めた僕は、そこから1ヶ月近い時間、『CLANNAD』の楽曲「小さなてのひら」「時を刻む唄」「渚」「野グソンテーリング」なんかを聞いてすごし、9月14日を待った。

そして14日当日を迎えた。

その週。ずーっと睡眠不足というか睡眠時間のズレに悩んでいた僕は、14日にあわせてズレを修正しようと試みていたが、失敗。
23時台に目を覚ました。

しかも日付変更からしばらくして、哲学者の東浩紀氏が突発的にニコ生の配信を始めてしまう。

明け方までたっぷり視聴。

「いったん仮眠してから鹿島に行く or die」という二択と相成った結果、寝ずにそのまま出発した。

家を出たのは9時ごろ。

電車読み用の本を選ぶのに手間取り、外に出た後もいったん家に戻ったりもした。

僕はいつも、プチ旅行感あるくらい遠くに行くときは勝手に観光協会の曲を聞く。

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まずは最寄である都営三田線の本蓮沼駅から巣鴨まで。
人生で一番電車乗ってる区間で、いたばしっ子が板橋外に出るための滑走路みたいなもんである。

山手線に乗り換え、日暮里駅へ。
ここから京成本線に乗り換えて成田を目指す。

特急を待ちながら、勝手に観光協会のアルバムを聞き続けていたら、ちょうど東京のご当地ソングである「すこぶるブルー東京」にさしかかる。

地方から夢を持って東京に出てきたものの、夢破れかけみたいな歌詞が大変お気に入りなのだが、FC東京の大一番の前に聞く曲でもなかった。

とうぜん茨城の曲も聞いた。

こちらは水戸や筑波山がフィーチャーされている。鹿嶋描写はいっさいない。

電車が到着し、涼しい車内で端の席をゲット。

1時間程度座りっぱなしとなるため、できれば睡眠不足を解消しておきたかったが、寝付くことができず。
では、時間をかけて選んだ本を読むかといえば、寝不足の重い頭ではそんな気にもなれず。

けっきょく、車窓から景色を眺めてすごす。

過ぎ行く街々の断面を漫然と眺めるのは、これはこれで楽しい。

気がつけば電車は一面が田畑のゾーンに突入していた。

田畑の中央をつっきる鉄道。撮り鉄のみなさんが喜びそうな風景。

首都東京と横浜を擁する神奈川につぐ関東3番手の県のふりをしている千葉(埼玉と争いつつ)。

東京寄りの着飾ったゾーンを抜けたことで、本来の千葉と出会っちゃったというか、油断してる千葉見ちゃったというか。

千葉と付き合い始めてしばらく経つけど(20~30分くらい?)、すっぴん見ちゃった感じ。

成田空港までは行かず、手前の成田駅で降車。歩いてJRの成田駅へ。

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駅構内には鹿島アントラーズのポスターが。

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ここは千葉県でありながら鹿島の領土であり、鹿島国の門のような駅なのだろう。

さて、ここから成田線・銚子行きに乗るわけだが、30分以上待たないと電車は来ないそうな。

山手線ですら次の電車を待つことに苦痛を覚えるせっかちオブせっかちな都会人である僕にはつらい時間だった。

こういうときに「田舎暮らしぜったいむりぃ……」なんて己の限界を悟った気になるが、そもそも田舎は車を足代わりにしているのだから、こんな思考は的外れだったりする。

そんな的外れかつ無意な思考に、ほとんど人のいない(おそらく待合室にいる)ホームのベンチで浸っていると。

だんだんとユニフォーム姿のおっさんやおばさん、ニイチャンネエチャン、性に目覚めてなさそうなちびっ子たちが増えていく。

これは、いよいよ遠征感出てきたぞ。

到着した成田線の端の席をゲットし、佐原という聞いたこともない駅へと電車は動き出す。

同乗した、鹿島のユニフォームを身にまといカバンにはグッズがじゃらじゃらと付いてるサポたち。

彼らを眺めていると、

(自分もあちら側の一員としてこの車両に何度も乗っていた可能性があったんだな……)

なんて思いにとらわれる。

佐原では降りるなり鹿島ユニの人々が、斜め方向に走っていくので慌ててついていく。

鹿島線は同一ホームの反対側線路に停車していた。
山手線と京浜東北線、飯能駅での西武池袋線と西武秩父線とおなじように。

鹿島線に乗っている時間はそう長くはなかった。

延方という駅を越えると次は鹿島神宮駅。目的地だ。

えもいわれぬ高揚感で心拍数もほのかに上昇してくる。

すると、窓外に大きな湖が。というか、湖の上を電車が通過している。

(これが霞ヶ浦か!)

と、景色をガン見する。

現存する5つの風土記のひとつである『常陸国風土記』において、「香島郡」は次のように記述されている。

香島の郡(こほり)。東は大海(おおうみ)、南は下総(しもつふさ)と常陸(ひたち)との堺(さかひ)なる安是(あぜ)の湖(みなと)、西は流海(うみ)、北は那賀(なか)と香島との堺なる阿多可奈(あたかな)の湖(みなと)なり。

さらに国文学者秋本吉徳による語注を引用すれば、

○大海 太平洋(鹿島灘)をいう。
○安是の湖 遺称地なく定かではないが、利根川河口付近であろう。湖は水門の意で河川が海に注ぐところをいう。
○流海 霞ヶ浦を指す。
○阿多可奈の湖 遺称地なく定かでないが、那珂川の河口付近にあったものか。

とのこと。

つまり、『常陸国風土記』が成立した1300年前から、この湖こそが鹿島の西の端にあたるわけだ(ついでに記すなら、同語注によれば、「鹿島」の用字は養老7(723)年以降に見え、「香島」はそれ以前の旧用字と推定されている)。

広大な霞ヶ浦の車窓風景は、終点間近感をかもしだす車内アナウンスのBGMとともに、鹿島遠征の移動編のクライマックスとなった。

……の、だが。

この記事を書くにあたってグーグルマップなんぞを見てみたところ、この湖は霞ヶ浦ではなく、その近くにある小さい湖の北浦であった。

なにを勘違いしてテンション上げてんだか……。勘違いでテンションを上げるなんてデートOK=童貞喪失だと思ってネットでデートコース近辺のラブホテルを事前に検索していたあの遠い日々以来だ。

電車が鹿島神宮駅に到着し、24年ぶりに鹿島の地に足を踏み下ろし、鹿島の空気を吸った。

駅の改札に向かうとなにやら列が形成されていた。

昭和どころか平成まで終わっていまや令和だというのに、鹿島神宮駅はいまだ自動改札ではないらしい。

通常の駅なら自動改札機が設置されているはずの場所には、おっさんなら知っている切符切り用の鋏を手にした駅員が入るための小スペースを作るアレが置かれている。

列は2列形成されていて、ひとつが紙の切符で乗車した人の列、もうひとつがパスモやスイカで乗車した人のための列だった。

自動改札が存在しないため、駅員のおっさんたちが手に交通系電子マネー処理用の機械をもち、ひとりひとり対応していた。

だから非常に進行が遅い。

しかも縦の関係で2人の駅員ズが別々の機械をもっており、その双方で処理をしてはじめて外に出ることができるという謎対応。

だから非常に進行が遅い。山手線の通っている駅なんかでこんなことしていたら、おっさんの怒号がとんでもおかしくない。

が、イライラすることもなく、文句を言うでもなく(そしてそんな人もいず)、ゆっくりと処理を待った。

駅舎を出ると、すぐ目の前左手にカシマスタジアム行きのバス停。右手には観光協会の案内所。正面に鹿島神宮があった。

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時刻は12時半といったところ。

キックオフは夜の7時だというのに、カシマスタジアム行きのバスを待つユニフォーム姿の人たちが。

彼らはこんなに早くスタジアムに向かってなにをする気なのだろうか。サポ仲間と楽しむのだろうか。リアルが充実しているようで羨ましい限りだ。

本遠征でついでに行きたい場所の第一位は鹿島神宮。第二位にかつて圧迫された鹿島のクラブハウスと練習場、余裕があれば第三位に鹿島灘があった。

この(OWL magazine的な言い方を借りれば)旅記事を書くことを事前に画策していた僕は、過去を回顧して、なんかいい感じに現在に繋げることができないものか、と思っていたのである。

何かがフラッシュバックすることを期待しつつ歩を進める。

緩やかな坂道。

……こんな坂道に覚えはない。

フラッシュバックすることを期待して歩を進めたはいいが、まったく記憶が蘇る予感がない。

少し登ると、鹿島新当流の開祖・戦国時代の剣士塚原卜伝の像が見えてきた。

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塚原卜伝のことを知ったのは小学校時代。やはり『やったぜミラクルアントラーズ』で、だ。主人公は剣道をやっており、鹿島御当地のレジェンド剣士である塚原卜伝の話が語られる。僕も小学校時代に剣道をやっていた時期があり、印象に残っていた。

坂をしばらく進むと、いかにも大きな寺社の近所感満点な通りに出た。

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なんらかの食事が出来る店に目をつけようと思いキョロキョロしていると、剣聖塚原卜伝の顔出しパネルをみつけた。

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こいつ女連れかよ……なんて一瞬思ったが、よく見れば妹と書いてある。

クッソ、妹持ちかよ……と胸中でつく悪態を正しく修正する。しかも真尋ちゃんって……二次元美少女かよ、名前。

「鹿島立ち」と書いてあるが普通に佇んでいるだけで「ガイナ立ち」とはだいぶ違うなー……とか考えつつ進むと大鳥居が見えてきた。

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FC東京サポーターも鹿島アントラーズサポーターもともに参拝しているようである。

楼門を抜ける。

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すると、拝殿の前になにやら人の列が。そして響き渡る和楽器の音色。

なんと結婚式を執り行っている最中だった。

神主と新郎新婦たちの隊列が通過するまでしばし待ち、式の邪魔にならぬよう拝殿からいそいそと立ち去った。

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奥宮に続く奥参道。

先ほどの拝殿までのゾーンとて、社格や規模に相応しい神聖さをたたえていた、とは思う。

しかしこの先は、より一層清浄なる空気に満ちている気がした。

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四方を取り囲んでいる樹々は天然記念物らしい。

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ここはたしかに、小学生時代に歩いた記憶があった。

ただし、記憶の中にある参道よりもじゃっかん道幅が狭く思えた。

24年ぶりに西が丘でサッカー観戦をしたときも、小学生時代よりもスタンドが狭く感じたが、理由は同様、僕の肉体がでかくなったからである。この縮尺感の変化が「かつて僕は、たしかに1度この地を訪れた」という感覚をもたらしたが、しかしそれ以上の何かが胸のうちに生まれることはなかった。

こんなものか、と思った。現実は設計された虚構と違い、幼き日の経験の反復で記憶のフラッシュバックしてドラマが進行する、なんてことが都合よく起こるわけがなかった。

にしても……鹿島アントラーズのレプリカユニフォームを着た男女のペアの姿がそこそこ見られる。

カップルなんだろうと思う。

Jリーグの歴史上もっとも多くのタイトルを勝ち取ってきた、圧倒的な栄光の歴史をもつ王者鹿島アントラーズ。

そのサポーターでしかもカップル。

これは、控えめに言って、抹殺するのが社会的使命なのではないだろうか。

つい先ほど結婚式と出くわしたせいか、このカップルたちから、サポ仲間達から祝福される未来をつい想像する。

きっと披露宴でチャントなんか歌っちゃったりするのではないだろうか。

で? 自分を鹿島サポに染めてくれた両親に感謝? それ綴った手紙で泣くの?

こっちは最後に女性と一緒に出かけたのは、2014年1月24日。ゲンロンカフェで行われた「Keyという奇跡──「AIR」「CLANNAD」「リトルバスターズ!」を生み出したブランドの情熱を語る!」なるイベントに、とあるゲーム音楽家の年の差嫁とふたりで参加したとき以来だというのに(ついでに言うなら、その夫である作曲家が手がけた作品名が既にこの本文中に既出だったり)。

抹殺するのが社会的使命であることを確信した僕は、手近にあった鉄棒を拾い上げた。

鉄棒に炎系の魔法をエンチャントし、親の財布から札を抜き取る時の要領で気配を殺して接近。

ふと、カップルの歩いていく向こうを見ると、鹿たちの姿が目に入る。

鹿園の中から、無垢な黒目がこちらを射抜く。

そしてさらに目を凝らすと、鹿園の向こうに老女の姿を見つけることが出来た。

両の眼窩が真っ暗な老婆が、それでもこちらを見つめながら何事かをぶつぶつ呟ている。

鹿可愛い。老婆怖い。鹿可愛い。老婆怖い。鹿可愛い。老婆怖い……

鹿と老婆の可愛い怖さに身を支配され、気がついたときには手に持った鉄棒は地面を転がっていた。

血で手を染めることなく奥宮を参拝。

今日の試合のFC東京の勝利とリーグ優勝を願ったものの、J1に参戦したことあるすべてのクラブのサポーターに祈られているであろう鹿島神宮なので意味をなさないだろう。

この遠征最初の現地っぽい食べ物、きびだんごを食した。

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そのまま道なりに進んで下っていくと、どこだか分からない場所に出てしまった。

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東京生まれ東京育ちなせいか、ガードレールと歩道のない道を歩くと非常に不安になる。人通りも皆無なので、自分を取り残してこの世から人が消えてしまったのではないかという、『DESIRE-背徳の螺旋-』的妄想にとらわれ、どんどん心細くなっていく。母親の胎内にいたころよりも心細くなっていく。

蜂とかもめっちゃ飛んでるし……。

にしても。

家とトラックと緑と道路しか見えない場所だな、と思う。

鹿島は何もないからサッカーに集中できるとはよく言われる話だが、たしかに何もない……。

おなじようにマンチェスターの街も遊ぶところがないからフットボールに集中できるとか悪い遊び覚えないとかいうし、ユナイテッドのGKであるデ・ヘア神の彼女もマンチェスターをディスっていたが。

マンチェスターは鹿島に比べれば圧倒的にモノがある。音楽だって有名だし(かつてはハシェンダなんて有名なクラブもあったし)、セレクトショップでファッションだって楽しめる。大学もあれば美術館もある。

今僕が歩いている道は、おもわずうろ覚えの吉幾三が頭の中で歌いだすレベルだ。

ハァ~ テレビも無エ ラジオも無エ 自動車もそれほど走って無エ

意識がねエ 記憶がねエ 生命生まれた気配がねエ

おらこんな虚無いやだ オラこんな虚無いやだ

創造主になるだ~♪

そんな田舎道を孤独に耐えながら歩き続けると、なんとか元の鹿島神宮駅前に辿り着くことが出来た。

午後2時過ぎ。

できれば鹿島アントラーズのクラブハウスや海なんかも見に行きたかったのだが……。

悲しいことに、36歳の身体が「もういいだろ、そんなもん」と面倒くさがりだした。

開場は4時、キックオフは7時、とだいぶ時間はある気もするが、もうスタジアムに行って腰をおろすことにした。

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というわけで、本日最大の目的地である茨城県立カシマサッカースタジアムに到着。

……うむ。なにも思い出さない!

改修による外観の変化というより、単純にこの場所の記憶がまったく残っていなかった。

アウェイゲート前にはコミケの待機列の小規模バージョンのような感じで青赤さんたちが開場を待っていた。

1時間半ほどぼーっと、「唱えるだけでアフロヘアーの人が世のなかに増殖するお経はあってもいいな……」なんて意味のないことを考えつつ時間の経過を待つ。真後ろにはお父さんと息子の親子連れ。

息子さんが「カシマスタジアムってJリーグできたときからあるのー?」とお父さんに尋ねる。

お父さんは「いやー……最初っからじゃないんじゃないかなー……」との返答。

正解は最初っから、なんだけど! と、話しかけたくてしょうがない。

話しかければまたなにか違った展開があったのかもしれないが、けっきょく声をかける度胸などなく、入場となった。

階段を上って2階のコンコースへ。

アウェイゴール裏へと出る狭い出入り口へと歩みを進めるほんの数十秒の時間。

もしかしたら、味スタのホーム自由席へと向かうとき以上の抑えがたい胸の高鳴りを感じたかもしれない。

待機中に後ろにいた親子のお父さんのほうも、

「さすがに昂ぶってくるな……」

と漏らす。

心の中でそのお父さんの言葉に同意する。

出入り口はわずかな上り階段でできていて、頭上から開けた世界の光が差し込んでいるものの、眺望は遮られている。

焦らされるような気持ちで一段一段と踏みしめて、ついに待ち望んだ景色へと到達した。

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鹿島アントラーズがメルカリに買収されたとき、「鹿島の歴史はJリーグの歴史だ」という主旨のツイートを見かけた。

Jリーグ開幕にあわせて建造した、当時としては有数の設備を誇ったサッカー専用スタジアム。その建造当初からワールドカップ前の増設を視野に入れた設計がなされている。

つまり、日本サッカーの進歩を信じて作られたスタジアムだったのだ。見ようによっては国立競技場以上に、日本にフットボール文化を本格的に根付かせようという取り組みを体現している象徴的スタジアムだ。

ビジターの席に座って初めて「ホームとはなにか」を実感した。

見渡す限りほぼすべてが「敵」。

これがホームとアウェイの違いなのか……。選手たちにとってはもちろんだが、応援するサポーターにとってもホームとは心強い場なのだということが理解できた。

向こう側のどこかに自分がいたかもしれない、とは思った。

思いはしたが、「ありえたかもしれない別の可能性」のことを考えることはもはややめていた。というよりも僕の内部でそれは自然発生しなかった。OWL magazineの生放送中に思い浮かべたキーワードは、この時点で不発に終わっていた。

と同時に、優勝をつかみ取るための応援に身を砕くことを誓っていた。

味スタでは常にバックスタンド側のホーム自由席で観戦してきた。

バックスタンドで声を出していけないなんてことはないし、ホーム側ゴール裏に近いあたりでは特にチャントを歌う人もいれば、声を出さないまでも手を叩いて盛り上げる人も多い。

それでもどこかしら大声で応援するのは難しい雰囲気があるのもたしかだった。なによりも立ち見での応援は禁止されている。

しかしここではすべてがゴール裏で、僕もその一員だった。

昨年のFC東京U-23対ザスパクサツ群馬の対戦を見るためひさしぶりに西が丘に行ったとき、東京23区内とは思えないような大きな空と草の匂いに「異世界ファンタジーのようだ」と感じたが、その例えでいうなら、異世界転生後に冒険者ギルドに登録したくらいのところまでは来た、といったところか。

「俺たちのトーキョー」ではなく、「俺のトーキョー」。
 どういう意味かって言うと、自分がサポートしてもしなくても、仲間がやってくれる「一人称複数=俺たち」ではなくて、自分がやる、自分が積極的に関与する「俺」に、サポーターひとりひとりがなっていかないといけないって話。
「俺のトーキョー」な奴らが集まってできた「俺たちのトーキョー」ってすごく魅力的だと思わない!? みんなが自分のクラブ「東京」のために本気なんだぜ!? それってかっこいいし、素敵なことだよね。

植田朝日『俺のトーキョー! FC東京ラブストーリー』イースト・プレス、2011年

そう、ここから「俺のトーキョー」が始まるのだ。

……なんて感慨にふけるも束の間。即物的な欲望のお時間である。

つまり、スタグルを食べなければならない。

たびたび書名を挙げてきた『サポーターをめぐる冒険』の第3節「「カシスタ」で野戦の雰囲気を味わう」でも、五浦ハムやモツ煮などの記述が登場し、食欲をそそられたものだ。

アウェイ側はホームよりもお店の数が少ないと聞くが、ともかく前掲書を読んで以来ずっと飢えていた腹を満たさなければならない。
モツ煮は、コミケでいうところの「壁サークル」ばりの大変な人気で、長蛇の列ができていた。

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噂に違わぬ美味だった。実をいうとモツ煮はあまり好きじゃなかったのだが、これだけ美味いの暴力で味覚をボコ殴りにされるとモツ煮の美味さに覚醒せざるをえなかった。この瞬間をもって僕の人生を大きく二つに分けることができる。モツ煮覚醒以前とモツ煮覚醒以後である。

完食。

食いでがありすぎた。他のものを食べる余裕がゼロではないものの、腸内に人糞が大量生産される可能性を考えて断念した。

なんせ、『劇場版 魔法少女まどか マギカ[新編]叛逆の物語』を今はなき池袋シネマサンシャインで見ている最中に激しい便意から人生初の映画を中座してのトイレ。

戻ってきたらもう映画に感情移入できなくなっていたなんてことがあった。(当時は暁美ほむらメインのやる夫スレを書いていたので、暁美ほむらと自分自身の区別が曖昧になるくらいに感情移入していた)

同じ轍を踏むことのないように、腸内の人糞原料積載量を少し抑え目にすることにしたのだ。

チューハイをひとつゲットし、座席に戻った。

心地よい酔いとスタジアムの雰囲気に身を任せていると、背中の向こうから太鼓の音が聞こえてきた。コンコースからだ。

コンコースに出ると、青赤のユニフォームに身を包んだ人々が一箇所に集中している。

集まったサポーターたちの視線とスマホカメラの先には植田朝日氏を中心とした東京イケイケ団の姿。

今回の「アウェイ8連戦」では、毎試合新チャントが発表されることが予告されていた。

とんでもないペースの新曲投入である。週に1~3枚の新曲レコードをリリースしていたピート・ナムルック、1日4曲をノルマとしていた男子校時代の童貞みうらじゅん、おなじく1日4曲ペースで曲を作っていたテクノ界のモーツァルトことエイフェックス・ツイン、ゼロ年代後半の高円寺や新宿でカルト的な人気を誇ったスカイブルー100的なペース……ほどではないものの、けっこうなペースだ。

北海道コンサドーレ札幌戦、名古屋グランパス戦に続く新チャント第3弾。

その練習が始まったのだ。

原曲は米津玄師の「馬と鹿」

知らない曲だったが、検索してみると、なかなか良い選曲に思えた。

今回のアウェイ8連戦はそもそもラグビーワールドカップに味スタを提供しなければならなかったからだが、そのラグビーワールドカップ開幕にあわせて放送している、ラグビーを題材にしたテレビドラマ「ノーサイド・ゲーム」の主題歌なのだ。

なんでも、ドラマ内にはFC東京も一瞬だけ登場するらしい。

今回の対戦相手は鹿島アントラーズ。「鹿」である。

「馬と鹿」から「と」を抜けば「馬鹿」になるが、ネタ重視の応援スタイルを持つ東京サポーターは王者の風を纏う鹿島に挑む「馬鹿」なのではないか、と解釈できた。

曲を知らないものたちはその場でスマホで歌詞を検索したり、動画サイトで試聴して耳に押し当てていた。

そんな調子だったが、意外とはやく形になったと思う。アウェイ側ゲートから上がってくる階段のところでSNSでの拡散用の撮影が始まった。

僕も集団の一員となって歌い、拳を振り上げた。春ごろには考えもしなかったことだ。

初めて味スタでユルネバに抵抗を感じた日はつい数ヶ月前だったというのに……。

2時半ころにスタジアムに着いたときにはキックオフまで長い時間を待つことになると思っていたが、意外とはやく時間はやってきた。ウォーミングアップの開始だ。

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初優勝を目指すクラブが2位の強豪と直接対決をする。

つまり、これから行われる戦いは、FC東京史上でも最も重要な試合のひとつとなるかもしれない。

脳裏に浮かんでくるのは、マンチェスター・ユナイテッド史上でも最も重要な監督であるサー・アレックス・ファーガソンの言葉だ。
98-99シーズンの終わり、彼の率いるユナイテッドはプレミアリーグとFAカップを手にした状態でチャンピオンズリーグの決勝にいどんだ。前人未到の三冠(トレブル)を賭けた戦いだった。

その戦前にファーガソンは、

落ち着いて
座席のベルトを確かめて
ジェットコースターみたいに試合になるかもよ

とメディアに語った。

ジェットコースターの最序盤にあたるゆっくりした垂直上昇の最中のようにドキドキしていた。

そして、応援が唐突に始まった。

と、感じた。

バックスタンドの自由席から見ていたときは右手をむけばゴール裏の様子が見えるが、ゴール裏内部にいるとおなじ平面に属しているので、応援が開始される気配に気がつけなかった。

東京こそすべて 俺らを熱くする
情熱をぶつけろ 優勝を掴みとれ
バモ東京 バモ東京 バモ東京 バモ東京
バモ東京 バモ東京 バモ東京 バモ東京

ホームでもゴール裏じゃなかったのでほとんど歌ったことのないチャント。

それが驚くほどするすると口から出てきた。

はっきり言って、そうとう気持ち悪い高音気味オタク系非イケボイスなのだが、それでも全力で声を出す。

同時にアウェイを青赤に染めるため、クラブが用意した旗を振りまくる。

続いて新チャント「馬と鹿」だ。

だが……

やばい……ついさっきみんなで練習したばかりなのに、歌詞もメロディも頭から消えうせている……。

しかもまだまだ浸透していなくて、中心部以外はあまり歌えていないため、小さくしか聞こえない。

立て続けにチャントが歌われ、続く「ユルネバ」。こいつも大声のキモオタ声で歌う。

ユルネバを歌っている最中は、東京のすべてに包まれ、大きな全体の一部になったかのような特別な気分だった。

ここにいて同じ方向を向いている人たちの多くは、東京という土地で人生の様々な瞬間の喜怒哀楽を積み重ねてきた人たちなのだろう。それがこんな辺鄙な土地で集って、同じ目標のために戦っている。不思議なことっちゃ不思議なことだ。

試合は開始直後に失点を許した。

まだ時間があるとはいえ、いきなりハンデを負わされた気分だった。

前半の戦いはまるでヨーロッパの格上リーグのクラブや強豪国の代表との対戦を思わせた。すべてが東京を上回っていたように見えた。

後半の東京は持てる力の全てを発揮して攻撃したと思う。

そのすべてを凌ぎきった鹿島。

鹿島は王者として「タイトルを獲る」という究極のルーティンを粛々とこなす自動機械のようだった。さながら選手たちはその機械を構成する一つ一つの歯車といったところ。

70分台だろうか。

鹿島サポーターたちが、応援のボリュームを2段階くらい上にあげた(ように感じた)。

これには一瞬呆然とした。

まだ応援としても余力を残している彼らが、残り時間が少なくなり焦りの募る東京の選手とサポーターたちにの精神的な力を挫こうとしているようだった。

勝つことが当たり前で、事実勝ってきて、これからも勝つことが当たり前であり続けて、その精神を継承してきたサポーターたち全員が、勝利のために締めるべき勘所を理解している。

そして2点目が決まる。

神戸線のイニエスタにも見た、放たれた瞬間に入ることがわかる特別なシュート特有のスローモーション。

重い重い2点目だった。川崎相手に感じたのと同じズシリとのしかかってくる重さ。

それでも最後まで歌い続けた。

オオ 俺の東京 今日も行こうぜ 勝利めざし
行け行けよ 東京 いつも俺らがついてるぜ
誰がなんと言おうと 周りは気にするな
自分を信じていれば 勝利はついてくる

限界まで声を出し歌い続けているうちに、鹿島と戦っているのか、心の中に巣食う信じる気持ちをへし折る何者かと戦っているのかわからなくなってくる。

試合は終わった。

挨拶にやってきた選手達が退場するのを最後まで歌って見送り、いそいそとスタジアムの外に出る。

予約したバスの乗り場に行かなければならないが、事前に道を調べたわけではないのであまり自信がない。

田舎的な暗さのスタジアム周辺を、なかば手探りで歩いて、どうもあってるっぽい方角へと歩いていく。

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歩道橋から振り返れば、地上に降りた宇宙船のごとく光を放つカシマスタジアム。

ほんと田舎だな、ここ。

帰りのバスは渋滞することもなく順調に鹿島国を脱出し、東京へ。

疲れで何も考えずにひたすらボーっとすごす。誰もが気だるげな車内で、鹿島のユニを着た親子だけがサッカー選手の名でしりとりをして遊んでいた。

鹿島サポで東京で暮らしていて子持ち、か……。

2時間ばかり走ったバスは首都・東京へ戻ってきた。

首都高を走り、夜景を彩るビルの谷間を抜ける。

(眠らない街、だな。ほんとうに……)

去り際に振り返ったカシマスタジアム周辺の暗さと対照的な社畜とリア充の光に満ちた街並み。

後者のほうが圧倒的に安心できた。

東京駅に到着し降車。急いで三田線のホームに向かい、乗り込む。あとは本蓮沼駅へと着くまで置物と化していればいいのだ。

スマホを見ると、バスが足りずに鹿島国からの脱出に時間がかかってる人たちが多数いたようだ。

バス予約しておいてよかった……。次も絶対に予約しておこう……。

本蓮沼着。西が丘方面に歩いて数分で我が家へ。

以上が2019年J1リーグ第26節、鹿島アントラーズ戦への遠征の記録のすべてだ。

ところで、今回の長い旅記事を執筆するにあたって、帰宅後に家の中をごそごそと探してみたら、レオナルド選手にサインをもらった当時の鹿島アントラーズのユニフォームが出てきた。こちらとも24年ぶりくらいの対面だ。

それを見て驚いた。

サイズが子供用だったのだ。

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この子供用サイズのユニフォームを見て、唐突に気がついた。

子供を作ることが定住する地を決定することとなり、その決定で選択された土地が子供にとっての故郷を強要することとなるなら……。

「東京」の街しかありえない、と思ってしまっている僕は既にいるのだ。味スタに通えない場所に住むなんてありえない。

とはいえ、いまだ子供もいなければ未婚で、婚約している相手も(二次元を除けば)いない。

「35歳問題」的な反実仮想の波が襲ってきて涙するということなくカシマスタジアムを後にしたこともきっと、僕が子供を作り、あの場に連れて行っていなかったからではないだろうか、とも思う。

子供を作るということは大変なことだ。なんせ物理的にひとりの人間が増え、その人間に対しあらゆる責任を負わなければならない。その子供が自身で責任を負うようになるには約20年はかかるし、何もできない幼い頃は子供のために大量のリソースを割かなければならない。人生の主役が子供に移り変わる。

だからクリエイターなんかには未婚の人もいる。『CLANNAD』の企画・シナリオ・楽曲制作・作詞を手がけた麻枝准なんかはそうだろう。

僕も、かつては音楽を作り、やる夫スレを投下し、今は小説を書きたいと考えている。

子供がいても夢を追う。

それは『サポーターをめぐる冒険』やOWL magazineの良いと感じた点でもあった。

中村慎太郎は「作家になる」という夢を叶えた。とはいえ、まだ単著を1冊しか出していない。ならば2冊3冊と出すこが次の夢をとなっているだろう。

澤野雅之編集長はOWL magazine始動時に「元書店員が「旅とサッカーのマガジン」の編集長になってかなえたい夢」という所信表明的な記事を投稿した。

この記事では、子供との対話のなかで「夢」を語るシーンが登場する。

夢と子育てとサッカーが交差してる人たちが、こうして現にいるのなら。

そして、「FC東京のために東京の人間でいたい」と既に思っているのなら。

子供を作り育てながら、小説を書いたり、あるいは音楽を制作したりという自分自身のクリエイションに挑戦してみてもいいのではないか。

それに、少しだけ思う。

僕にとっての父は子供にとっての祖父だ。

子供にとって祖父の存在が必要となるなら、もしかしたらそのとき、和解の可能性もあるのではないだろうか。

おもえば『CLANNAD』の岡崎朋也も、娘である汐を連れて実家に帰ったとき、父との関係が復活する。

僕も子供を作るために、まずは結婚をしたい。

だが、結婚は現実的にそこそこの収入がないと、さすがに無理である。

なので、まずは現在の月収40円を倍化させるべくがんばろう。

長々と書いてきたこのテキストもひとつの結論に到達した。

婚活市場での価値を高めるべく、まずは月収40円を2倍にする。

散漫な文章に終始したが、無事にひとつの結論を導くことができたところで、本記事の筆をおこうと思う(実際には万年筆等の物理的筆記用具でなくノートPCで執筆しているため、トランクスと靴下のみで四つん這いになり、女王様が背中に座っていただくのを期待している中年男性の空いた背中の上にそっとパソコンを置こうと思う)。

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