石橋湛山は首相を辞任しなければなかったのか

2月23日は、石橋湛山が1957(昭和32)年に首相を辞任した日です。

2か月の療養が必要という医師団の診断を受け、書簡を通して退陣を表明した石橋の判断は「まことに淡々として、一身の感情や利害を棄てて、政治の停滞を避けようという行動」[1] 、「せっかく待望の地位をえながら、その志を果たせなかった気持ちは、まったく同情にたえない」 [2]、「石橋書簡は保守党再建の捨石となるために、正しいと思って身を引くのだという情熱に満ち溢れていた」 [3]と、当時からおおむね好意的でした。

また、世論や野党も石橋の退陣を望まず、むしろ首相臨時代理の職を設け、病状が回復した後に公務に復帰する声が根強くありました[4]。

しかし、石橋湛山は周囲の要請ではなく、自らの「政治的に良心に従う」として辞職しています。

それでは、石橋湛山には退陣以外に選択肢がなかったのでしょうか。あるいは、世論の声に従うことができる、何か別な方法があったのでしょうか。

私が著書『政治家 石橋湛山』(中央公論新社、2023年)の中で、「医学的判断の妥当性」「政権内の方針」「自民党内の状況」「野党との関係」「世論との関係」という5つの視点から検討した結果は、「自民党内の状況」が大きく影響していたことを示しています[5]。

ここには、総裁選挙において7票という僅差で勝利し、党内のほぼ半数が支持しなかったという政権の基盤の弱さゆえに加療のための長期の休養が難しく、政権を担当し続けることが不可能であったという、石橋湛山を取り巻く現実的な状況がありました。

それとともに、有権者から惜しまれつつ辞職したことは、かえって石橋湛山が中国やソ連との関係改善に取り組むだけの政治力を維持することを可能にしました。

その意味で、石橋湛山の辞任は一見すると不幸な出来事であったものの、実際には国民の信頼の獲得に成功したことで、今日に至るまで肯定的とも言える石橋湛山の像を確立するために大きく貢献したと言えるのです。

[1]当を得た石橋首相の進退. 読売新聞, 1957年2月23日朝刊1面.
[2]石橋内閣の総辞職. 毎日新聞, 1957年2月23日朝刊1面.
[3]九週間の短命内閣. 朝日新聞, 1957年2月23日朝刊1面.
[4]鈴木委員長、首相を見舞う. 朝日新聞, 1957年2月2日朝刊2面.
[5]鈴村裕輔, 政治家 石橋湛山. 中央公論新社, 2023年, 第4章.

<Executive Summary>
What Was the Meaning of Ishibashi Tanzan's Resignation of 23rd February 1957? (Yusuke Suzumura)

The 23rd February, 1957 was the day of Prime Minister Ishibashi Tanzan's resignation. On this occasion, we examine the meaning of his resignation focusing on its political meaning.

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