「斎藤隆夫の衆議院からの除名」から80年を経てわれわれは何を学ぶべきか

昨日、1940(昭和15)年3月7日に立憲民政党の代議士であった斎藤隆夫が衆議院を除名されてから80年が経ちました。

斎藤の除名については、同年2月2日に斎藤が米内光政内閣の支那事変への対応を問う「支那事変処理に関する質問演説」、いわゆる反軍演説を行ったことに起因することは広く知られるところです。

演説の趣旨は、5点からなっていました[1]。

(1)1938(昭和18)年12月22日に事変処理に関する方針を示すために近衛内閣が発表し、「善隣友好、共同防共、経済提携」の原則を明らかにしたいわゆる第3次近衛声明の妥当性と適切性。
(2)1938年11月3日の第2次近衛声明の中でも示されたいわゆる東亜新秩序建設の具体的な内容。
(3)世界の歴史の趨勢から、東洋及び世界の恒久的な平和が実現可能であるか否か。
(4)発足が噂されていた汪兆銘を首班とする中華民国の新政権、いわゆる南京国民政府と日本との人的、物的、経済的関係のあり方。
(5)「建国以来ノ大事件」である支那事変について、勃発以来の歴代内閣の責任を問うとともに、事変の処理に対する方針を積極的に国民に対して説明することの要求。

以上のような演説が行われると、内容が反軍的であるとして軍部や親軍的な諸政党が反発するとともに、事態を穏便に収集したい立憲民政党首脳部の意向もあり、3月7日に斎藤は衆議院を除名されることになったのでした。

一方の経緯については、演説の3分の2以上の内容が議会の速記録から削除されたことで、大多数の国民にとっては演説の内容を知り得ないまま斎藤の除名が決まったことになりました。

そのため、斎藤の除名に対して、「初めから終りまで、除名の理由は闇取引、そこにこの事件の時局性が明示されていゐる」[2]といった批判がなされています。

また、立憲民政党は斎藤の除名に賛成することで党議を決定したものの、岡崎久太郎が反対票を投じ、立憲民政党と対立する立憲政友会でも、宮脇長吉、名川侃市、牧野良三、芦田均、丸山弁三郎の5名が除名案に反対しました。

これに加えて、軍部と連携する形で斎藤への懲罰に賛成していた社会大衆党でも賛否両派の対立が表面化し、軍部寄りの麻生久が衆議院本会議を欠席した党首の安部磯雄ら8名を除名するなど、「政黨陣営に一大異變を現出する」[3]事態に陥ったのでした。

こうした出来事は、時局に便乗して勢力を拡大しようという親軍的な勢力と時局に反対する勢力とが政党内で対立した結果もたらされたものでした。

しかも、「聖戰目的を侮辱し八紘一宇の民族精神を否認するとゝに充滿の皇軍英靈を冒涜するものである」といった軍部の反発[4]に抵抗せず、むしろ積極的に同調する形で斎藤の除名に賛成した立憲民政党には「怯懦なる態度」[5]といった批判が寄せられることになります。

あるいは、党議決定をしながら造反者を出したことで、総裁の町田忠治をはじめとする党幹部も威信を失墜させることになりました。

もとより、斎藤が「反軍演説」と除名が行われた1940年と現在とでは、日本における政治や社会の状況は異なります。また、斎藤の除名を踏まえ、日本国憲法下でも国会議員に対する懲罰としての除名が第58条2項に定められているものの[6]、これまでに適用されたのは1950(昭和25)年の小川友三と1951(昭和26)年の川上貫一の二人に留まっており、日本が主権を回復した1952(昭和27)年4月28日以降は国会議員の除名はなされていません。

しかし、1940年当時のように軍部が政治に関与する事態はなくなったとは言え、院外の勢力と結託し、あるいは与党が政権を安定して運営するために野党を抱き込み、あるいは野党が利権の一部に与ろうと暗通することは今日でも決して珍しくないことです。

それだけに、斎藤の除名の一件は、今なお政党や政治家に対して、目先の利益に惑わされて「闇取引」を行うことを戒めていると言えるのです。

[1]齋藤隆夫, 齋藤隆夫政治論集. 齋藤隆夫先生顕彰会, 1961年, 19-42頁.
[2]よみうり直言, 読売新聞, 1940年3月8日夕刊1面.
[3]政黨は何處へ行く, 東京朝日新聞, 1940年3月11日朝刊2面.
[4]陸相けふ全面的反駁, 読売新聞, 1940年2月3日朝刊1面.
[5]齋藤氏問題と民政黨の責任, 読売新聞, 1940年3月7日朝刊3面.
[6]日本国憲法. 第五十八条二項.

<Executive Summary>
What Is a Meaning of Saito Takao and His Expulsion from the Imperial Diet of 1940? (Yusuke Suzumura)

The 7th March 2020 is the 80th anniversary of the eplusion of Saito Takao, a member of the House of Representatives, of the 7th March 1940. On this occasion we have to examine a meaning of a such expulsion.


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