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次世代のユーザーエージェントと情報とデータ、そしてデザイン

AIの進化の凄さがもはやよくわからないまま半年ほど経っている。よくわからないというのは、良いことなのか悪いことなのか、何を考えてもいろんな側面がありすぎて考えがまとまらないからだ。それでもポジティブな見方をすると、人間の不得意な分野を補う部分はあって、それはとても喜ばしいと言える。少なくとも自分の携わっているアクセシビリティという分野において、支援技術(アシスティブテクノロジー)としてのポテンシャルは凄まじい。僕にはそう見えている。

ユーザーエージェントという言葉がある。ウェブ技術者ならご存知のとおり、ウェブブラウザだ。インターネットとユーザーの2つの間に立つ代理人・仲介者(エージェント)という意味で、とても擬人化的な表現だと改めて思う。

ACT-1というAIを活用したプロダクトがある。プロンプトをAIが解析し、その内容からウェブブラウザを操作して検索などを行なってくれる。検索だけではなく、フォームの送信や、その他ユーザーが行いたい一連の操作を肩代わりしてくれる。つまり、ユーザーとウェブブラウザの間に立つもうひとつのエージェントだと言える。そして、ユーザーの立場に立つと、ユーザーエージェントはそのAIであり、ウェブブラウザ自体はその間にある「何か」になり直接的なインターフェイスとしての役割が減っていく。

次世代ユーザーエージェントの仮説

ACT-1はあくまで操作自体の代理をして、知覚的にはブラウザを介す(たとえばブラウザの表示を視覚的に見るだったり、ブラウザのテキストを読み上げて聴覚的に聞くだったり――)のであれば、ブラウザはまだまだインターフェイスとなり得る。しかし、ブラウザの「情報」を一切ユーザーに提供せずに、AIが独自にブラウザから「データ」を抽出し、独自に加工してユーザーに新たな「情報」を提供するプロダクトも今後現れてくるだろう(し、既に現れている)。ユーザーエージェントというものがブラウザではなくAIのそれに完全に置き換わる構図になる。

この話はとても極端かもしれないけれど、ユーザーにとってはとても魅力的な側面があると言っていい。ブラウザを立ち上げてどこかのサイトにわざわざ訪れる必要もなく、自分の置かれている状況やバイタルやスケジュールや嗜好を知っているAIが適切に「データ」を加工して最適な「情報」を提供する。サイト側から一方的に見せつけられる広告やレコメンドではなく、「やっぱ、俺のこと一番わかってんなぁ」と褒めたくなる一流のコンシェルジュのようなユーザーエージェントがそこに現れるからだ。そしてその提供は必要に応じて適切な加工がされるので、およそそのユーザーにとって究極にアクセシブルな情報になるだろう。

必要なのはデータなのか情報なのか

情報設計という分野における「データ」と「情報」をざっくりと定義分けすると、「データ」は無加工の事実や数値などで、そのデータが加工されコンテキストともにユーザーに認知され意味が発生して初めて「情報」となる。

ウェブデザインもUIデザインも、データを如何にユーザーに提供するのか、つまり「データを情報にする」という行為を行なってきた。しかし、次世代のユーザーエージェントに必要なのは、果たしてデータなのか情報なのか?という問いがある。

新しいユーザーエージェントはパーソナライズされた情報を提供できる能力をもっている。そのためには必要なのは「情報」ではなく「データ」だ。情報から情報への変換もできるのかもしれないが、それは推論や統計を加えてあたかも可逆的に見せているだけであって、純粋にユーザーエージェントが情報をつくるための素材としては「データ」として存在するのが一番良い。

「ウェブサイトは必要なくなる、データベースさえあればいい」という意見は、そういった側面から見ると限りなく正しい。新しいユーザーエージェントのためのウェブサイトは、極力無加工の、そしてなるべく大量のデータを載せていたほうがユーザーのためになるように思える。

ずっと前、とあるECサイトのアクセシビリティの改善に協力した際に、こんなことを話した。商品画像の代替テキストに関してのアドバイスとして「その画像から得られる情報は、ユーザーにとっていつ何の役に立つのかわかりません。なるべく多くの情報を、代替テキストと言わず、商品のプロパティ(属性)として、スペックになるべく多く掲載したほうがよいです。たとえば、表面の素材や、肌触りや感触、硬さや柔らかさ、暖かさや冷たさ。大きさや重量はわりと掲載されていることが多いですが、そういったものも掲載されていると、視覚よりも触覚でその商品を扱うことが多い人や、購入の判断材料にしている可能性もあるからです。」と。当時はもしかしたら現実的でないアドバイスだったかもしれない。しかし、そういったデータが記載されていればいるほど、新しいユーザーエージェントの判断材料が増えて、より詳しく具体的に最適化された情報をユーザーに提供できる。これはSEO(検索エンジン最適化)のような、ひとつのデータのあり方に関する手法・考え方になるのと思っている。今まで冗長だったり無駄だと思えていたデータ、デザインの中で削ぎ落としてしまっていたデータは、それらは省くことがむしろデメリットになる。

できる人とAIのための、OOUIとデータ

AIに対する命令がプロンプトではなく、どういったインターフェイスに進化するかは想像もできないが――そのAIを必要としない人ももちろんいるだろうと思う。ただ、それはかなり優秀で、AIよりも効率的な操作ができ、判断力と応用力が高い人に限られてくる。

ここで重要視したいのは「応用」で、これを実現するためのインターフェイスはOOUI(オブジェクト指向ユーザーインターフェース)と限りなく未加工のデータだ。何かのタスクに限定される装置は応用操作を阻害する。これは次世代ユーザーエージェントにとっても同じで、パーソナライズされた操作を要求された場合に柔軟な操作ができないことはデメリットでしかない。

特定のユーザーをペルソナにして最大公約数的な最適化が求められてしまっていたUIはもはや必要なく、データとそれに対して様々な操作ができるOOUIは、次世代ユーザーエージェントにとっても親和性が高く必要なものかもしれない。OOUIを学んだ時、当時の感想としては「これはできる人のためのUIだなあ」と思ったことがあるが、そうでない人は次世代ユーザーエージェントを活用すればよい。

感情というデータを載せろ!

さて、では未来の情報を想像したとき、そんな無味乾燥なデータテーブルさえあればいいのかというと、そういうわけではなく、人の感情は忘れてはならないと思う

昨今のAIの進化で一番驚いたのは、人の感情にかなり敏感だということだ。仕組み的にはAI自体に感情など存在しないが、あたかも感情をもっているかのように振る舞えたり、ユーザーの感情をパースできる能力が備わっている。つまり、感情というデータを加工して、情報に変換できる能力を持っているということだ。

パーソナライズされた情報を提供するにしても、たとえばその商品を作り手がどんな思いで作ったのかという情報を、ユーザーが求めていることは十分に考えられる。「誰が作った」「ある苦難の乗り越えて作られた」「こういった困りごとに直面している人を助けたくて作った」「推しへ愛が溢れすぎて作ってしまった」――など、昔からそういったものに左右されてしまうのは、未来になっても人間が人間である以上変わらないことのように思う。

事実的なデータに加えて、どんな背景で、どんな思いで、誰のために、どういった展望で、そういった感情(――それはエモいポエムでもいい)をデータとして掲載する。次世代ユーザーエージェントはそれらも踏まえた上で、きっと最適な情報を提供してくれるはずだ。

「デザインをしないデザイン」もとい
「加工をしない戦略」

大部分ではないかもしれないが、こういった部分が現れることが予想される。未来のデザインのあり方を考えた時、「デザインをしないデザイン」というか「加工をしない戦略」といった判断も選択肢のひとつとしてある可能性を提案したい。

正直、加工をしないという判断は何か怖い。何かしら取り繕おうとする気持ちは働くはずだからだ。

「誰もそんなデータ、直接見てませんよ」という結果から世界が変わっていくのか、次世代UA最適化ビジネスが生まれるのか、もしくは何も起こらないのか、果たして―――。

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