【評伝】ウィリー・メイズ氏--1960年代のもっとも偉大な野球選手

現地時間の6月18日(火)、大リーグで歴代第6位となる通算660本塁打を記録し、野球殿堂でも顕彰されているウィリー・メイズさんが逝去しました。享年93歳でした。

1948年にニグロ・リーグのバーミンガム・ブラックバロンズに入団し1950年に大リーグのニューヨーク・ジャイアンツと契約したメイズさんは、翌年大リーグに昇格して121試合に出場し、打率.274、本塁打20本、打点68を記録して新人王となりました。

当時の他の多くの野球選手と同様に朝鮮戦争に従軍したため、1952年8月28日の試合を最後に入営します。

球界に復帰したのは1954年のことで、打率.345を記録してナショナル・リーグの首位打者になるとともに、ジャイアンツはリーグを制覇し、クリーブランド・インディアンズに勝利してワールド・チャンピオンとなりました。

この時、第1戦の8回、2対2の場面でインディアンズのヴィック・ワーツの一打を背走して追いかけた中堅手のメイズさんはジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズの中堅のフェンスにぶつかる直前に捕球すると、すぐに体を反転させて内野に送球し、タッチアップの走者を本塁でアウトにしました。

難しい飛球に対するメイズさんの好プレーは「ザ・キャッチ」と讃えられ、現在に至るまでワールド・シリーズを代表するとともに、球史に残る名場面として広く知られています。

ジャイアンツは1957年をもって本拠地をニューヨークからサンフランシスコに移転させたものの、メイズさんはジャイアンツの中心選手として活躍し、打率3割以上を10回、本塁打王を4回、ナショナル・リーグのMVPを2度獲得しました。

特に、1試合4本塁打を1回、3本塁打を2回、1シーズン中に50本塁打と20盗塁と30本塁打と40盗塁をそれぞれ1回ずつ記録し、打撃、走塁、守備のいずれでも高い水準で成果を残す、活気に満ち、溌剌とした選手としてスポーツ専門誌『スポーティング・ニューズ』によって1960年代を象徴する存在に選出されてもいます。

最後は1962年に発足したニューヨーク・メッツに移籍し、1974年に22年間の大リーグでの生活を終えました。

資格初年となる1979年に野球殿堂に選出されたのは、現役時代の傑出した成績からすれば当然のことでした。

しかし、その直後に大きな問題に直面します。

すなわち、ニュージャジー州のアトランティック・シティにカジノを所有するバリーズ・アトランティック・シティと契約を結んでいたことが問題視され当時のボウイ・キューン・コミッショナーから当時打撃コーチとして所属していたメッツを選ぶかホテルを取るかを迫られたのでした。

ホテル側としては高い知名度を誇るメイズさんを重要な顧客の接遇のために雇い入れたものの、1919年のワールド・シリーズにおける八百長問題によって一時は存続の危機に瀕した球界としては、賭け事の世界とはいかなる関係も持ちたくないというのが本音でした。

そのため、メイズさんに対して球界に留まるか否かの選択を問い、メイズさんは10年の契約のあるホテルを選ぶと表明しました。

球界の秩序の保護者を自任していたキューン・コミッショナーはメイズさんの発言を受けて球界からの追放を決定したのでした。

賭け事や八百長との関係が疑われることは球界の健全な発展を阻害するというコミッショナー側の態度に対して、球界の発展を担ってきたメイズさんの追放は性急なものであり、より穏当な措置もあるという意見があったものの、処分が覆ることはありませんでした。

メイズさんの追放が解除されたのはキューン氏の後を継いだピーター・ユベロス氏が、コミッショナーに就任した翌年の1985年のことでした。

ここには、キューン氏と「球界の最高経営者」を称しテレビ局と大型の放映権契約を結ぶなど収益を上げる新手法を積極的に導入していたユベロス氏との間の態度の違いや、野球が娯楽から産業へと転換していた時代の変化がありました。

そして、追放解除を受けたことで、メイズさんは野球関係の催事に何の制約なしに出席できるようになり、復権を果たしたのでした。

日本人最初の大リーグ選手である村上雅則さんが、ご自身が実際に見た中で最高の選手と繰り返し指摘されるように、メイズさんはしばしば球史に屹立する存在です。

晩年は眼の疾患により公の場に登場する機会が減ったものの、2015年にはバラク・オバマ大統領から文民として最高の名誉である大統領自由勲章を授与されるなど、アフリカ系米国人の地位の向上に寄与したことも大きな功績の一つでした。

大リーグでの最初の安打がボストン・ブレーブスの主戦投手のウォーレン・スパーン選手からの本塁打であったことや、1951年に出場した最初のワールド・シリーズで対戦相手のニューヨーク・ヤンキースにいたのが同じく新人であり、後にどちらが優れた選手かという議論の対象となったミッキー・マントルであったことなど、野球の歴史に大きな足跡を残した選手とも深くかかわっていたのがメイズさんでした。

「同時代の選手で最も優れていたのは誰か」という問いに「私です」と答える自負心の強さを実際の成績で証明し、後に背番号24はリッキー・ヘンダーソン、ケン・グリフィー・ジュニアなど優れたアフリカ系米国人の選手たちに継承されるなど、球史に画期をもたらしたメイズさんのご冥福をお祈り申し上げます。

<Executive Summary>
Critical Biography: Willie Mays, the Greatest Baseball Player of the 1960s (Yusuke Suzumura)

Mr Willie Mays, a Home of Famer and former player of San Francisco Giants and other two teams, had passed away at the age of 93 on 18th June 2024. On this occasion, we examine his efforts and achievements.

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