75年目に改めて考えるジャッキー・ロビンソンが「人種の壁」を乗り越えた意味

本日、1947年4月15日にジャッキー・ロビンソン選手がブルックリン・ドジャースに昇格し、本拠地エベッツ・フィールドで行われたフィラデルフィア・フィリーズ戦に出場してから75年が経ちました。

これにより、ロビンソン選手は、1884年に当時の大リーグの1つであったアメリカン・アソシエーションのトレド・ブルーストッキングスに所属したモーゼス・フリート・ウォーカー選手以来63年ぶり、近代の大リーグとしては最初の、公式戦に出場したアフリカ系アメリカ人選手となりました。

それまでキューバ人の選手が「褐色の人たち」と呼ばれて公式戦に出場することはあっても、アフリカ系アメリカ人選手の起用はなかっただけに、ロビンソン選手は大リーグに明確に存在した「人種の壁」あるいは「肌の色の違いによる障壁」を乗り越えたことになります。

1947年7月5日にクリーブランド・インディアンズがラリー・ドビー選手を大リーグに昇格させて公式戦に起用したことでアメリカン・リーグでもアフリカ系アメリカ人選手の登用が進みます。

そして、1955年にニューヨーク・ヤンキースがエルストン・ハワードを出場させたことで、当時の大リーグ16球団の全てにアフリカ系アメリカ人選手が所属することになりました。

従来、大リーグがアフリカ系アメリカ人選手を排除してきた背景に人種差別の問題があったことは周知のとおりです。

また、大リーグという枠組みから除外されたことで、アフリカ系アメリカ人選手の受け皿としてニグロ・リーグが結成されたことは、人種の違いに基づくリーグの編制という考えを間接的に肯定するものでもありました。

一方で、第二次世界大戦においてアフリカ系アメリカ人が白人の兵士とともに各地の戦場で勲功を挙げたことは、少なくともスポーツの分野における人種の違いによる差別の合理化を難しくしました。

もちろん、ロビンソン選手の登用については、フィリーズの対戦拒否の宣告を初めとして、様々な妨害がありました。

しかしながら、当時のドジャースを差配したブランチ・リッキーがファーム制度の確立を推進するなど球団経営の専門家であり、アフリカ系アメリカ人選手を起用することが戦力の増進と観客動員の向上に寄与すると判断していた点は見逃せません。

すなわち、社会を取り巻く環境の変化と球団経営における利点があり、そしていかなる困難にも耐え得る精神力と選手としての卓越した技量を備えたジャッキー・ロビンソンと、ロビンソンを擁護する現実主義者のブランチ・リッキーがいたからこそ、1947年4月15日を迎えることが出来たのでした。

今や大リーグにおいてアフリカ系アメリカ人選手が占める割合は低下し、その代わりにヒスパニック系やアジア系の選手が台頭しています。

それでも、米国のプロスポーツ史上の画期となったロビンソン選手の活躍が色褪せることはなく、これからも世界のスポーツ史にとって「4月15日」は重要な一日であり続けることでしょう。

<Executive Summary>
Celebrating the 75th Anniversary for Mr. Jackie Robinson's Epoch-Making MLB Debut (Yusuke Suzumura)

The 17th April, 2022 is the 75th Anniversary for Mr. Jackie Robinson's MLB Debut in 1947. In this occasion we examine a meaning of its epoch-making aspect and realistic reasons by which Mr. Robinson could overcome the "Coloured Barrier" of the MLB.

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