【評伝】ホワイティ・ハーゾグ氏--1970年代と1980年代の大リーグを象徴する偉大な指導者

現地時間の4月15日(月)、大リーグのセントルイス・カーディナルスなどで監督を務めたホワイティ・ハーゾグ氏が死去しました。享年92歳でした。

イリノイ州ニューアセンズ出身のハーゾグ氏はニューアセンズ高校で左投げ左打ちの選手として一塁手、投手、外野手を務め、バスケットボールでもガードを担当するなど優れた運動能力を示し、イリノイ大学やセントルイス大学が興味を示す逸材でした。

1949年に高校を卒業すると大学には進学せず、ニューヨーク・ヤンキースと契約したハーゾグ氏は、傘下のD級スーナー・ステート・リーグのマッカリスター・ロッキーズでプロ選手としての第一歩を記しました。

ヤンキースのマイナー球団を着実に上の級へと進む中で、ハーゾグ氏の明るい金髪がヤンキースに所属していたボブ・クザヴァの髪の色に似ているということで、「ホワイト・ラット」と呼ばれたクザヴァにあやかり「ホワイティ」という綽名を与えられたのでした。

当時は朝鮮戦争が続いていたため、1952年のシーズンを終えると陸軍に徴兵され工兵として軍役に服したハーゾグ氏は1955年に球界に復帰し、翌年ワシントン・セネタースで待望の大リーグ昇格を果たします。

その後、カンザスシティ・アスレティックス、ボルティモア・オリオールズ、デトロイト・タイガースと球団を遺棄したハーゾグ氏は、1963年に現役を引退します。

634試合に出場し、通算安打414、通算本塁打25、通算打点172、通算打率.257という成績で8年に及ぶ大リーグでの生活を終えたハーゾグ氏は、1965年にアスレティックスのコーチとなったことで、指導者の道を進むようになります。

翌年にはニューヨーク・メッツに移籍して監督のウェス・ウエストラムの下で三塁コーチを務め、1967年からは選手育成部長に就任するとともに、フロリダ教育リーグのメッツの監督も務め、初めて球団を指揮する経験をします。

その後6年にわたりフロリダ教育リーグを担当したハーゾグ氏の下からは、ジョン・ミルナー、ウェイン・ギャレット、アモス・オーティス、ノーラン・ライアン、ケン・シングルトンなど大リーグで活躍した選手たちが育ちました。

当時メッツの会長であったドナルド・グラントと対立していたハーゾグ氏は1972年に球団を去り、11月2日にテッド・ウィリアムズの後任としてテキサス・レンジャースの監督となります。このとき、ハーゾグ氏は40歳でした。

しかし、138試合で47勝91敗、勝率.341と成績が不振であったためハーゾグ氏はシーズン途中で解任されてしまいます。その後継者となったのは、後にハーゾグ氏とアメリカン・リーグの覇権を巡って激しく競い合うことになるビリー・マーティンでした。

翌年にカリフォルニア・エンゼルスの三塁コーチを務めたハーゾグ氏は、1975年にカンザスシティ・ロイヤルズ監督のジャック・マッキーオンが解任されたことを受けてシーズン途中でロイヤルズの監督となります。

ことのき、ロイヤルズにはジョージ・ブレット、ジョン・メイベリー、ポール・スプリットオフ、ハル・マクレー、フランク・ホワイト、フレディ・パテック、クッキー・ロハス、ダグ・バード、アモス・オーティス、デニス・レナード、ハーモン・キルブリューらがおり、ハーゾグ氏を迎えたチームは最終的にオークランド・アスレティックスに7ゲーム差を付けてアメリカン・リーグ西地区の2位となりました。

途中で球団を継いだハーゾグ氏は翌年も監督を務めると1976年から1978年まで3年連続で地区優勝を達成し、ロイヤルズを強豪球団とします。

ハーゾグ氏は優れた守備、本塁打ではなくライナー性の当たりを重視する打撃、機動力の活用、堅実な投手陣を前提として試合を進め、打ち勝つ野球ではなく確実に対戦相手よりも1点でも多く取ることを目指しました。

そのようなハーゾグ氏の試合運びは「ホワイティ・ボール」と呼ばれ、本拠地ロイヤルズ・スタジアムが球足が速く走者に有利な人工芝の球場であったことを巧みに利用したことで大きな成果を収めました。

一方で1979年に地区4連覇を逃すと、ロイヤルズを所有していたユーイング・カウフマンとの対立が表面化して解任され、セントルイス・カーディナルスの監督に迎えられます。

やはりロイヤルズ・スタジアムと同様にグラウンドに人工芝を張り、走者に有利な球場であったブッシュ・スタジアムを本拠地としたカーディナルスでも「ホワイティ・ボール」を実践したハーゾグ氏は1982年に念願のワールド・シリーズを制覇し、1985年と1987年にもナショナル・リーグを制覇します。

そして、1990年のシーズン途中で成績の低迷を理由に解任されると、1992年にエンゼルスのゼネラル・マネージャーに就任し、1994年1月に辞任するまで、選手、コーチ、監督、ゼネラル・マネージャーとして球界で45年間を過ごしたのでした。

本塁打と機動力を重視した攻撃的な野球を実践したビリー・マーティンの「ビリー・ボール」とともに1970年代から1980年代の球界を牽引したハーゾグ氏は、優れた監督であるだけでなく、球史に残る選手たちを育てた指導者でもありました。

1949年のヤンキースが指名したもう一人の選手がミッキー・マントルであったことを含め、大リーグの歴史に大きな足跡を残したのがハーゾグ氏であり、野球殿堂での顕彰をもってしてもその功績を語りつくすことはできない存在なのです。

<Executive Summary>
Critical Biography: Whitey Herzog, a Great Manager of the Baseball of the 1970th and the 1980s (Yusuke Suzumura)

Mr Whitey Herzog, a Home of Famer and fromer mangaer of the St. Louis Cardinals and other teams, had passed away at the age of 92 on 15th April 2024. On this occasion, we examine his efforts and achievements.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?