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午前九時のインパンクチュアリ

 青い空には雲がまばらに浮かんでいて、それがこの広大な空間に唯一遠近感を与えていた。それは風もない日で、砂浜に出したデッキチェアに座ってただなだらかな波を繰り返す海の様子を眺める、沖には嘗ての街を思わせる文明の名残り、建物の頭部がひょっこりと覗いている。片手には瓶ビール、もう片手にはよれた文庫本を持って、小さなトランク型のポータブルレコードプレイヤーがギル・スコット・ヘロンを鳴らし、プチプチとなる軽いノイズが波の音に溶けて、ジャケットのトロンプ・ルイユで描かれたゴリラが陽に照らされる。こんな時代にあっても人々は海水浴に来るもので、人数は多くはないが、家族連れ、恋人同士、或いはスーツに身を包んだ一人の男性など、様々な人が様々な理由でこの海を訪れていた。

 この夜の九時半を過ぎた頃のゆっくりと流れる時間を味わうようにビールを傾ける。黄金色の液体が喉を通って、一日の疲れを洗うようだ。私は小さくおくびを吐いて、本のページをめくる。自由で開放された時間。朝九時の国の夜九時半。太陽の光が斜めに肩を寄せ合う恋人の影を短く伸ばして、砂浜にラクダの背中のようだった。

 J.G.バラードの『永遠の一日』という短編を知っているだろうか。自転が止まった世界で地磁気の消失などもなく、まだ人類が滅びることもなく存続していたとしたら。太陽の位置は変わることなく、季節も時間も固定される。「七時のコロンビーヌはいつも夕暮れだった」それに倣えば、ここ九時の横浜はいつだって夏の朝の光が降り注いでいる。つまり私の住む世界というのはそういうもので、いつこの浜辺を訪れようとも、朝の爽やかな陽光が大地を照らし、人々に眠りのない日々を与えていた。日が沈むことも、日が昇ることももうなく、世界は静止し、青と白の空が我々の頭上を覆って、鳥たちは昼も夜もなく飛び続けていた。

「あ、本当にこんなところで一人で黄昏れてるんだねえ」
「あれ、井上か。仕事は終わったろう、なんだってまだいるんだ?」
「たまにはね、海寄ってみようかなって。私のビールある?」
「そこのクーラーボックスから勝手に取るといいさ」

 井上はビールを一本取り出すと、クーラーボックスを閉じてその上に腰掛けた。私は文庫本を閉じ、ポケットからソムリエナイフを取り出して彼女に放り投げる。柔らかい弧を描いてそれは彼女の手の中に吸い込まれ、きれいなグラデーションに塗られたネイルが陽の光を浴びて、細く長い指が閉じる動作を際立たせた。

「夜ってどんな感じなんだろうね」栓を抜いてソムリエナイフを返してよこす。
「さあな、俺は海外に行ったことがないから」

 とりとめもない会話だ。天気の話をするくらいに無意味で、誰もがたいして面白くもない返答をするような、そして面白み自体を求めていないような、距離感を探るような会話。

「久野さんって仕事終わるとすぐ帰っちゃうんだもん、なかなか仲良くなれる機会なくて。明日は私も久野さんも休みでしょ、だから思い切ってここに来てみたの」
「なんだってここがわかったんだ?」
「みんな知ってるよ、仕事が終わるとここで一杯やってるの。優雅だよね~、って話してる」

 私はばつが悪いような気分で頭を掻いた。何か言わなきゃならないような、でもどの言い分も大した意味を持たないと自覚したとき、思考の動きに反して手持ち無沙汰となった体は、自然と無意味な仕草で間を保たせようとするものだと知った。兎角、井上はどうやら私に興味を持って、ここにわざわざ来たのだと言うし、私もそういう意志を邪険にするほどこだわりの強い人間ではないから、機嫌を損ねない程度に歓迎をすることにした。私は二本目を空けて、三本目に手を伸ばす、井上が腰を浮かせて中から瓶を取り出すと、新幹線パーサーのように少し大げさにうやうやしく手渡す。

「いい風景ね。沈んだ都市の下では未だに街頭が光るって言うけれど本当かな」
「暗くならないと点かないんじゃないのか」
「時間制らしいから、もうこの海の下では点いてるんじゃないかな」
「そうなのか、でもこう明るいんじゃわからないな」
「海の深いところでは、きっときれいだと思うな」

 太陽の光が薄れゆく仄暗い海底に道路や歩道が続いていて、それに沿って明かりが灯っている様子を想像した。暗さというものは貴重で、冷たく、優しい。そこに光が灯っているなんて無粋なようにも思えるが、景色としては悪くないもののように思えた。井上がタバコを吸うと、白い煙とともにクローブの焼けるような甘い香りが漂って程なくかき消えた。彼女は私からの視線に気付き、暖かく育てられたのがわかるような邪気のない明るい笑顔を送る。ワンレンロングで毛先にパーマを当てた金色に染められた髪の毛がいっときふと吹いた風に小さく揺れて、珠のれんが鳴るようで涼しげだった。

「久野さんがワゴン運転するとき、音楽流すでしょう、あれがさ、結構好きで、私こっそりShazamとか使って調べてあとで聴いたりしてんだあ」
「そんなことしなくても聞いてくれれば教えたのに」
「嘘、そんな空気じゃないもん、私に対してだけなんだか避けているみたいな態度を取ってるし」
「それは、その、悪かったよ」
「まあ、気持ちはわかるけどね、でもパパもそんなに過保護なわけじゃないし、気にしなくったっていいのに」

 井上は私が所属するマーダー・インクのパクリみたいな組織の幹部の一人の娘で、私の担当する運搬清掃チームの一員として働いている。要するに私の後輩なのだけれど、その立場上非常に扱いの困る女で、私は出世欲もあまりなく当たり障りのない毎日を崩したくはなく、上に変に目をつけられても嫌だから、事務的なやり取りを除けば今日まで殆どまともに会話をしたこともなかった。

 井上は明るくていい子だった。私達は音楽の話を皮切りに、趣味や嗜好の話題をなめらかな斜面を並んで滑って行くように打ち解けていった。それは似たような好みであるだけでなく、視線の向く先や、その情報をたどる糸の振動の仕方の違いが興味深く、楽しかった。私は友人というものはいたが、学校や職場を通じて仲良くなったというだけで、環境に依存した交友関係となっていて、決して趣味が合っているわけではなかったので、こういうやりとりは新鮮だった。

 私達は酒の効果もあってか、時間が経つのを忘れて話し込んでしまった。気づけば夜中の一時を過ぎている。太陽は憎らしいほど煌々と照っており、時間に縛られる我々を嗤っているようにも見えた。

「電車ないんで、久野さんち行ってもいい?」
「それは……」

 断ることができたろうか、楽しい会話に陶然とした互いの顔を見合わせてここでお開きなんて味気がない。電車ももう終電が走り去ってから時間が経ち、私は酒が入って運転ができなかったし、このまま井上を海に置き去りにするよりも家に上げて歓迎するほうがずっと間違いがないような気がしたのだ。そして私達はシャワーを浴びてベッドに入った。それが一番自然なことに思われたからだ。

 遮光カーテンのおかげで部屋は真っ暗で、目の前の井上の顔も良くは見えない。けれども笑っているのは気配でわかった。そう、彼女は笑って、私の髪を撫でた。

「暗闇ってなんだか良いよね、色んな秘密が隠されていそうで」
「これもその一つかい?」
「私達のお腹や胸の肌の色は私達しか知らないのって、なんだか良いでしょう」
「そうだな」
「私、ヨーロッパに行ってみたいわ、夜に閉ざされた国々、そこにはきっとたくさんの秘密があって、人々の生活の中に溶け込んでいる。誰もが秘密を抱えて、宝石箱にしまうように大事にしている」
「ここにだって秘密はあるだろう」
「ダメダメ、お天道様がずっと見ていて、それがいつだって始まりを兆しているようで、なんだか癪に障るわ。月が見たい。冷たくて青白い月。星空」
「どれも写真でしか見たことがないな。俺みたいな給料じゃあ海外旅行なんて夢のまた夢だ」
「ヨーロッパが地続きだったら車でずっと進んでいくのにねえ」
「そうなったら運転は交代制だな」

 それからは仕事が少し楽しくなった。仕事場では運搬する班と室内の清掃の班に分かれるのだが、私は運転が好きだったから運搬を請け負うことが多かった。実際は現場が荒れていなければ、清掃がむしろ楽な方ではあったが、好きな曲を流しながらドライブするのは気楽だった。井上もまた好んで運搬を選んだ。私達は自然に仕事でも一緒に行動することが増えて、その関係は半ば公のものになっていた。井上が言うように私が懸念したような面倒事にはならず、父親は沈黙を保っており、確かに放任主義のようであった。

「二人がそういう関係になってるとはねえ、久野なんて井上ちゃんを避けてる感じもあったのに、世の中何があるかわからねえもんだな」
「自分でも意外だったよ」
「私は前から久野さんのこと良いって思ってたんだよぉ」
「井上ちゃんに好かれるなんて羨ましいねえ、お父さんがおっかねえけどな」
「みんなパパのこと言うのね。嫌になっちゃうわ」

 今日の仕事は私を含めて五人。移動中の車の中は和気あいあいとしている。タバコの煙が小さく開けた窓から糸を引くように逃げていく、その隙間からセミの鳴き声が入り込む。運転席と助手席以外はぶち抜きになった広い空間に、各々が自由に足を組んだり寝転んだりして会話を楽しんでいた。エアコンの効いた車内で誰もがリラックスしていた。仕事は日常に組み込まれ、感受性を麻痺させる。それは例え殺人現場が相手であっても、人は慣れていくものなのだ。

 現場に着くと血糊がそこかしこに散っているのを除けば調度品はきれいなもので、担当者はスマートに仕事をこなしたことが伺われた。連絡があったとおり死体が四つ、私達は遺体袋に手早く詰めていく。すると死体の一つがうめき声をあげて這いずり始めた。整然とした現場に感心した途端これである、担当者の詰めの甘さに我々は互いの様子を伺って困った顔をしていると、井上が腰から拳銃を取り出し這いずる男の頭に二発、素早く撃ち込んだ。思わず我々が目を合わせてパチクリしていると、井上は両手をパッと広げて、まるで手品で拳銃を隠したあとのマジシャンのようにおどけて、「さあ、サッサと終わらせましょう」と明るく言った。

 今回も私と井上で搬送することになった。組織指定の遺体処理所に向かって荷物を放り投げるだけで終わる、少し距離はあるが簡単な仕事だ。私が運転を担当して、井上は助手席でモバイル端末をいじっている。先程の行動に多少驚かされた私は、なんと言ったら良いのかわからず、きまりの悪い沈黙を続けていた。

「音楽、止まってるよお」井上はモバイル端末をポケットにしまい、ダッシュボードに寄りかかって覗き込むように私を見た。私は運転していることを理由に目を合わせることなく「ああ、すまない」と言うと、プレイリストから適当に選んだアルバムを再生する。

「この曲、初めて一緒に海岸でお酒を飲んだときに聴いてたやつだねえ」
「そうだったかな」
「そうだよお。人生はなりたい自分になるために作られたんだ!And it's your world~、いい歌詞」
「ギル・スコット・ヘロンは詩人だからな」
「詩人ってさぁ、やっぱそうね、私もなりたいな詩人。夜の国に行きたい、連れて行ってよ。この車でさ、このまま一緒に」
「無茶言うなよ、死体と逃避行か?」
「死体はいつもどおり捨てるとしてさ、星が見たいんだよね」
「俺はおまえ、びっくりしたんだよ、銃なんて取り出して」
「ああ、ね、私はパパんところの殺し屋になるつもりで、そのための勉強をしてたんだけどね、ダメだって言われて、結局この部署にあてがわれたのよ。でね、不思議なんだけど、ずっと震えが止まらなくて。人を殺したの初めてだったのよ、今日が」

 私はハンドルを握りながら目を井上の方に向けた。彼女はダッシュボードにうつ伏せになってこちらを見ている、明るく湿り気のない笑顔だが、その少し日に焼けた健康的な細い腕は、確かにかすかに震えていて、私は何かを言わなくてはならないのにまた声が出ずにいた。死体を見ることと、死体を作ることはやはり別なことで、私自身もやはりどこかショックを受けていたようで、あの情景が胸の裡に未消化のまま蟠っているのを感じるのである。

「その、いい仕事をしたと思うよ」口をついて出たのが愚にもつかない言葉で、私は自分の気の利かなさを呪った。そんな様子に気付いたのか井上は嫌な顔もせずにクスリと笑って、右手で正面を指差して言った。「このまま夜の国に行こう」

 遺体袋を処理してから私達はとにかく車を西へと走らせた。太陽から逃げるように少しでも時間を遡って進む。だが太陽は依然として輝いていて、日差しは暑く、エアコンがついているはずなのに、私はじっとりと汗をかいていた。日本が島国じゃなければ良かったのに、そしたら私達はもっと自由に好きな時間に居を構えることができただろう。だが私も井上も好きな時間などなかった。朝の九時、これだけが我々に与えられた時間で、このうんざりするような始まりの時間帯には、もはや新しいものはなく、古い世界が海の底で静かに眠り、地上は緩やかにしかし眠ることなく活動を続けている。私達は二十四時間という仮の時間の上に生活を敷いて、自転停止以前の世界と地続きの、けれど止まった時間で生きている。

 二時間ごとに交代で運転をして、六時間ちょっとかかって福井県の端まで来た。眼前に広がる若狭湾を前に車は走ることを止めて、私達の西への旅はすぐに終わってしまった。太陽の位置は変わっているようには見えない。井上は海をただ無表情に眺めていて、そこには失望が隠れているのが私にはわかった。ギル・スコット・ヘロンが歌う。「それはあなたの世界、でも寂しい思いをする必要はない 、あなたの世界では、あなたは本当に自由だ」。私はアクセルを踏んで、海岸を海に向かって走らせる。砂が舞って、光を受けて煌めく。西側の海はやはり穏やかで、波が小さく寄せては返していた。車は勢いをつけて海へ向かう。

 だが井上はシートベルトを外すと、私に覆いかぶさるように抱きつき、後ろ足にブレーキを踏んだ。車はその体を少し引きずるようにして停車し、波がフロントに当たって砕けている。井上は背中をハンドルで打って痛みに耐えるような表情をしていたが、心配そうにしている私の顔を見ると白い歯を見せて笑い、額に口づける、湿った可愛らしい音をさせてすぐに離れると、車から降りて伸びをした。私も続いて車を降りるが、井上は背中を向けたまま海を眺めていた。

「俺、金貯めるよ。そしたら一緒にヨーロッパに行こう」

 我ながら萎びたセリフだと思った。井上は腰から拳銃を掴んで海に放り投げると振り返って言った。

「夜の国に行って、秘密をいっぱい作ろう」
「ああ」
「体中に布を纏ってさ、ホットワインを飲む」
「いいね」
「帰ろっか、冬も夜もそれまでお預けね」

 車に戻って、背もたれを倒す。井上の服を脱がせると、太陽が彼女のみずみずしい肌を明るく照らした。

【完】
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お題:夏

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