石橋湛山の評価において「議論の先見性」はどのような意味を持つか

石橋湛山に関する研究でしばしば言及されるのが、植民地放棄論である「小日本主義」や国際協調主義、あるいは金解禁論争といった1920年代から1930年代半ばにかけての石橋の主張の先見性です。

確かに、日米開戦の原因の一つがとりわけ満州事変後の日本の領土拡張政策にあることや、日本の経済状況を考えれば、金解禁の際に旧平価ではなく新平価を採用すべきといった石橋の主張が適切と考えられるのは事実です。

一方、石橋の議論は実際の政策に反映されないばかりか、世論の支持も得なかったという点は見逃せません。

これは、一面において石橋の議論の多くが、当時の世論の形成に影響力を持っていた新聞や総合雑誌といったではなく、経済専門誌である『東洋経済新報』に掲載されていた結果です。また、他面では、石橋が世論の支持を得るだけの説得力のある議論を行えなかったことも重要です。

こうした経緯があったからこそ、戦後の日本の針路を誤らせないという理由から、石橋派1946(昭和21)年の第22回総選挙に立候補したのです。

その意味で、石橋は、言論活動によって世論を嚮導することの限界と理論を実践することの重要さを痛感していたと言えるでしょう。

以上のような状況を念頭に置くのなら、石橋の議論の先見性を強調することは、石橋が預言者である場合には意味があるとしても、言論人としては国策の是正を実現できなかったという問題を等閑視することに他なりません。

この点は私が石橋湛山の研究を始めた当初から抱いていた疑念であり、9月10日(日)付で刊行予定の新著『政治家 石橋湛山』(中央公論新社)においても言論人から政治家への転身の背景に上述のような経緯があったことを詳述しています。

現時点では少数派にとどまるこうした見方が、石橋湛山の理解の一層の促進により徐々に広まることが期待されるところです。

<Executive Summary>
What Is an Important Perspective to Understand Ishibashi Tanzan's Efforts and Achievements? (Yusuke Suzumura)

It is often said that one of important achievements of Ishibashi Tanzan is a foresitbility in his arguments in the Pre-War Period. However, such the evaluation does not have a meaning for us unless Ishibashi is a prophet.

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