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(小説)星の降る街 3

 私は元々大手の総合食品メーカーに勤務していた。三十八歳から五年間、広報部で商品カタログや小冊子、広報誌などの執筆や編集作業が主な業務だった。その時の取引先という縁で、離婚とほぼ同時に会社を辞め、文京区にある編集プロダクションと契約し、編集者として仕事をしていた。本を作るような大きな仕事は自宅へ持って帰っても出来るが、効率よく稼げる特急制作物の広告代理店からのパンフレットや官公庁の広報物など打ち合わせの必要な企画デザインや執筆物は出勤しないと出来なかった。赤田社長に事情を説明して一ヵ月休みをもらい、その間、どこにいても出来る、自分史を書いて来た自費出版予定の人の原稿手直しの仕事をもらった。出勤しない分、安い仕事だが仕方ない。
 仕事の区切りがついたところで、岡山市に住んでいる長兄に電話した。
「急になんだ、どうせろくでもない話だろ。十年前は解雇された話、六年前は離婚、しかも離婚してから数年経っての事後報告。三年前は交通事故での入院。で、今日は?」
 それしか電話していないのか、自分に呆れながらも。癌の発見からこれまでの流れをひと通り説明した。 
「親孝行も最後になるかもしれないから、二週間ほど帰る」
 続けて次兄にも電話したら全くと言っていいほど同じ会話になった。
「お遍路せい、病気を治すには四国八十八ヵ所参りだとお袋に言われるぞ」
すでに九十五歳で少しボケ始めた父と何度も転んでは骨折を繰り返す九十歳の母親に詳しく病気のことを言うつもりはなかった。しかし、八十八ヵ所参りはしようと思った。神や仏に頼ろうとする気持ちはなかったが、島を一周するように配置された石仏たちと触れ合うと、島に抱かれている実感が得られる。子供の頃から何度も回ったが何度行っても違う感慨が得られる時間が好きだった。
 
 
      *
 
 
 小さな港の中は次第に膨れ上がり、最奥にある水門の前で渦を描いている。潮が満ちて来たのだ。港東側の浮桟橋うきさんばしは、目を凝らさないと揺れているのが分からない。波は岸壁を撫でるように寄せるが音は聞こえない。この日の海の穏やかさを示していた。漁業組合事務所棟の裏山から三十メートルほど登ったところにある妙見神社の右側から朝の光が強さを増してきた。
 港の西側にある旅客船の船着き場は静まり返っている。澄んだ空気が潮の香りと漁船が使うエンジンの燃料の匂いを運んでくる。
私は島の半分を見渡せる半鐘の梯子に腰かけていた。
「八十八ヵ所参りか。ご苦労さんじゃのう。頭陀ずだぶくろには米をようけ入れてるか」
 島の作法は本四国の寺に見立てた石仏やほこらの前に米を一摘み捧げる。墓参りのように大きなやかんや桶を持って行くのも作法だという人もいたが、昨今は見かけることはない。いつの間にか米だけになったのは、周囲十キロあまりの小さな島とはいえ急峻なところも多く危険だからだ。岡山県笠岡かさおか市に属するしらいしじまの四国八十八ヵ所巡礼は、瀬戸内海の島々に数多くある仮想四国ともいえるもので、江戸時代の中後期あたりから設置されている。すぐ近くにも神島こうのしま四国八十八ヵ所がある。本四国には容易に行けなかった島人たちの知恵なのだろう。
「米はいっぱい持っているよ」
 と答えたが、どこの誰か知らない老人だ。目を合わせることもなくうなずきながら通り過ぎていった。わずか五百人ほどの島なので全員顔見知りのはずだが、時折そういう人がいる。おそらく若いころに島を出て、年老いて都会から帰ってきた人なのだろう。
 私は長兄と一緒に巡礼するために、半鐘の梯子に腰をかけたまま待っていた。兄は認知症が始まった父に手を焼いているのか三十分ほど待っていても来なかった。
 父は極端な明るさと癇癪かんしゃく持ちという二重人格的な性格なので、少々おかしくても誰も気にしていなかった。知らない人から見たらかなり認知症が進んでいるように思えるかもしれないが、家族からすると九十五歳にしてはまともだと思う。
 私は一年前に法事のために帰省していたが、その時は参列者対応や料理の手伝いなどで忙しいばかりだった。こうして心静かに故郷で過ごせるのは十数年ぶりだ。
「本谷雅春、寒いのにいつまでそこに立っているんじゃ」
 いきなりそう言われ、さらにたたみかけられた。
「気合が足りん、前にならえ、敬礼」
 家の中から見ていたのか隣家のハチジイがおどけた表情で近付いて来た。名字から呼ぶ時は子供のころから、近所の子供相手にいたずらをする時だった。戦時中、海軍で仕込まれたというが、普通の大きな声だ。昔のように一瞬何かいたずらをされると構えたが、足を撫でてくれて拍子抜けした。
 瀬戸内海の島々は温暖な気候とはいえ、この日の気温は五、六度だろうか。足はすっかり冷え切っていた。島に帰って三日目、家族以外の人間と話すのは二人目だった。正月でも彼岸でもない二月、帰省する人などはいないからだ。限界集落という言葉が出来た一九九一年には、すでに老人の島になっていた。もう二十年あまり同じ雰囲気を保っているのではないだろうか。
 私が子供の頃からハチジイと呼ばれていた。父よりも年上の百歳くらいのはずだ。ということは半世紀ほどハチジイをやっている。今では五十代前半ではジイとは言わないが、その頃は孫がいる人は島の人から名前の後にジイと付けられていた。
平蔵へいぞう兄貴を待っとる」
「雅春、お前はいくつになった」
「もう五十五じゃ」
「そんなら一人で歩けるじゃろ。昼から雨が降るかもしれん。兄ちゃんを待たずに、はよう行った方がええぞ。そうせい」
 幼子を諭すように優しげな声だ。ハチジイにとって私は小学生くらいのままなのかもしれない。
「約束しとるんじゃ」
 私の体調を心配して兄が同行してくれるという説明も面倒だった。というより、ハチジイは私に連続した答えを期待していないようだった。
「平蔵はいくつになったかのう」
 すぐに表情を変えてそう言ってきた。
「兄貴は六十五じゃ。普段は岡山で働いとる」
「ほうか岡山におるんか」
「ああ、近いうちに島に帰るらしいけどな。春になったら定年延長していた会社も退職じゃ」
「そうか、そりゃあええ。歳を取ったら帰ってこにゃあいけん。雅春、お前はいくつになった」
「五十五じゃ」
 何度も同じことを言わなければ会話が成立しないのは両親も同じだった。このタイミングにもすっかり慣れていた。
「朝飯は食ったか」
「食った」
「兄ちゃんは島にもどっとるか」
「もうすぐここに来る」
「そうか、平蔵は仙台じゃ言うたな」
 この程度の会話で負けてはいられない。私は妙に元気が出てきた。実家では携帯電話の電波が届かないが、三十メートルほど離れた半鐘近くの埋め立て地広場まで出てくるとメールなどが受信出来る。それで先に家を出て受信しようと思っていたが、そのことはすっかり忘れていた。
 ハチジイに誘われるように都会の児童公園風の埋め立て地を歩いていると、ブランコのすぐ傍に簡素なベンチがしつらえられていた。その近くにはヒイラギナンテンが本州より一ヵ月ほど早く薄い黄色の花を咲かせている。魔除けにもなると信じられていて、島では多く植えられている。
「ハチジイ、白石島の四国八十八ヵ所参りはしたことあるんか」
「ああ、毎年行ってるでー。歩くと弁当がうまい。仕事を辞めてからは運動代わりじゃった。クメ婆さんと何べんも行った」
「信心深いんじゃのう」
「雅春、あれは娯楽じゃ。どういう気持ちでもお大師だいしさまは怒りゃあせん」
 先ほどよりしっかりした顔でそう言って家に帰っていった。まるで信仰心のない私を見透かしているようだ。どこまでがまともか分からないが、体全体が小さくなり、少しばかり腰は曲がってはいるが、百歳とは思えないほどしっかり歩いている。
 認知症が進んでいるという話は聞いていない。歩き回って体を動かしていると案外脳は老化しないのかもしれない。
 ハチジイは笠岡にある炭酸飲料水の会社に勤めていた。定年退職とほぼ同時に奥さんのクメオバを亡くしている。身近な人の初めての葬式だったのでよく覚えている。クメオバとは呼んでいたがクメバアとは誰も言っていなかった。クメオバのまま死んだはずだ。ハチジイは「クメ婆さんと何回も行った」と言うが、本当は一人で回ったがクメオバの魂だけを連れて回った、そう解釈すると美し過ぎるだろうか。
 そんなハチジイの心模様に比べ、『同行二人』と書かれた白衣を着て、頭陀袋を首から提げた格好が何かしら滑稽に思えてきた。だけど誰かに見られる訳ではない。ただ太陽が上がってくるにつれてむず痒くなった。羞恥心という感情は人に対してではなく、自分に対して湧いてくる感情だ。太陽から降り注ぐ光を受けた自らを想像してそう思う。
 小学生の頃、畑仕事に行く母が化粧をしているのが随分不思議だった。いつも帰りは汗まみれだったからだ。ある時に、畑に行くのになぜ丁寧に化粧をするのか聞いたことがある。「お天道様に素顔を見せるのが恥ずかしいから」と言っていた。その時はいい加減に返事をされたと思っていたが、母は本気で言っていたのかもしれない。
 兄があまりにも遅いので何かあったのかと思い家に引き返した。
「兄貴、まだ時間がかかりそうか」
 玄関で声をかけると、なんと有里が現れた。
「マッサ、来ちゃった」
 少女のように、小走りで飛ぶように出てきた。嬉しいことがあったり、機嫌よく遊ぶ時はいつも跳ねているように走る。
「ニックネームは必要だね。付けてあげる。雅春だから、マッサ。石巻ではそういう短縮形。だから今日からマッサだよ」
 石巻の小学校に転校した日、学校の帰り道に、近所に住む有里がそう名付けた。白石島の小学校ではマサだったのに、その日からマッサになった。随分早そうな呼び名だと言うと、「それはマッハ」と言って笑い転げていたあの頃を思い起こさせた。
 父がそれまで勤めていた会社が五十歳の時に倒産した。それでも運良く、取引先だった海運会社の仲介で宮城県石巻市にある製紙会社に再就職が出来た。歳の離れた二人の兄はすでに島を出ていたので、小学校六年生になったばかりの末っ子の私だけが石巻について行った。
 結果的には父が重い胃潰瘍になり、三年間で石巻を離れ白石島に戻ることになった。
 兄が遅れて玄関先まで出てきた。
「さっき、海上タクシーで来たらしい。俺が二階で介護保険の書類整理をしているうちに、親父がヘルパーさんと間違えて掃除をやってもらっていたよ。しかも便所まで。申し訳けないの、なんのって」
 盛んに恐縮していた。
「私はおじちゃんに勘違いされていても、なんだか嬉しくなってやっていただけですよ。石巻の有里ですって言ったんだけど、分からなかったみたい。でも喜んでいらしたわ。昔はどちらかの家で、あれだけ一緒にお食事もしていても、もう四十年あまり経っていますからね。それに大人になってからの私を見ていないしね」
 有里は私と会っているときに石巻での日常生活の話はあまりしない。けれども、離婚して十五年、子供もなく、両親も二年前に相次いで亡くしていた。周りに友達はいても孤独な生活をしている。何かを期待されると嬉しいという感情が芽生えてくるのは理解できた。

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