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鼓動

 高校三年生の時分、花布芙蓉は実に不真面目な生徒で、新しく買ったCDをのんびり聴きたいからという理由から、授業中の中庭で日差しを避けて音楽を聴いていた。池にはまばらに咲いた睡蓮の隙間を縫う鯉が水皺を立てて涼しげで、風はなくしんと凪いでおり、日陰の石の冷たさとカンカンと照る陽の光のコントラストが世界を半分に分けるようである。するとふと濃い影が一つ差す。それがするりと降りていくと、池にざぶんと波がたった。飛沫が陽光を反射しながら空気を震わせて、芙蓉の頬を濡らした。びっくりしてヘッドホンを外すと、からからと糸巻きを鳴らすような軽々とした笑い声を立てる少女が、栗色の髪を顔に貼り付けて池の中ずぶ濡れになったまま、日に照らされている。

 佑未子は何でも思い付きで行動するような、まるで反射で生きていると言ったふうな少女だった。学年は二年生で芙蓉のひとつ年下だったが、あまり上下関係に頓着しないたちで、芙蓉のことは先輩と呼ぶものの敬語は使わない。これもまた不真面目な学生で、好き勝手振る舞っては人を困惑させた。しかし明るい髪色と快活な性格に反して肌は青白く、まるで死人のようであった。

「私は心臓が止まっているの」と池の石組の上でバランスを取りながら佑未子は言った。
「それはどういう意味なの」
「そのまんまの意味」

 佑未子は一足飛びに芙蓉のそばまで寄ると、彼女の手を握って自分の首筋へと導いた。冬のようなひんやりとした皮膚の感触を指先で感じながら、芙蓉は何か得も言われぬ違和感を覚えた。間近にある佑未子の顔に少しどぎまぎしつつ暫しそうしていると、次第にその正体に行き当たったようである、脈がないのだ。芙蓉はぎょっとして佑未子の顔を見ると、小さくしかし悲しみなど感じさせない笑顔を浮かべた。

「中学三年生のある朝、起きたら私は心臓が止まっていて、両親はびっくりして医者に診せたんだけれど、医者も医者で驚いて、こんな事例は見たことがないって言ったの。血は流れず、呼吸は不要になった、代謝は止まって食事も排便も必要がない。どうやらこれで生きているのは殆ど奇跡だそうで、いつ死んでもおかしくないって。突然、歩いていたらウッてなって死んじゃうかも知れない。そういうふうな体になった」
「怖くはないの」
「怖いけど、心臓の動いている人でも不意に事故にあって車に轢かれたら死んじゃうし、同じようなものかなって」

 佑未子の表情には裡がなく、死人のような顔色には似合わない明るい笑顔が輝いていた。その結論、その納得は、恐らく彼女の懊悩の途中下車であり、まだその先があるはずのものであったが、彼女はその途中で降りた駅が気に入っているふうで、その風景が自分を傷付けないものであることを覚えてしまった。そのことに芙蓉は気付いていたが、それを言及して何になるだろうか、より深く自分の立場を考えるべきだと言えただろうか、心臓の鼓動を抑えられない自分に。そう思って黙した。

 ともかく、そんな奇抜な出会い以来、二人は急速に仲良くなっていった。学校帰りに買い食いをしたり、神社の骨董市で用途のわからない茶具を買ったりした。授業を抜け出してレコード屋に行ったり、自分の感情を言語化する方法も教えてくれない国語の授業をよそに、屋上へ登って互いに好きな人はいるかなんて話をした。芙蓉のそれは恐らく幼い反抗精神から齎されたものであったが、佑未子はそういうものを持ち合わせていなかった、彼女は単に自分がドキドキするものを探しているだけというフシがあった。心が踊るようなことや緊張感の生まれる状況、或いは危険なことを好んだ。最初の日、彼女が二階の窓から中庭の池に向かって飛び降りたのも、そんな現れだったろうか。

 佑未子は意識してか知らずか、心臓の鼓動というものを希求していたに違いなく、その行動原理のどれもが、心臓を揺さぶるようなことへの憧憬に彩られている。それらの行動が如何にも邪気なく真っ直ぐに行われるので、理由やその内容はどうあれ、その姿は芙蓉にとって眩しく見えた。佑未子と一緒に行動するのは面白かった、どんな場所へも物怖じせず行く行動力に乗っかって、芙蓉は自分の体が軽くなったように思った。それは例えばちょっと入りづらいような洋服のお店であったり、立入禁止の廃工場であったり、学校では禁止されているクラブへ遊びに行ったり、どれもささやかなことだがそれでも芙蓉は佑未子が隣にいると自分一人では決して行こうと思わなかった場所へ行くことができるようで、何にも囚われることなく自由な気がしたのだ。

 休日は二人でよく原宿へ行った。キディランドでおもちゃを見たら、キャットストリートを下って行き、途中でたこ焼きなんか食べたりして、渋谷のタワーレコードまで行くのがいつものコースだった。佑未子は背が高いから、色々な服が似合うのだろうと芙蓉は思った。人混みの多い通りは手を繋いだ。その手は柔らかく、ひんやりとしていて好きだった。渋谷に着く頃には日は傾いていて、斜日の光が行き交う人の影を濃くしていた。佑未子の顔は橙色に照らされて芙蓉はふと彼女が生きていることを、その生命を確かに感じたようだった。

「佑未子は」学校の屋上でアイスを食べながら芙蓉が言う。
「なにぃ」
「凄いよね、何でもスグに行動へ移せて」
「私はさぁ、今まで本当にぼうっとしているだけでさ、何もしてこなかったんだよねぇ」

 学生の午前中は長く、授業中の静かな時間はいっそうゆっくりと流れていた。陽の光をいっぱいに浴びるように佑未子は大の字になって寝転んでいたが、芙蓉は扇子を仰ぎながら給水タンクでできた小さな日陰で涼んでいる。溶けたアイスがコンクリートの上に滴って、甘い染みを作った。佑未子はうつ伏せに匍うようにしてその染みを舐めようと舌を伸ばすと、芙蓉が「ばか」と言って彼女の頭の上に顎を乗せた。佑未子はなんだか嬉しくて笑った。

「私の人生は今ロスタイムみたいなものだから、本当に動かなくなる日までを普通に生きて行ければいいかなって思ってたんだけど、あの日移動教室で廊下を歩いているとき、中庭で授業をサボって堂々と音楽聴いてる先輩を見て、そんなのもアリなんだって思ったら、何か自分でも驚くようなことがしたいと思って、それで池に飛び込んだんだ」
「短絡的」
「そう、そしたら楽しかった。だから思いついたことは何でもすることにしたの。先輩のせい」
「私が佑未子を悪い子にしたみたいじゃない」
「そうだよ。でも悪い子の何処が悪いんだろう、私の心臓が動いていたらきっと今もどきどきしているわ。それ以上に重要なことってあるのかな」
「あるでしょう、そんな単純じゃあないよ」
「そうかぁ、私には複雑なことはわからないや、血の通わない私の頭じゃあ」

 芙蓉はその単純さを美しいと思っていた。世の中には人と関わる為にこもごもの細かいルールや駆け引きが存在しており、それらに桎梏するのは複雑で狭い配管を匍うようで息苦しく感じた。単純さはそれらに向かい合うには心許ない先延ばしでしかなかったが、晦冥に散る火花のように残像を残して心に焼き付くものである。芙蓉が両手で佑未子の頬を挟むと彼女の髪の毛にアイスが触れてぽとりと落ちた。甘い汁が佑未子の明るい髪を伝ってゆっくりと滑っていく。

「かわいいなぁ佑未子は」

 佑未子は芙蓉の手からするりと抜け出ると、屋上を大げさに手を振りながら歩く。

「生きてることが信じられないんだよね。先輩と出会ってからは毎日が楽しくて、それが一層私の人生の実感を薄くしているというか」
「楽しい時間が続くと夢見心地でふわふわするよね」
「と言うよりは」

 佑未子はフェンスに手を掛けたかと思うと、するすると登って行く。

「ちょっと何してんの、危ないよ」

 フェンスの頂上にたどり着くと、両手をゆっくりと離して、まるで綱渡りをする人のようにフラフラと立ち上がって両腕を広げた。

「何やってんのよ」と芙蓉は青くなって叫んだが、佑未子は構わず小刻みに揺れながらバランスを取っている。そしてゆっくりと右足を前に出し、それがしっかりと柵の上に置かれたのを確認すると、今度は左足を慎重に進めた。

「私は本当は実感したいんだ、生きているってことを、みんなと同じように感動したりして、ただの動く死体じゃないんだって証明したい」
「早く降りて来てよ」
「私だってみんなと同じようにドキドキしたいんだぁ」

 そのとき、前に出そうとした右足が、左足の踵に引っかかって、佑未子はバランスを崩した。左右の腕が羽のように大きく揺れて、膝が折れる。校庭へ向けて体が傾いていく。佑未子はその状況を冷静に見ていた。芙蓉が全力で駆け寄って飛び上がると、佑未子のスカートとブラウスの袖を荒々しく掴んでフェンスを蹴り、力一杯に引っ張った。芙蓉の腕だか佑未子の服だかがみしみしと音を立てる。佑未子が覆い被さるように二人は屋上にドタリと倒れ込んだ。

「ざっけんなぁ」と芙蓉が声を抑えながらも強い口調で言う。

 荒い呼吸が鳴り響いて、佑未子の胸には早鐘のような心臓の鼓動が感ぜられた。肌が熱く、自分の肌が湿っているような気がした。佑未子は自分が生命を取り戻したと思った。ぐったりして息を切らしている芙蓉から身を剥がして上半身を起き上がらせると、その鼓動は遠のいていく。それは自分の鼓動ではなく、互いの薄い肉と皮膚を隔てた芙蓉のものだった。佑未子は寂しそうに微笑むと、芙蓉の胸に耳を当てて心臓の音を聴いた。

「早いね」
「あんたのせいよ」
「私のじゃあなかったんだぁ」
「あんたの分も含めて二倍動かしてるんだから同じようなもんでしょ」

 すると佑未子の目には涙が溜まって一筋こぼれ落ちた。

「あ、涙でた」
「こっちが泣きたいよ」
「いやぁ、嬉しいなぁ、嬉しいなぁ」

 芙蓉はため息を一つつくと、佑未子の頭を優しく撫でた。日に照らされた髪の毛は温かくいい匂いがした。

「袖、破れちゃった」
「命と比べりゃ安いもんでしょ。あんたは生きてるんだから」

 二人の交友関係は高校を卒業しても続いた。あれからというもの、佑未子は無茶なことをしなくはなっていたが、思い付きで行動するのは元々の性分だったようで、大学を卒業したらあっさり結婚をしたし、その新婚旅行では目的地のスペインに着いて間もなく、やっぱり砂漠が見たいなどと言い出して、滞在三時間程度でモロッコへ行ったようである。振り回される方としてはたまったものではないが、芙蓉にとってそういう面も含めて佑未子はかわいかった。

 社会人になってから、芙蓉は自分が生きていることを彼女ほど強く意識したことがあったろうかとふと考えることがある。感動や変化を全身を使って浴びようとする彼女の単純さは、人々や社会の様々なストレスに揉まれる芙蓉にとって、人間の純真さを肯定する一筋の光のように見えた。彼女は笑っていて、酩酊した目で世の中を眺めなくても生きていられる人があることを信じさせてくれた。

 芙蓉は仕事を終えて家に戻ってくると、冷蔵庫からビールを出して飲んだ。水槽でベタが泳いで水皺を立てた。

「結婚かぁ、いいなあ、私もドキドキしたいもんだね」

【完】
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お題:心臓

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