【旧稿再掲】ユニフォーム着こなし最前線(II)

2010年4月、私も寄稿者の一人として参加し実業之日本社から実用百科の一冊として『野球道具天国』が刊行されました。

その中の一報に「ユニフォーム着こなし最前線」[1]があり、野球におけるユニフォームの発展の過程と2010年時点における最新の動向を検討しました。

そこで、今回は4回の予定でご紹介する本論の草稿の第2回目をお届けします。


ネクタイ着用の新橋アスレティックス
日本における最初の本格的な野球団である新橋アスレティックス倶楽部が誕生したのは、1877年のことである。

創設者の平岡凞は5年間の米国留学を経験し、本来の目的である鉄道技術とともに、最新の野球術も修得して帰国した人物であった。

そのアスレティックス倶楽部のユニフォームは、帽子、シャツ、ズボンがいずれも白で統一され、長袖の襟付きシャツの胸元にはネクタイが締められ、ソックスは膝下まで引き上げられるというものであった。

多くの選手がふんどしに下駄で試合に臨んでおり、弊衣破帽なら上出来、という時代にあって、このユニフォームはひときわ周囲の目を引くものであった。

ただ、1890年代に入り、「質実剛健」を前面に押し立てた第一高等学校が球界の盟主となると、一高流の「蛮カラ」は野球選手たちの憧れの対象となり、多くの学校がその姿を模倣した。そのため、アスレティックス流のユニフォームが広く普及することはなく、「ユニフォームの文明開化」の扉は半開きのままだった。

早稲田大学野球部の衝撃
この傾向を一変させたのが、早稲田大学野球部だった。今も続く白地のシャツと海老茶のストッキング、そして胸元に同じく海老茶色で縫い上げられた“WASEDA”の文字、というユニフォームを導入したのだ。

1905年に日本初となる米国野球遠征を実現した早稲田大学は、球界の水準の向上に大きく寄与した。

それとともに、対戦相手の一つであったシカゴ大学のユニフォームのストッキングの色と文字の書体を手本に、それまで誰も知ることのなかった洗練されたユニフォームの形を日本にもたらしたのである。

特にユニフォームの字体は、学生野球界に君臨した早稲田大学の強さもあって勝利の象徴とまで考えられ、学生や実業団の球団も採用するほどの人気を博した。

さらに、1936年に大日本東京野球倶楽部から改称した職業野球団の東京巨人軍は、早稲田大学出身者が運営の中心にいたこともあり、ユニフォームには母校野球部と同じ書体で球団名が縫い付けられていた。

1941年に戦時統制の影響で各職業野球団の名称も漢字が用いられることになった。このとき、巨人軍はユニフォームの胸元の球団名を“GIANTS”から「巨」に変更したが字体は従来のままとしたが、軍部から苦情は寄せられなかった。

軍関係者が野球の歴史に詳しくなかったことで、「お国のために奉仕する野球戦士」の胸元に、敵国の大学の書体が残るという結果をもたらしたのである。


[1]鈴村裕輔, ユニフォーム着こなし最前線. 野球道具百科. 実業之日本社, 2010年, 82-85頁.

<Executive Summary>
The Latest Trends of Baseball Uniform (II) (Yusuke Suzumura)

I wrote an article "The Latest Trends of Baseball Uniform" for a book named Baseball Equipment Encyclopedia published in April 2010. On this occasion, I introduce the first section of the article.

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