ジャイアンツのキャプラー監督が銃規制問題に抗議して国歌斉唱に参加しなかった背景

去る6月27日(月)、日刊ゲンダイの2022年6月28日号26面に連載「メジャーリーグ通信」の第118回「ジャイアンツのキャプラー監督が銃規制問題に抗議して国歌斉唱に参加しなかった背景」が掲載されました[1]。

今回はサンフランシスコ・ジャイアンツのゲーブ・キャプラー監督が当局による銃規制問題への対応を批判して国歌斉唱に参加しなかった事例を手掛かりとして、大リーグにおける選手や監督と政治・社会問題とのかかわり方を検討しています。

本文を一部加筆、修正した内容をご紹介しますので、ぜひご覧ください。


ジャイアンツのキャプラー監督が銃規制問題に抗議して国歌斉唱に参加しなかった背景
鈴村裕輔

講義の途中でも質問をするし、発言を求めると手を挙げ、話が終わればすぐに議論が始まる。米国の大学での授業や国際会議での発表などでは見慣れた光景だ。

様々な意見の中には目を見張る内容があり、理解の水準の高さを感じさせる一方で、直前に話した内容を繰り返すだけの者や議論の趣旨にそぐわない話をする者もいる。

それでも、質問を促してもうつむいたままであったり。感想と質問とが入り混じり趣旨が不明確な発言に比べれば、日米の大学や学会という限られた範囲の中でも少なからぬ差のあることが分かる。

これは、一面において「発言しなければ欠席と同じ」という考えの影響でもあろう。また、他面では相手の意見を聞き、自分で問題点を考え、伝えることを小学生の頃から実地で体験する米国と、「質問は分からないことを聞くもの」と考えがちな日本との違いと言えるかもしれない。

それとともに、報道機関が共和党と民主党のいずれを支持するかを明確に示し、それによって読者や視聴者が発信される情報の質を判断できることは、特定の勢力や主義に偏らない「不偏不党」を標榜する報道よりも信頼できると考える米国社会の特徴も見逃せない。

こうした背景を考えれば、スポーツ選手が例えば人種差別問題にについて発言し、いわゆる「ブラック・ライブズ・マター」問題に関連して国歌斉唱の際に片膝をつくといった行動をとることも不思議ではないだろう。

最近でもジャイアンツ監督のゲーブ・キャプラーが、銃規制問題が遅々として進まないことに抗議する形で試合開始前の国歌斉唱に参加しないなど、選手だけでなく指導者も社会問題に対して積極的に関わっている。

これに対し、日本においては、一部の選手が社会問題や政治的な発言をするものの、特に野球の場合には、野球に直接かかわる事柄以外で何らかの主張を行う光景は皆無に近い。

もちろん、われわれ一人ひとり主義主張は異なる。この点は、国の違いやスポーツ選手であるか否かを問わない事実である。

しかし、たとえ選手が何らかの意見を持っているとしても、自らの考えを主張することはスポーツ選手に求められる行動ではなく、選手は競技に集中すべきだとする見方が日本の社会では多数を占めている。「プロ野球選手なのによくそんな問題を知っている」や「選手はプレーだけすればいい」といった類の発言は、様々な問題への発言を嫌がるのは、選手自身ではなくわれわれ自身に他ならない。

その意味で、選手や指導者の政治的な言動の有無は、それぞれの社会のスポーツに対する見方を反映しているのである。


[1]鈴村裕輔, ジャイアンツのキャプラー監督が銃規制問題に抗議して国歌斉唱に参加しなかった背景. 日刊ゲンダイ, 2022年6月28日号26面.

<Executive Summary>
The Reason Why Mr. Gabe Kapler Did Not Sing the US National Anthem (Yusuke Suzumura)

My article titled "The Reason Why Mr. Gabe Kapler Did Not Sing the US National Anthem" was run at The Nikkan Gendai on 27th June 2022. Today I introduce the article to the readers of this weblog.

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