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「やまゆり」と「社会」と「わたし」

 2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で19人の障害者が殺害され、27人が負傷する事件が起きた。(「植松聖が死刑確定。相模原障害者施設殺傷事件の全貌とやまゆり園で起きた現代の問題に迫る。」)犯人は「心失者(犯人の造語)に生きる意味は無い」とし、意思疎通のできない障害者を次々と殺していった。特に世間を震撼させたのは、犯人がやまゆり園の元職員だったということ。当事者の1番の味方であるはずの支援者が犯行に及んだことについては「絶望」しか感じえないところである。その裁判については、判決内容がほぼ確定だったからなのか、2ヶ月という短い期間を経て「死刑」という形で終わった。
 この事件を考える重要なキーワードとして出されるのが「優生思想」である。「生産性」や「効率性」といった基準で人の良し悪しを決め、「悪」とされたものは社会から排除するのだ。そういった考えがこの事件の根底にはあり、それは犯人だけではなく社会全体としてあるのだと盛んに言われたように感じる。(「内なる優生思想」)
 しかし、それで何かが変わったのだろうか。「犯人は社会がつくりだしたと言っても過言ではない」と事件の責任が帰属したこの「社会」は何か変化の兆しがあったのだろうか。私はこの事件に対して怒りだけではなく、空虚さも感じてしまうのだ。そんなことを書きたい。

「優生思想」との闘いは今に始まったわけではない

 資本主義的とも言える、この「優生思想」への批判は新しいものではない。1970年代に障害者自身が主体となり、そういった価値観に声をあげた「日本脳性マヒ者協会 青い芝の会」という運動団体がある。当事者自身が社会運動を行うのはこの青い芝の会が初めてだった。青い芝の会は全国に支部を持ち、その中でも神奈川県連合会は過激な運動を起こしたことで有名である。川崎バス闘争や、障害児殺害事件に対する減刑嘆願反対運動などその活動は多岐に渡る。(「脳性マヒ者団体『青い芝の会』が主張した、障害者の自己」)その活動を通じて主張していたことの1つが、「生産性」や「効率性」に代表される資本主義社会や資本主義的な価値観の否定だった。メンバの横塚晃一の言葉を引用すれば(孫引きです…)、

現在日本においては、働くということは特に障害者の場合、物を生産するということと同義語につかわれています。物資を生産することだけが「正義」であるならば重度障害者はもとより、少し能率の落ちるような軽度者においても障害者は救われない存在といわなければなりません。(「母よ!殺すな」54頁)
我々障害者は、1束かつげなくても落穂を拾うだけ、あるいは田の水加減をみているだけでもよしとすべきであり、更にいうならば寝たっきりの重症者がオムツを替えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働としてみられるべきなのです。そのようなことが、社会的に労働としてみとめられなければならないし、そのような社会構造を目指すべきだと思います。(「母よ!殺すな」56〜57頁)

という主張をしている。障害者の「生きる意味」を否定するような価値観に強くNOを突きつけ、「労働」の概念を覆す必要性を説いたのである。

社会は変わっていない

 そのような運動の歴史があるにも関わらず、やまゆりの事件の時に言われた「優生思想と闘っていかなければならない」という言葉はあたかも今から闘いが始まるように聞こえる。障害者自身が闘ってきた歴史はどこにいってしまったのだろうか。同じように今回も風化し、いつかまた同じ類の事件が起きてしまった時に「内なる優生思想と闘わなければならない」と始まるのか。実際に風化は始まっている。NHKが開設した、「19のいのち-障害者殺傷事件-」によれば、世論調査(2019年)の結果「あまり覚えていない」と「全く覚えていない」が合わせて22%と5人に1人になったそうだ。また、20代以下については覚えていないが47%と半数近くになった。3年の間でこれだけの風化が起きているのだ。さらに、杉田議員の「LGBTは生産性が無い」や某医大の入試における女性差別などむしろ社会は悪化しているのではなかろうか。
 「生産性」や「効率性」は確かに重要だ。その考え方全てを否定したいわけではない。仕事の能率が上がることで長時間の労働から解放されたり、できた余白の時間で様々なことができるようになったりするだろう。(こういう考えた自体何かに縛られている気もするけれど…)しかし、「生産性」や「効率性」は人そのものを評価するための基準では絶対に無かったはずである。「生産的な仕事」を追い求めていたはずが、「生産的な人間」を追い求めるようになってきてはないだろうか。また、「それが結果的に社会を良くする」という言葉で排除が正当化されている気もするのだ。

そのような中で、「優生思想」との闘いは意味をなしていけるのだろうか。

「社会の責任」という言葉について

 先程から「社会」という言葉を何度も使ってきたように、この事件においては「社会が犯人をつくりだした」などその責任が社会にあるとされてきた。この考え方自体はとてもいいと思うのだ。問題を個人化せず、構造的にものごとを考えていくことは「障害の社会モデル」(「個」と「環境」の間で障害が生まれるという考え方。)にも通ずるものである。しかしこの言葉への違和感も感じるのだ。

その「社会」に「わたし」はいるのか?
「社会に責任がある」や「個人だけでなく環境にもアプローチをする必要がある」という言葉を聞くと、その大切さを考えると共になぜかむずがゆい気持ちになっていた。最近になってなんとなくその正体が分かったのだ。それは、「社会に責任がある」という言葉の「社会」にはその言葉を発している本人が入っていない気がするということだった。テレビのコメンテーターなどはあくまで「私は違うのだ。」と言いたげな表情で「社会はこの問題を個人に押し付けてはいけない」などと言う。その言葉を発する本人も「社会」というやつをつくっているはずなのに。「社会」に責任があるというのは、「わたし」に責任があるということだし、「環境にアプローチをする」ということは、自分自身にもアプローチしなければならないということなのだ。「わたし」が不在の「社会」は非常に空虚であり、なんだか幻のようである。荒井裕樹は以下のように述べている。(このnoteは今から引用する本の影響をだいぶ受けてます笑)

「この社会には障害者差別が存在している」という言い方に対して、真正面から反対する人は、おそらく多くはいないと思います。しかし、この「社会」という言葉は「大きな主語」の代表格のようなもので、「マジョリティ」はともすると、自分自身が障害者差別を残存させている社会の一員であることを忘れてしまいます。(「障害者差別を問い直す」ちくま新書 2020) 

幻のような社会のままでは何も変わらない気もするし、むしろ社会は幻なのかもしれないとも思う。
しかし、これは本当に自戒を込めてだ。このようなことを考えたのも色々と指摘してくれる人がいたからこそということがある。自分もまた、「わたし」がいない「社会」を語っている。

「社会に責任がある」という帰結は本当に良いのか?
相模原の事件で繰り返し言われた「社会の責任」も、やはり同じようにふわふわしているように感じる。だからこそ「社会の責任」という落とし所で本当に良かったのかと疑問にも思うのだ。「責任」が帰属すべき具体的な「主体」はきちんと解明されきったのだろうか。社会構造はミクロ、メゾ、マクロ(こんなにきれいに考えられはしないが。)とあるはずなのに、マクロばかりが語られている気がしてならないのだ。
今回の事件には様々な要因が絡んでいたはずである。措置入院の在り方、福祉施設の在り方、福祉労働者の深刻な現状など、「内なる優生思想」を取り上げる前に議論することがたくさんあるのではないだろうか。そして、「命の選別」が1番の問題になったこの事件は、2ヶ月という非常に短い時間で「死刑」という「命の選別」をする形で終わった。司法の役割で無いのかもしれないが、もっと彼の「殺意」がどのように構築されてきたのかを見ることができなかったのか。そのプロセスの中で、様々な「責任の主体」が見えてくるはずだったと言うのは言い過ぎなのだろうか。結局、「優生思想」を覆していくために何と闘えばいいのか分からない終わり方である。

「生きる意味」について

「優生思想」に話を戻そう。「障害者(犯人は「心失者」という意思疎通の図れない人を想定しているが)には生きる意味がない」ということについて考えたい。(難しく考えることに疲れてきたので少しラフに書いていこうと思います…。)

誰にとっての「生きる意味」なのか?
「障害者に生きる意味は無い」という考えに対してよく見るのは、「障害者をケアすることで自分が応援されている気になる」や、「障害者と関わることで気づきがある」といった言葉である。それはとても大事な視点なのかもしれないが、これは全て周りの人にとっての「生きる意味」である。「生きる意味」とは誰かに見出してもらわなきゃいけないものなのか。周りに認められなければ生きていてはいけないのだろうか。このnoteでも紹介した、水田議員の「LGBTに生産性は無い」という発言に対して、反論したサイトがある。(『LGBTには生産性がない』? JobRainbowが改めて解説」)ここでは「生産性が無いとは言えない」と事実ベースの反論をしつつも、「生産性があるかないか」の議論は結果的に選別に繋がるとこの問い自体を批判している。これと同じことが言えるのではないだろうか。また、周りがどんなに「生きる意味」を見出そうとも、本人が「生きる意味」を感じていなければそれこそなんの意味もないはずである。

そもそも「生きる意味」の答えなんて存在しない
「障害者に生きる意味があるのかと言われると答えに詰まってしまう。」なんて文章を目にするが、そんなの当たり前ではないかと思ってしまう。障害のあるなしに関わらず、全人間において「生きる意味」があるかどうかなんて問いはそう簡単に答えられないもののはずである。「霜島に生きてる意味はある?」と聞かれても、きっと「うーん」と考えた後に「うるせえ!」と言ってしまいそうなところである。「なんでお前に生きてる理由を言わなあかんねん!このすっとこどっこい!」位の勢いで心の中で中指を突き立てるかもしれない。(言い過ぎ)でも、本当にそうだと思うのだ。またもや同じ本から長々と引用させてほしい。この事件に対してずっと思っていたもやもやに「これだ!」ときちんと形をくれた言葉たちだからこそ最後に紹介したい。

そもそも「人が生きる意味」について、軽々に議論などできません。障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできないと思います。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡略な言葉でまとめられるような、浅薄なものではないからです。私は「自分が生きる意味」について、心のなかで思い悩んだり、大切な人と語り合ったりすることはあります。自分の生きがいについて、誰かに知ってほしくて、その思いを発信することもあります。しかし、私が「生きる意味」について、第三者から説明を求められる筋合いはありません。また、社会に対して、それを論証しなければならない義務も負っていません。もしも私が第三者から「生きる意味」についての説明を求められ、それに対して説得力のある説明が展開できなかった場合、私には「生きる意味」がないことになるのでしょうか。だとしたら、それはあまりにも理不尽な暴力だとしか言えません。(荒井和樹「障害者差別を問い直す」ちくま新書 2020)

さいごに

こんな拙い文章を最後まで読んでくれて本当にありがとうございます。感謝感激が止まりません。はい。結局なにが言いたいのやら…
そういえばなのですが、自分が「福祉」という業界に携わりたいと思う大きな理由の1つとして、「生産性」や「効率性」から1番遠いところにあるからというのがあります。もちろん、より良い支援のためにそれらが大事になることは前提です。ですが、そういったものが全く意味をなさない時であったり、どうでもよくなったりすることが山ほどあるのだろうと自分はワクワクしてしまいます。すごく難しそうでかっこいいことを書いている実践論文も、ちょっと紐解いてみればどうでもいい人間関係のトラブルを描いていたり、そんなこんなの積み重ねが現場な気がしています。(と言ったら色んな人に怒られると思いますが笑)
目の前のことだけを見ているのは、時に社会構造の中でつくられる「障害」やその「自己責任化」を肯定しまうことになります。それでも、目の前で創られ、彩られていく「生活」や「日常」を楽しみたいなあと思います。

〈引用、参考文献〉
・荒井和樹「障害者差別を問い直す」ちくま新書 2020
・月刊『創』編集部「開けられたパンドラの箱」創出版 2018
・「差別と平成」(https://youtu.be/85bsMQabEX4 2020/5/2アクセス)
・「脳性マヒ者団体『青い芝の会』が主張した、障害者の自己」(https://cakes.mu/posts/22513 2020/5/2アクセス)
・『LGBTには生産性がない』? JobRainbowが改めて解説」(https://jobrainbow.jp/magazine/productivity 2020/5/4アクセス)
・「19のいのち-障害者殺傷事件-」(https://www.nhk.or.jp/d-navi/19inochi/ 2020/5/2アクセス)
・「植松聖が死刑確定。相模原障害者施設殺傷事件の全貌とやまゆり園で起きた現代の問題に迫る。」(https://business-career.jp/articles/62HMRavtkhhlV2P1F29I 2020/5/2アクセス)








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