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数学と証明と物語と。【第4話】2次方程式

雨。部室が湿っている。空気が湿っている。深く呼吸をしてみる。雨の匂いだ。雨の匂いがする。小さな雨粒たちが窓にぶつかってくる。遠くで雷が鳴っている。嵐の予感。というか嵐そのもの。帰るの大変だなぁ。傘はあるけど濡れることは必至。

数学研究部の部室にはいつも通り、私と明人の二人がいる。素数。紗香さんは今日も来ないだろう。バイトが大変なのかな。紗香さんはいつも忙しそうにしている。本当はもっと数学を教えてもらいたいけど、忙しいなら仕方がない。私と明人だけで数学研究部を盛り上げていかなくては。とは言うものの、明人は黙々と一人で数式と戯れている。私には目もくれず。

今日は2次方程式と遊んでみようと思う。ノートを広げる。まっさらなページを開く。今日の日付を書く。私は数学が好きだ。数学の世界には常に新しい発見や驚きが待っている。そして2次方程式は私にとっては昔からの友達のようなもの。その中には無限の可能性が秘められているはず。

2次方程式 $${ax^2+bx+c=0\;(a\not=0)}$$ の根は

$$
x=\frac{-b\pm\sqrt{b^2-4ac}}{2a}
$$

である。

このことを証明してみよう。

【証明開始】まず、

$$
\def\arraystretch{2.0}
\begin{array}{}
ax^2+bx+c &=& 0 \\
a(x^2+2\frac{b}{2a}x+\frac{c}{a}) &=& 0
\end{array}
$$

というように $${a}$$ でくくれる。

ここで

$$
(x+\frac{b}{2a})^2 = x^2+2\frac{b}{2a}x+\frac{b^2}{(2a)^2}
$$

なので

$$
\def\arraystretch{2.0}
\begin{array}{}
a(x^2+2\frac{b}{2a}x+\frac{c}{a}) &=& 0 \\
a\lbrace(x+\frac{b}{2a})^2+\frac{c}{a}-\frac{b^2}{(2a)^2}\rbrace &=& 0 \\
a\lbrace(x+\frac{b}{2a})^2+\frac{4ac-b^2}{(2a)^2}\rbrace &=& 0
\end{array}
$$

となる。

$${a\not=0}$$ なので両辺を $${a}$$ で割ることができる。

$$
(x+\frac{b}{2a})^2+\frac{4ac-b^2}{(2a)^2} = 0
$$

右辺へ移項する。

$$
(x+\frac{b}{2a})^2= \frac{b^2-4ac}{(2a)^2}
$$

左辺の $${2}$$ 乗を外す。

$$
x+\frac{b}{2a} = \pm\sqrt\frac{b^2-4ac}{(2a)^2}
$$

最後に移項して完了。

$$
\def\arraystretch{2.0}
\begin{array}{}
x &=& -\frac{b}{2a} \pm\sqrt\frac{b^2-4ac}{(2a)^2} \\
&=& -\frac{b}{2a} \pm\frac{\sqrt{b^2-4ac}}{2a} \\
&=& \frac{-b\pm\sqrt{b^2-4ac}}{2a}
\end{array}
$$

【証明終了】

証明が終わっても雨は一向に止みそうになかった。それどころか増々激しくなっている気がする。今のうちに帰ったほうがいいのかも。いや、それか雨が弱まるまで待つのもアリ。二者択一。

明人のほうに目を向けると、明人も窓の外を眺めていた。明人の目にはどこか遠くへ思いを馳せるような静かな輝きがあった。部室の電灯の明かりがそんな彼の目の中にほんのりと反射して、窓に打ち付ける雨粒と対照的な静けさを感じさせている。何を見ているんだろう? 部室の壁掛け時計の針が、静かに時間を刻んでいる音が聞こえてくる。

部室の外、廊下からは他の部活の部室からの話し声や笑い声、活発な足音が時折聞こえてくる。だけど、数学研究部の部室はその中でも一際静かだった。雨の音と時計の音、そして数学の美しさと奥深さに包まれた部室で、時間はゆっくりと流れているように感じられた。心地良い。これが数学の時間なんだ。

部室を見回してみる。ホワイトボードには数式やグラフが書き殴られていて、私たちの思考の跡が映し出されている。本棚には古びた数学の書籍たちが整然と鎮座している。書籍の中には栞や付箋が挟まっているものも多い。そこには先輩たちがこの部室で数学を研究していた歴史が詰まっているのだ。私はそのことがたまらなく嬉しかった。

「そろそろ帰ろうか」

いつの間にか明人が荷物を持って私の隣に立っていた。まっすぐ私を見つめている。純粋そうな瞳。私と同じ数学を愛している目だから分かる。明人は悪い奴じゃない。紗香さんもそう。数学研究部のメンバーは愛にあふれている。最高の部活。最高の空間。最高の時間。

「そうだね」

私も帰り支度を始めた。

「今日は?」

「2次方程式で遊んでた」

「へえ、証明?」

「そう」

「本当に証明が好きなんだね」

「明人は?」

「好きだけど、苦手」

「また教えてあげようか?」

「頼むよ」

私は帰り支度を終えてカバンを背負った。

「じゃあ帰ろっか」

「傘は?」

「大丈夫、持ってる」

私と明人は部室を後にした。

第4話、おわり


参考文献① : 笹部貞市郎『定理公式証明辞典』
参考文献② : 結城浩『数学ガール』


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