書き切れなかった、メモのような日常と短編


*お正月、テレビを見ていた。風邪は治りかけていた。
ある芸人の方が、過去の自分を振り返って反省していた。
他人のことばかり羨んだり、足を引っ張ったり、努力していない自分を認めたくなかったり…。
「人間の暗くて汚い部分」を正直に語っていた。上辺だけの成功体験なんかより、よっぽど人間らしかった。


改めて考えてみた。
「自分は誰かの人生に嫉妬したことがあっただろうか。」
偽善を気取りたい訳ではなく、あまり思い浮かばなかった。


「すごいなぁ」という憧れや、自分の決めたハードルに結果が届かなかった時の自己嫌悪は多々あった。でも、嫉妬に狂って他人を「引きずり降ろそう」とか「失敗すればいいのに」とかまでは思ったことが無かった。

弟は言った。
「というか、人に興味ないじゃんwww」
…そうなのか?一応これでも人間だよ?

ふと気づいた。
「嗚呼、そうか。自分は嫉妬しなくてもいい人生だったのかもしれない。」
気付かないだけで、色々なことに恵まれていた。挫折と失敗が許されるゆとりがあった。
何よりも、私の考えや行動を「あなたはそれでいいんだよ!」と、出会った人たちが認めてくれた。
自分が勝手に他人と比べることはあっても、「いや、間違っているよ」と誰かから批判されることはあまりなかった。まあ、全速力で生き急いでいたから、誰も何も言えなかったのかも知れない。(笑) 


*ビアンカは思案していた。

彼女はこのフレーズが分析に値するかどうかを、ヒギンズ教授に確かめてみたかった。

Oh,my fair lady…
エドワードは彼女をみつめていた。


*『現代思想』11月号のタイトルがショッキングだった。

“反出生主義”とな。
「生まれて来なければよかった」というキーワード。ナチスの「優生学」が頭をよぎった。
誰もが生に対して少なからず考え、問い続けている。

どうして生きているのか。
その人独自の哲学観が問われるものだし、オリジナリティの見せ所だとも思う。
「せっかく」生まれてきたのか、「わざわざ」生まれてきたのか…。

真実はきっと、私の分だけ。



*昨年11月末、ローマ教皇が来日された。
新聞記事では、ある神父さんがインタビューに答えていた。

「今の日本には“宗教”ではなくて“宗教心”が必要だと感じます。」

もう、納得しかなかった。
的確な表現に心打たれた。
とある知人女性が、入信するわけではないが、興味を持って日本にあるモスクを訪問した際、彼女はそこにいる「日本人」の数にとても驚いたそうだ。皆心の安らぎを宗教や信仰に求めているのかもしれない。

日本にもメジャーからマイナーまで、多様な信仰を持っている方が一定数いるはずだ。
知らないだけ、というより「知ろうとしていない」だけ。
「別に特定の宗教を信じようとか思ってるわけじゃないんだけど~」という決まり文句の裏側には、なんとなく「宗教を持つ人々」への軽蔑を感じられる。

「あなたたちはなんだか信じているけど、私は違う、普通の一般市民。別にあなたたちを批判もしないよ。」みたいな冷たさ。…勘違いかな?



*沖縄のある地域では1980年くらいまで、ある信仰儀式が行われていたそうだ。
小さな小屋の奥に向かって、どんどん女性たちが吸い込まれていく。
彼女たちは踊りながら、何かを唱えながら、白い衣装に包まれている。可愛いかった。
小屋の奥は森に繋がっていて、小屋は「あの世」と「この世」の境界線的役割を担う。

今は後継者がおらず、儀式をやっていないそうだ。
「立ち入り禁止」と書かれた小屋の入り口。画面越しでもそこの空気は「こちら」とは異なるな、と感じ取った。
ぞわぞわ民俗学。柳田国男。



*科学雑誌『ニュートン』2月号を、パラパラ手に取った。
宇宙の終わりについて書かれていた。興味深い。
色んな解釈と説がある中、「宇宙自体が転生している」という考え方が目を引いた。
始まりと膨張、やがて終わり。そして再開。
これ、結構救われるよね。


*自分が3歳だと思えば、なんでもできる気がしない?
欲望全開で生きてみると、バカみたいに自己肯定感が上昇。

あれ?自分って結構タフだった?

ちなみに、私は知恵が付いてきたので4歳です。



*古い映画を観た。
例えるならそれは、甘いウイスキーのように後味が少し痺れた。
粋な大人たちの生き様に溜息。
妄想でも現実逃避でもなく、ずっと鍵が掛かっていた私の中の何かが、ピッタリの鍵でもって静かに解錠された。嗚呼、酩酊。


憂鬱な月曜日が始まる前に、私の記事を読んで「あ、水曜日くらいまでなら、なんとか息出来る気がしてきた」と思っていただけたら満足です。サポートしていただいたら、大満足です。(笑)