(小説)星の降る街 1
飛行機は何度か雷を受け機体を大きく揺らしながらパリのシャルル・ド・ゴール空港に着陸した。機内からターミナルに繋がる渡り廊下が劣化しているのか、内側に激しい雨が滲み込んでいた。窓の外を見ると午後三時とは思えないほど暗い。
乗客の波に押されるように入国審査へと向かった。先頭の方で何かトラブルがあったのか人が多過ぎるのか、EU内国籍のゲートは順調に流れていたが、それ以外の何か所は全くといっていいほど進まなかった。普段なら怒り心頭に発して、心の中で毒づくところだが、無感情のまま立っていた。
この空港だけではなく、世界が止まっていれば掛井有里は生きている。どこかにいるはずだ。少年の頃に、時間を止めることが出来たらどんな至福が訪れるのだろう、とよく思っていた。最近は日課のように、滑稽な妄想が頭の中を占領していた。
「本谷雅春さんですね、フランスは観光でお越しになられましたか」
流暢な日本語で声をかけられた。いつの間にパスポートを提出したのか、私は入国カウンターの前にいた。まるで夢遊病者だ。
「いえ、サンティアゴ巡礼です」
満面の笑みだった入国審査官は真顔になった。
「日本は大きな震災を経験しましたね。お見舞い申し上げます」
私は謝意を口にしながら、小さな声で言った。
「愛する人が津波に浚われて、まだ行方不明です」
と付け加えた。なぜそのようなことを言うのか自身が不思議だった。あまりにも日本語が堪能なので聞いて欲しかったのかもしれない。
審査官は伏し目がちとなり、「巡礼の出発地点、サンジャン・ピエ・ド・ポーの最寄り駅はバイヨンヌです。出発駅はパリ南部のモンパルナス駅ですよ」とまで案内してくれた。無論、調べているのを承知で言ったのだろう。心遣いが嬉しかったが、この先、何人に震災の話を聞かれるのか少し憂鬱になった。
「ブエン・カミーノ(良い巡礼を)」
胸で小さく十字を切って、パスポートを渡してくれた。
荷物を受け取ると着陸して二時間近くたっていた。空港駅からパリ近郊鉄道に乗り、パリ北駅で地下鉄四号線に乗り換えて、モンパルナス駅に向かった。雨は止む気配もなく、ずぶ濡れになりながら予約してあった駅前の小さなホテルに入った。
パリらしくレンガ作りの洒落た外観だったが、部屋は小さく、壁には染みがいたるところにある。貧相とも思える室内は長旅の疲れに加え、外気で冷えた体を硬直させるようだった。気分は萎えていくばかりだ。長時間移動で疲労困憊したせいか、ベッドに横たわると瞬くまに眠りに堕ちた。
「本谷さん、本谷雅春さん、耳鼻科受付まで至急お越しください」
病院の館内放送にしては大きな音量だ。前回初診の際は、会計窓口で支払いを済ませてまっすぐに帰ったが、この日は検査疲れをしたのか頼りない歩行しか出来なかった。普段なら入ることはない、昭和時代風の簡素な喫茶室で休憩がてら珈琲を飲んでいた。
「館内放送で呼ばれた本谷です」
三階にある耳鼻科の受付窓口でそう名乗るとすぐに診察室に通された。
先程診察してくれた医師が神妙な面持ちで座っていた。椅子に座るように手招きし、少しうつむき加減に話し始めた。
「来週の手術ですが、ちょっと難しくなりました」
そう言って、モニターを私の方に向け、耳鼻科なのに肺の部分のCT画像を映し出した。素人でも分かる腫瘍らしき影が映っている。
「これは癌ですか」
私は、ゆっくりと小さな声で聞いた。
「恐らく、いや間違いないでしょう。悪性の腫瘍ですね。この位置はそうでしょう。呼吸器の先生に電話しておきましたのですぐに行ってください。とりあえず来週の手術は中止です。嚢症どころの話ではないと思います。こちらの症状は抗生物質などの薬で抑えておきましょう」
医師はカルテと画像を交互に見ながら私の顔を覗きこんだ。優しげな表情が深刻さを示していた。四十年前に蓄膿の手術をしていたが、同じ個所が再び化膿した術後嚢症ということだった。右の顔が腫れ上がり、頭や歯、肩までが痛くなり、近所の耳鼻科医院で診察を受けていた。三日たっても痛みが治まらないので、医師にもっと効く薬はないかと懇願すると、手術をすれば簡単に完治すると言われ、紹介された病院を訪れていた。
「間に合うのでしょうか」
全く予期していない展開にそう言うのがやっとだった。
「専門外なのでよく分かりません、呼吸器の医師も待ってくれていますのですぐに行ってください」
耳鼻科医は腕時計を見ながら、画像から目を離さない私を急かした。もう午後の一時になっていた。休憩時間を割いてくれているのだと思いお礼の言葉もそこそこに、早足で二階の呼吸器科に向かった。受付窓口近くは診察待ちの患者らで混み合っていたが、すぐに診察室に通された。
「精密検査はあまり間を置かない方がいいでしょう。年齢からして進行が早いことも考えられます。もともと嚢症の手術を予定していた来週に入院してください。二泊三日でやりましょう」
小太りでややきつい目をした女医はいきなりそう言った。
「進行が早くなるほど若くはないでしょう」
思わず大きな声になった。私に挨拶のタイミングも与えず、体調すら聞かないことに驚いた。肺の音を聴くとか診察はしないのか。医者としては珍しくもない病気だろうが、まさか癌だと思って来ていない患者は動揺しているのだ、と心の中で叫んだ。
「いや、この病気にしては若いですよ。肺癌は圧倒的に六十歳以上の方が多いですからね。それに五十代では細胞がまだ活発なので進行が早くなることもあります」
表情も変えずそう言い放った。
「随分いきなりの告知なんですね。やっぱり癌ですか」
「画像を見る限り、間違いないでしょうが、進行がそう早いものではなく、非小細胞癌だと思うので深刻には考えないでください。癌は怖い病気には違いないですが。しかし精密検査しないとなんとも言えません」
愛想というものが全くない。笑顔を作るとか、穏やかな声で話したり出来ないのか。いくら感情を表に出さない職業の人でも、これでは人としての礼儀すらなっていない。言葉以上に高飛車に思える態度にも憤慨した。しかも、癌の説明もない。小細胞癌は進行が早く見つかったら腫瘍が小さくても末期とか非小細胞癌に分類される扁平上皮癌は比較的進行が遅いが、その中の大細胞癌は他と比べると早いなどは後日自分で調べて知った。
「違うということもありますか」
私は医師への怒りと、病気への不安があいまった動揺を隠すように低い声で聞いた。
「今の段階では、もちろんありますが、検査が終わるまではあまり考えないで、はい」
それ以上は聞かず、それ以外の説明もなかったので入院手続きをして帰途に就いた。高慢な女医にいささか閉口したが、今はそういうことさえ考えてはいけないのだろう。
正月も終わったばかりだ。携帯電話を握りしめながらも、誰かに報告する話ではないと思った。しかし、心のざわめきを抑えることが出来そうにはない。
癌と言えば、一般的には死に直結している。私はそう思っているし大抵の人もそのはずだ。いくら効果的な薬が出来たところで、周りの人に何年も生きた人はいない。人はいつか死ぬが時期を約束されてはいない。癌は、大まかに余命を決められているだけだ。たかがその違いだ、そう思うように努力した。
しかし、やり場のない気持ちを抑えることは簡単には出来そうになかった。病院を出てすぐの片側一車線の細い道路を渡ると、旧安田庭園がある。周囲はビルで囲まれているが、箱庭に佇んでいるようで妙に安心感のある場所だった。寒さのせいなのか誰もいなかったが、今の私にとってはその方が快適さを与えてくれる。池で遊ぶ鴨の家族を木製のベンチに腰掛けてじっと眺めていた。どれくらいそうしていたのだろう。気温は二、三度だろうか、すっかり体は冷え切っていた。両手を吐息で温めながら庭園を出ると、両国国技館の前は大相撲初場所の開催中なのか大勢の観客が並んでいた。
外国人も多くいた。日本の国技に見物の外国人がたむろしているのは違和感を覚えたが、よく考えてみるとタイに旅行した時にムエタイを見に行った。日本人など外国人が多くいた。タイ人にとっては、このように見えていたのか。違和感の正体は、髷と外国人が不釣り合いなのか。それとも他に何かあるのだろうか。答えを出さなくてもいいことに滑稽なほど思いを巡らせた。そのように余計なことを考えないと深く暗闇に落ちて行きそうな心持ちだ。
自分の弱さをこれほどまでに知ることにはなかなか出合えない。大抵の場合、心の内で立て直し、鼓舞する。それが普通だが、坂道を降りてもいいのではないかと考え始めていた。きつい斜面で筋肉を限界まで硬直させて、荒い息のまま登るよりも転げ落ちた方が楽になる。
私は少しばかりの悲劇に陶酔しているのかもしれない。その証拠にコートの襟を立て、映画俳優さながらに眉間に皺を寄せている。
突然、「相撲レスリングの会場はここでいいか」と聞かれた。私は「間違いないが、もっとも強い横綱の取り組みは夕方だ」と教えたことを後悔した。アメリカから来たという七十歳くらいの夫妻にさんざん大相撲について質問攻めにあった。私はあきらかに駅を目指そうと体を捻っているのに、旅先独特の高揚を見せながら、さらに話そうとする夫妻のデリカシーのなさに驚いた。
仕方なく「今、病院で肺癌を疑われたばかりだ。帰らせてくれ」と小さな声で、それでも力を込めて言った。だから浮かれた外国人旅行者は嫌いだと言いそうになったが、それは飲み込んだ。背の高い夫妻は急に、身長百七十センチの私を上から見下ろすようにし、大げさに私を抱きしめようとした。それには構わず背を向けた。
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