二・二六事件の発生から85年目に振り返る戦前の政党政治の展開と衰亡
本日、1936(昭和11)年に陸軍のいわゆる皇道派の将校らに率いられた勢力が蜂起した二・二六事件の発生から満85年が経ちました。
二・二六事件についての研究はこれまで相当の蓄積がなされてきました。
そこで、今回は村井良太先生(駒澤大学)の著書『政党内閣制の展開と崩壊 一九二七~三六年』.(有斐閣、2014年)の記述に基づきつつ、二・二六事件に至るまでの政党政治の展開と、二・二六事件が日本の政党政治に与えた影響を概観します。
まず、戦前の日本の政党政治にたいする理解として挙げられるのは、岡義武や升味準之輔らが代表する「結果的に政党内閣が連続したのであって、元老の西園寺公望にとっては政党内閣でなくともよかった」という通説と、伊藤之雄や永井和らの「少なくとも政党内閣期における西園寺は政党内閣を望んでいた」という少数意見が存在します。
また、近年、一党のみでは政権交代は不可能であるという事実に基づき、第二党の研究の重要性も高まっています。
ところで、戦前の政党内閣制でしばしば参照される言葉は「憲政の常道」で、立憲政友会と憲政会、さらに立憲民政党による二大政党制を背景として、政権党と反対党との間で政権交代が行われることになりました。
若槻礼次郎内閣後に成立した田中義一内閣は、一般的には「陸軍出身者による内閣」と理解されるものの、実際には首相を選定する際に「憲政の常道」により反対党の総裁として首班となっていることは注目に値します。
何故なら、1920年代後半には政権党が国政を担う力を失うと反対党が組閣するというあり方が「憲政常道」として定着したことを示すからです。
また、山県有朋の後継者である田中が政党に入り組閣したことは、1920年代後半における「政党の強さ」の表れと言えます。
さらに、田中内閣を継いだ浜口雄幸内閣は、政党政治の力強さに対する女性や軍の理解がどのようなものであったかを示しています。
すなわち、市川房枝ら婦人運動家は婦人参政権問題について、政党政治の継続を前提として、より良い法案が成立するという見通しを示しています。また、軍による三月事件の場合も、政党政治が国民の支持を得ていることからクーデターを行うことを躊躇しました。
浜口の遭難後に若槻、犬養毅が政権を担当するものの、五・十五事件によって犬養内閣は退陣します。
五・十五事件後、重臣や海軍軍人といった宮中官僚が主導して斎藤実内閣が成立したことは、政党政治の瓦解の象徴と理解されることがあります。しかし、斎藤内閣は非常時の暫定政権であり、情勢が安定すれば政党が再び政権を担当するというのが、当時の認識でした。
ただし、実際には斎藤、岡田啓介と二代続けて「軍人内閣」が続き、しかも政党への政権の返還を前提とした斎藤内閣に比べ、岡田内閣では暫定政権の性格が後退していることは、二・二六事件の発生と合わせて、政党内閣への回帰そのものを不可能にしたのでした。
何より、岡田内閣を継いだ広田弘毅が「ロシアに強い」といった漠然とした理由によって首相に選定されたことは、二・二六事件によって従来の首相の選定機能そのものが変質したことを示しているのです。
<Executive Summary>
Growth and Decline of Japanese Party Politics and the 26th February Incident (Yusuke Suzumura)
The 26th February, 2021 is the 85th anniversary of the 26th February Incident occurred in 1936. In this occasion we overview growth and decline of Japanese Party Politics before and after the incident.
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