国会議員は政治家としての石橋湛山から何を学ぶべきか

今年6月、超党派の議員連盟「超党派石橋湛山研究会」が発足したとのことです[1]。

日本独自の外交を切り開こうとする国会議員らの模索の中で、今年3月に立憲民主党が発足させた「石橋湛山思想研究議員連盟」を発展的に解消し、超党派に衣替えしたのが「超党派石橋湛山研究会」です。

没後50年という節目を迎えた石橋を国会議員の皆さんが真剣に研究しようとするのは好ましい態度であり、今後の研究会の動向が注目されます。

ところで、ときに「石橋湛山が65日で退陣しなければ日本の政治も変わっていた」「安保闘争のような国民の分断は起きなかった」という話を耳にします。確かに、積極財政による完全雇用の実現や国民皆保険制度の導入などを政権の主要政策に掲げた石橋だけに、少なくとも1年以上政権を維持していればどのような政策が実現されたか、興味深く思われるところです。

しかし、1956年12月の自民党総裁選挙で7票差で岸信介に勝利したことが示すように、発足当初の石橋内閣は党内のほぼ半数の反石橋派を抱えており、国民の支持の高さを背景にした総選挙を断行して政権の基盤を安定させることが不可欠なほど、絶妙な権力の均衡の上に成り立っていました。

そして、石橋であれ岸であれ、日米安全保障条約の改定は不可避でまりました。

一方、石橋は外交の評論は行っても外交の実務には通じておらず、また腹芸や根回しは不得手で石田博英が調整役を担っていました。また、就任直後から日米関係の根本的な変化はないと明言しています。

岸を外相に据えたことは、人事を内奏した際に昭和天皇が強い懸念を示し、また石橋の下で自民党幹事長となった三木武夫も強く批判したものでした。

それでも岸を副首相格の外相として入閣させたことは、一面において岸派を取り込み、他面において対米関係を基調とする日本の外交政策に変化のないことを示すための象徴的な人事でした。

従って、安保改定が問題になった際には、誰であれ外相に交渉を任せることになり、石橋自身は安保改定の必要性を国民に訴え続けたでしょう。

何より、当時の政治状況からして石橋が長期にわたり政権を保てる保証がなかったことは石橋自身が東洋経済新報社における首相就任祝賀会の中で明言しているのですから、安保改定の時期には別な人物が政権を担当している可能性が大でした。

また、少数派であった石橋派が対局を制することも困難でした。

むしろ、65日間で首相の座を退いたからこそ、石橋はその後も政界で一定の存在感と影響力を維持できたのであり、2年以上政権を担当してたら、あるいは「悪党石橋」と言われていたかもしれません。

その意味で、議員連盟に参加する国会議員の皆さんには、石橋湛山の理想主義者としての側面ではなく、むしろ政権の安定のために総裁選で2位・3位連合を組んだ石井光次郎ではなく岸を優遇し、あるいは国防力の増強を否定せず、兵器の最新鋭化のためには日本の産業力の強化こそが不可欠であり、産業力なき国防力の強化を批判した石橋の現実主義者としての側面を大いに学んでもらいたいと思います。

まさに、こうした点にこそ、先行きの不透明な時代に政治家としての石橋湛山を学ぶ意義があるのです。

[1]小原泰, 超党派「石橋湛山研究会」が発足した現代的意義. 東洋経済ONLINE, 2023年7月5日, https://toyokeizai.net/articles/-/683836 (2023年7月5日閲覧).

<Executive Summary>
Learning Ishibashi Tanzan as a Realistic Statesperson Has an Important Meaning for That of the 21st Century (Yusuke Suzumura)

A All-Party Parliamentary Group to learn efforts and achievements of Ishibashi Tazna formed in June 2023. On this occasion, we examine the meaning to learn Ishibashi as a realistic statesperson.

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