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神様

神様みたいな日記をつけたい。

誰も私を救ってくれないから、自分で神様をつくればいいと思った。許してほしい。

希望なんかにはきっとならないけれど、私の祈りは神様になってくれると信じてる。

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たまたま目に入ったあなたの欠片がとても綺麗で、どこにでも行けると思った。誰かにとって悲しみに見えるその欠片は、私には神様みたいだった。どんなに願っても助けてくれない形の無い神様じゃなくて、ちゃんと存在しているモノ。救われるんだ、やっと。果てしなく見えた、絶望的な坂道に終わりを告げられる。登った先でこんなにも美しい出会いがあったなんて。どうか私を殺してください。出来すぎた物語のようだけど、そんな物語を望んでいた気がする。きっとそう。そして私も欠片になる。小さな小さな欠片になって、優しさみたいな色の光を放って、誰かを救うよ。そうだ、欠片になれなかったあの人を迎えに行こう。久しぶりに会うから緊張しちゃうかもしれない。そんな私を見て、あの人は笑うかもしれない。大きくなったねって、忘れないでいてくれたんだねって。一緒に笑って、むかし話でもするんだ。遠い遠い、いつかのこと。

2/1
大きめの似合わない帽子を被ってお出かけをした。誰も居ない街なのに、誰かに会いたくなってしまったから。歩いても歩いても景色は変わらなくて、一人ぼっちなのを確かめられただけだった。みんなはどこに行ってしまったのだろう。最初から1人だったのかもしれないけれど。寂れたショッピングモールの中で、好きだったヒーローのおもちゃを見つけた。変身すればヒーローになれると思っていたけど、そういうもんじゃないんだよとあのひとは教えてくれた。ヒーロー気取りの台詞は、目の前の人を傷つけるだけだった。本当は変わりたかったよ。でも、私から出ていった言葉はいつのまにか私を縛りつけて、身動きが取れなかった。縛られていなかった自分なんてとうに忘れてしまって、進んできた道も無くなって、こうやって誰も居ない街を歩いているんだ。あなたにはもう会えないのだろうか。

2/15
そうじゃなくてもいいのに、そうじゃなきゃいけないと思わされることがたくさんある。本当を見たいけれど、いろんなものに覆われて見えなくなってしまった。時には自分から隠したこともある。本当を覆うそれらは私を否定する。覆っているものこそが本当なのだと説得してくる。そんな時、私は日記を書く。言葉にするという行為は孤独だけど、生まれた言葉が一緒にいてくれるようになる。本当を見ることは難しいけれど、本当が確かにあることを言葉は教えてくれる。そうやってひとつひとつ確かめていかないと、自分が自分じゃなくなっていくような気がして、今日もこうやってだらだらと書いてしまった。神様という題名の日記にはふさわしくない、なんの救いもない話だけれど、祈りみたいな言葉を紡いでいく。

3/29
こぼれ落ちてしまったものはどうなっていくのだろう。そのまま朽ちてしまうのか、それとも誰かが拾って大切にしてくれるのだろうか。やわらかい暮らしの中で時折、どこかに置いてきてしまったものたちに思いを馳せることがある。確かにあったはずなのに、無かったことにしてやり過ごした傷つきや寂しさ、反対に人を傷つけてしまったのにうやむやにしてしまったこと。進みたかったけど選べなかった道や、あえて言わなかったこと。わたしという存在は、手に入れたものでできているように思ってしまうけれど、こぼれてしまったものでもできている。こぼれてしまったものは、同じ形では永遠に戻ってこない。戻ってきたように見える時は、失くした時とは全然別のものになっている。だからといって拾うことに意味がないわけじゃないけど。だから、こぼれてしまったものをわたしから拾いにはいかない。こうやって時々思い出して、言葉にして、ちゃんとここにあったことを書こうと思う。どうかこぼれていってしまったものたちが、あたたかくて優しい木漏れ日に出会えますように。

5/4
言葉が不完全なものでよかった。私が見ている景色を全て伝えることができたなら、私は無くなってしまう。私だけが見える景色。どんな言葉でも語ることのできないそれらが私の輪郭をつくってくれている。私の全部を伝える言葉が見つかったら、私はどうするのだろう。私のものだった景色は可視化され、誰の目にも同じように映る。景色の隅々までが言語という記号に変えられ、私の外に放り出される。残った私はきっと空っぽになる。返してほしい、と叫んでも戻らない。記号になってしまった景色は元の形を忘れている。じゃあ、この日記はどうなんだろうか。言葉という形にすることで、私は空っぽに向かっているのだろうか。あ、そういえば前に「本当があることを言葉は教えてくれる」と書いた気がする。言葉にして外に放り出さないと、自分の中にあったことを忘れてしまうみたい。いつの間にか外側のものが内側に入り込んで、まるで最初からそこにいたかのように居座ってしまうらしい。形にすることも不安だけど、形がないことでも不安になる私たちはきっと生きるのに向いていない。伝えたいけど分かってほしくない私たちは、今日も傷つきながら生きている。

7/17
大丈夫だよ、と声をかけることは本当に正しいのだろうか。そんなことを考えてしまって言葉に詰まる時がある。大丈夫じゃないことを伝えてくれた人にそれを言うことは、暴力的なことのようにも思う。不安、苦しみ、痛み、妬み、嫉み、あなたを傷つける色んな感情を否定しまうように思えてしまって、どうしてもその言葉を伝えられない時がある。苦しみの中に生きている人を、わたしはどうにか安心させようとしてしまう。その人のことを思って安心させたいと思うこともあれば、自分も同じように苦しくて、自分が安心したくて声をかけることだってある。でも、基本的に苦しみから抜け出せるのはその人だけであって、周りの人ができることなんて極端なことを言えば何も無いと思う。苦しみを解ることもできなければ、一緒に背負うことだってできない。一瞬だけでも忘れられる助けにはなるかもしれないけど、それもほんとに一瞬のことで。そういう何もできない絶望を本当は受け入れないといけないと思う。あなたはずっと苦しいかもしれないし、救われないかもしれないし、なんだかよく分からない孤独にずっといるかもしれない。そういうあなたにわたしは共感をしないし、特別何かをするわけじゃないし、役に立たないことばかりかもしれないけれど、あなたの感じていることや見えていることを決して踏み躙らないで隣にいるよって伝えられる強さを持たなきゃいけないと思う。分かったふりを何度もして、自分が何かできると勘違いして傷つけてしまって、どうしようもない人間だとつくづく感じて嫌になってしまう。特に締め方も分からないので、今日の日記はおしまい。

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